祈れなかった理由
イレーヌのもとに届いた新たな依頼は、どこか違っていた。
──新郎:アーシェル=ヴォルト。
──新婦:ミランダ=フローディア。
──式場:王都中央聖堂。
──式の立会人:神殿上層部。
依頼書を見て、イレーヌの手が止まる。
(ミランダ……?)
それは、かつてイレーヌが“最初に祝福した花嫁”の妹だった。
ミランダ・フローディア。
公爵家の次女で、聡明だが猜疑心が強く、家の伝統に異常なほど執着している。
彼女は祝福の効果を「現象ではなく、政治装置」と捉えていた人物だった。
「イレーヌ様にお願いしたいのは“儀式”としての祝福です。個人的な感情や解釈は不要です」
事前面談でそう告げられたとき、イレーヌは違和感を覚えた。
祝福が、“心”を伴わずに成り立つものなのか。
そして、当日。
厳粛な空気のなかで式が進行する。
祭壇に立つイレーヌ。左右には新郎アーシェルと新婦ミランダ。
誓いの言葉が終わり、イレーヌが祈りを始めようとした、その瞬間。
──風が吹かなかった。
何の気配もない。光も音も──神の反応すら。
イレーヌの口が、祈りの文句を途中で止めた。
「……ごめんなさい」
声が漏れた。
この十年、一度もなかったことだった。
「……私、このふたりを祝福できません」
会場が騒然とした。
神殿関係者が即座に割って入り、新郎新婦の顔がこわばる。
イレーヌの胸の中では、まだ何かが引っかかっていた。
(これは私の感情? それとも──何かが、違う)
式を中断した彼女に、神殿は異例の“調査処分”を通告した。
形式に従わない巫女として、謹慎命令が下る。
それでも、イレーヌは口を閉ざさなかった。
「……もし、私の祈りが“誰のためにあるのか”を見失うのなら、それはもう祝福とは呼べません」
自らの信念を口にしたその瞬間。
彼女の中で、初めて“祝福の意味”が崩れ始めていた。
(祝福は、誰のためにある?
祈りは、どこまで“使って”いいの?)
静かに、そして確かに、イレーヌの信仰が揺らぎはじめていた。