第五話 婚約者選考会審査開始(3)
翌日、王宮に来て四日目のこと。
もはや定位置である扉の前で読書をしていると、不意にメルクの気配がした。
(すぐそこに……いるの?)
オリヴィアは顔を上げることなく、意識だけをメルクの動きに集中させる。
(我慢よ、私がここで動いたら全てが水の泡。自主的に寄ってきてくれるのは、明らかに良い兆しなんだから……!)
そんな人間の頑張りなど、当然ながらメルクは露ほども知らない。
あくまでもマイペースに、こわごわとオリヴィアのほうへ鼻を近づけては、そっと匂いを嗅ぎ始めた。
クンクンと音が聞こえてきそうなほど、鼻先がヒクヒク動いている。それをオリヴィアは密かに視界の端で捉えていた。
(——……っ〜〜〜〜!!)
実はこれ、オリヴィア的藤狼の可愛い仕草の一つなのである。とはいえ、ここで身悶えてはいけない。今はひたすら耐えるのだ。
すこぶる騒がしい内心に抗いつつ、体を硬直させてしばしメルクの好きにさせる。
(今なら、少しだけ……)
今が好機と、そっと手の甲を差し出してみることにした。あくまでも動かしたのは手だけで、視線は本へ向いたままだ。
オリヴィアからの働きかけにメルクが怯んだ気配はない。亀の歩くほどの速さで手を動かしたのが、功を奏したのだろう。
それどころか、なんとメルクはペロペロと手の甲を舐め始めたのだ。
(こ、これは……——っ! メルクが少し心を許してくれた合図だわ!!)
意気揚々と……はならないよう、努めて平静を保ちながら慎重に顔を上げる。
そこにはこちらをじっと見つめる美しい藤狼の姿があった。その黄金の瞳にはもう警戒心は宿っていない。
四日目にして、ようやくメルクと目を合わせることができたのだ。
——こうなれば後は早い。
間を置かずして、メルクの顔を両手で包み込み優しく撫でてみる。
するとメルクは気持ちよさそうに目を細めてくれるのだ。どうやら完全に心を許してくれたらしい。
(か、かかか、可愛いすぎるわ……!)
存在しているだけで十分尊いが、こうして触れ合うことで愛おしさは何百倍にもなる。
オリヴィアは今、部屋中をスキップして回りたい気分だ。
それならば……と床に両膝を突いているオリヴィアは、そのまま胸に手を当てて目礼した。
失速する前にさらに一歩踏み込んでみる。
「お初にお目にかかります、メルク。オリヴィア・レステーヌと申します。あなたにだけは本当の名を打ち明けてもいいかしら」
声を発してもメルクが怯えることはなく、そのことにオリヴィアは深く安堵した。
素性を打ち明けたのは、藤狼が言葉を話さないからではない。言葉を話さないからこそ藤狼は人の心の機微に聡いのだ。
体臭や声音といったさまざまな要素のわずかな変化を見逃すことなく、そこから人の心情を理解しようとしてくれる。
そんな藤狼の、メルクの忠誠心に、オリヴィアはできる限り応えたい。
(信頼関係を築くなら、こちらもきちんと誠意を見せるのが礼儀だわ)
だからオリヴィアは口元に人差し指を当てると、メルクにこう囁いたのだ。
「ですが私の本当の名は二人だけの秘密にしてくださいね、メルク」
あとはじっくりと仲を深めるだけである。
五日目の朝には扉の前でオリヴィアを出迎えてくれるようになり、散歩への同行も許してくれるようになった。掃除のために部屋中を動き回っても、メルクはオリヴィアのそばを離れようとはしない。
(ちょ、ちょっと……これは、いけないわ……)
絶え間ない可愛さの暴力に耐えきれず、オリヴィアは額に手を当てた。気を許してくれたメルクはあまりにも愛おしい。
こうして日がな一日、メルクの一挙手一投足にいちいち悶絶していたため、帰途につく頃には近年稀に見る疲労感に見舞われたものの、それでもこの日は一日本当に楽しかった。
他人の藤狼でありながら、メルクはすでにオリヴィアにとって掛け替えのない存在だ。それは飼育係を代わってくれたベアトリスに感謝すら覚えるほどに。
だから代役を引き受けたことを後悔する日が来るなんて、この時のオリヴィアは考えてもいなかったのである——
——コンコンッ
王宮生活も終盤に差し掛かった六日目の昼下がり。
突然のノック音にオリヴィアはと胸を衝かれた。
と言っても扉を叩く音自体はとても控えめで、まるでこちらの穏やかな空気を壊さぬよう気を遣っているかのようなものだった。
確かに今、メルクは寝台ですやすやと眠っている。
側臥位——横向きに寝転び、四肢を脱力させた状態——はリラックスしている証拠だ。
オリヴィアだってそんな寝姿に癒やされながら、そばにある椅子で読書をしていたのである。
「はい、ただいま」
だから、そう返した声は戸惑っていた。来訪者に全く心当たりがないのだ。
そもそもメルクの散歩のために侍者が訪ねてくる以外、部屋を訪れる者はこれまで一人もいなかった。
(侍者の方が言伝でも持ってきてくれたのかもしれないわ。お散歩にはまだ早いもの)
本を閉じて寝台脇にあるサイドテーブルに置くと、立ち上がり際、音に気付いて顔を起こしたメルクの顎下を優しく掻いた。
安心したのか三本の尻尾がゆったりと振れる。間を置かずして、メルクは再び眠りの世界へ戻っていった。
オリヴィアはそれを確認すると、早足で入口へ向かいながら外套のフードを深くかぶり直す。
そして、さほど身構えることなく扉を押し開いたのだ。
「…………へっ?」
気を抜いていたせいで、うっかり素っ頓狂な声を発してしまった。扉の先に立っていたのは見知った侍者ではなかったのだ。
(この、方は……まさか——っ!)
オリヴィアは慌てて廊下へ出ると、顔を伏せながら後ろ手に扉を閉めた。
把手から手を離すと、すかさず顔周りの布を両手で掴んで斜め前方へ引き下ろす。けれどもフードの奥行きにこれ以上の余りはない。
(だって……この方って……)
ドクッドクッと低音を轟かせる心音が煩い。こんな静かな廊下では相手に丸聞こえだ。
止め処なく溢れ出る汗のせいで寒気がするし、体内の水分も枯渇してしまいそうである。
——何をおいても、まずは落ち着きたい。
それなのにまるで追い打ちをかけるかのごとく、予想よりやや低い声が鼓膜を震わせた。