そして、誰のために祈るか
季節は、春から夏へと移り変わろうとしていた。
王都の空には、祝祭の準備を知らせる鐘が鳴り響いている。
イレーヌは、再びフローディア家の門をくぐった。
今度は招かれたのではない。彼女自身の意志だった。
迎えに出たのは、あのときとは別人のように痩せたミランダだった。
装飾もなく、顔色は青白い。それでも彼女は言った。
「……もうすぐ、離縁が成立するわ」
その声には、敗北のにおいも、解放の兆しもなかった。
ただ、疲れ果てたひとの音だった。
「私は、“祝福されなかったこと”を恨んでいた。でも……今は違うの。あのときあなたが祈っていたら、私は一生、偽りの中に閉じ込められていたかもしれない」
「……ミランダ様」
「私は、“祈り”というものが、無償の愛だと気づいていなかった。
でも今ならわかるわ。あれは“選ばれた者の覚悟”を問う光だったのね」
イレーヌは静かに首を振った。
「いいえ。祈りは、覚悟に報いるものであって、それを試すためのものじゃありません。……でも、あなたが本当に誰かと向き合いたいと思ったとき、私はいつでも祈ります」
ミランダの目に、初めて涙が浮かんだ。
「……そんなふうに、誰かに“待ってる”って言われたの、初めてよ」
*
数日後。
イレーヌは、小さな村での簡素な式に招かれていた。
かつて彼女が読み聞かせをしていた少女ティナの“育ての親同士”の再婚だった。
大聖堂のような煌びやかさはない。
装飾も少なく、参列者はご近所の人々ばかり。
けれど──ふたりは、手を取り合って立っていた。
どちらが主導でも、どちらが従属でもない。
式の終わり、イレーヌが小さな祈りを捧げる。
風が吹き、光が差し、草原の花々が揺れた。
それは、奇跡などではなかった。
ただ、その場にいたすべての人の“願い”が、ひとつの形をなしただけだった。
*
式が終わり、ナジルが声をかけてくる。
「いい祈りだったな。……今の君は、“誰のために祈るか”って、ちゃんとわかってる気がする」
「ええ。今の私は、誰かの期待のためでも、制度のためでもなく……ただ、“この人に祈りたい”と思える時に、祈ると決めたの」
ナジルは少し目を細めた。
「じゃあ、俺のことは?」
「……いつも祈ってるわよ?」
「毎日?」
「ええ。毎日。……時々は怒りながら」
ふたりは顔を見合わせて、笑った。
祝福とは、何かを肯定することではない。
未来に対して、「信じてみたい」と願うこと。
祈りとは、奇跡を期待することではない。
誰かの背を、そっと押すこと。
そして、選ばれることと、選ぶこと。
その両方を知った者だけが、きっと“祝福の本質”にたどり着ける。
イレーヌは、そっと手を合わせた。
──これはもう、誰かに頼まれた祈りではない。
これは、自分の人生のために、
“自分で選び取った誰か”に捧げる祈り。