第八話 王太子殿下の側近事情(ディオンside)(2)
『そもそもお前がさっさと婚約者を見つけてこんから、私があの手この手で仲立ちする羽目になったのではないか。それで痛い目を見たのはお前自身であろう』
『ご助力いただいたことには感謝しています。私としても懸命に相手を探してはいるんですよ』
『懸命に探している者は一年間も社交界を留守にせんわ』
『心得ております、陛下。ですが——』
『へいかっ?! 私はお前のなんだ! ただの君主か?! そうなのか、エリアス?! 泣くぞ! ここで私が泣いてもいいのか?!』
身も蓋もない言葉を並べる国王からは、先ほどまでの威圧感は一切感じられない。その声にははっきりと悲嘆の色が混じっていて、さながら妻に家庭での主導権を握られた酔漢がそのことを酒場で同僚に喚いているかのようだ。
ここが国王の私室で、かつ親子と各々の側近以外誰もいないことに、ディオンは心底胸を撫で下ろした。
『……失礼いたしました、父上』
はっきりと滲む面倒くささはそのままに、エリアスはすぐさま訂正を入れる。この王太子の父親は私的な会話の時に肩書きで呼ばれることを嫌う人だ。うっかりエリアスが呼ぼうものなら、こうして詰められてしまう。
ディオンが言えたことではないが、エリアスの周りには個性的な人間が集まりやすいのかもしれない。なんとも気の毒な話である。
『……身を固めることの重要性は認識しているつもりです。ですが、それは今ではありません。私にはやるべきことがあるとお伝えしたはずです。その点をご賢察いただいたうえで、私の要望を聞き入れてくださったのではないのですか』
『分かっている。だが、我々がお前の幸せを願っていることも忘れるな。なに、お前のことだ、必ずや良い家庭を築くであろう。これはアルディエン王国国王夫妻のお墨付きだ』
『……願ってもいないことです』
『それにな、エリアス。妻というのはとても尊い存在だ。母親を見てみろ。いつも私を温かく迎え、つまらぬ話も笑って聞いてくれる。かなりの頻度で……いや、極稀に恐ろしい時もあるが、私は彼女のことを心から愛しておるのだ』
『……そうですか』
惚気話を聞かされて辟易しているあたり、エリアスはちゃんと国王の息子なのだ。
だが、これに関してはエリアスの肩を持ちたい。側近のディオンですら、この手の話は耳に胼胝ができるほど聞かされているからだ。
(陛下がこうして殿下を煽てるのは、『政略結婚はさせない』という信念がお有りだからだと聞いたことがあるが……)
国王自身が王妃に一目惚れし猛アプローチの末に結ばれたことで、『愛のある結婚』の良さを実感したことが理由の一つらしい。
『それで、今回はどのように』
自らに因果を含めたような口調で、エリアスは国王に先を促した。
『新しい飼育係が見つかるまで、令嬢にその役目を任せてみようではないか。各人、猶予は一週間。その間にメルクが懐いた者を婚約者としよう』
『ですが、そのやり方ではメルクに負担がかかりすぎます。定期的に人が入れ替わるとなると、あの子も気が休まらないでしょう。私も四六時中そばにいられるわけではありませんから』
『なに、心配には及ばん。私が懇ろに候補者を選んでやる。すでに目星も付いているのだ。彼女たちなら——』
「ただの戯れ言と聞き流してくださって構いませんが……」
そう切り出したディオンは、主人が確認を終えた書類を仕分けながら先を続ける。
「メルクに殿下の婚約者を選ばせるというのは、私も画期的だと思ったのですよ。そうでもしなければ、あなたがご自身の婚姻に関心を向けることはないでしょうから」
実を言えば、新しい飼育係など一瞬で見つかるものだ。
獣医と違って専門的知識を要する役職でもないため、王宮に勤める使用人の中から動物の世話に慣れている者を充てがうだけでいい。
(欲を言えば、生き物に対して慈悲深い者が望ましいが。恐らく殿下はそうお考えだ)
なにせエリアスが絶対の信を置いていた前任者は、その点に関して右に出る者が無いほどの適任者だったのだ。
(飼育係のご令嬢に前任者と同等の技量を求めるのは酷だな。あくまで彼女たちは殿下の婚約者候補として王宮を訪れるのだから)
これまで迎えた四人の令嬢の顛末が順に脳裏を過る。そのいずれも彼女たちの望んだ結果ではなかっただろう。
(メルクが築く堅固な要塞をいかにして陥落するか——その攻略法さえ間違えなければ、目指す場所まではそう遠くないというのに……)
何気なく窓のほうへ目を向けると、ちょうど木に留まっていた小鳥が飛び立つところだった。名残惜しそうに細い枝が小さく揺れている。
こうして執務室の外に気を揉むことなく実務に集中できるのは、一体いつぶりだろうか。
「それで、どうされるおつもりですか?」
書類に署名する手を止めて、エリアスが顔を上げる。ディオンはあらたまった顔つきをして、「今回の飼育係です」と付け加えた。
これまでの令嬢はともかくとして、今のところ優等生なベアトリスが二人の間で話題に上ったことはない。侍者から報告を受けた際も、特段それについて意見を交わすことはしなかった。
ベアトリスが来て六日も経つというのに、そろそろエリアスの彼女に対する評価を知りたいのだ。
「どうもこうも、一週間勤め上げた暁には私の婚約者となるだけだ。そこに私の意思など必要ない」
一切の迷いなく再び書類にペンを走らせ始めたエリアスは、些か投げやりな口調で答えた。
「またそのようなことを。王太子というお立場にありながら結婚を強制されないなど、誠に恵まれた境遇なのですよ。殿下は滅多なことでは私心をお見せになりませんし、少しくらいその恩恵に浴されてはいかがですか」
仕分けの済んだ書類の束の端を机の上でトントンと揃えながら、呆れた調子で進言する。
「単に時期尚早というだけだ。必要性は理解している」
「その台詞は何度も耳にしました。ですが、その時期とやらが一向にやって来ないので、陛下も痺れを切らしていらっしゃるのです。本を正せば社交界に全く顔をお出しにならない、あなたが悪いのですよ」
「父上と同じことを言うな。大体、関係者の参加する食事会は皆勤賞だろう」
「そのような場にご令嬢はおりませんので、見逃して差し上げる理由にはなりません」
ディオンは頭を振り、斟酌の余地はないことをはっきりと示した。
この主人のことだ。その頑なな姿勢に理由があることぐらいディオンは分かっている。かと言ってエリアスが結婚に消極的であり続けることを良しとするつもりはない。
自分であることを認めてディオンを受け入れてくれる主人にこそ、そういう人が現れてほしいのだから。
それだけにベアトリスに関しては、訝る気持ちを抑えられない。
「本音を申しますと、私はあのご令嬢がよく分かりません」
「そうか? 報告が約やかであるという点において、俺は一目置いているが」
「それがより私を困惑させているのですよ。初日に申しました通り、彼女は屋内でも外套を手放そうとしません。はっきり言って不審です。それなのに職務に対する理解が早く、そつがない……。なにより、あの警戒心の強いメルクとたった四日で仲を深めたなど前代未聞で、かえって不正を疑いたくなります」
「要するに飼育係として申し分ない、ということだろう」
「違います! ……いえ、有能であることは否定しません。ですが、どうにもその行動の全てが眉唾物に思えて仕方がないのです」
声の端に焦りが滲んだ気がして、ディオンは押し黙る。
(そうだ……、彼女の飼育係としての働きに不満はじゃないか。ならば何故、私はこれほどまでに焦っているんだ……)
この六日間、絶えず心をざわつかせている不確かな要素——それを探るディオンの傍らで、エリアスが動きを見せた。