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第四話 婚約者選考会審査開始(2)

「ふぅ……」


 自分の口から深いため息が零れたことにオリヴィアはハッとした。どうやら自覚している以上に気を張っていたらしい。扉の閉じる音を聞いて上体を起こしてからだったのが、せめてもの救いである。


(確かに王宮に来てからはずっと、素性が漏れるんじゃないかって気が気でなかったわ……)


 自身の挙動に不自然なところがないか都度都度確かめていたし、廊下で誰かとすれ違ったりディオンと話したりするたびに身を硬くしてた。魔女の仮装だと嘲笑う人たちに、却って安心感を覚えていたのが極め付きだろう。


(さて……)


 ようやく人心地がついたところで、オリヴィアは慎重な足取りで振り返った。


(張り切りたいところだけれど……まるで全身を杭で打たれるようね)


 藤狼を前にすることで沸々と込み上げてしまう苦みを紛らわせようと、オリヴィアは意識的にメルクへ意を注ぐ。ところが早速、鋭く攻撃的な感情の波動に刺される感覚に見舞われた。

 

 王太子殿下の藤狼は警戒心を隠すつもりなど微塵もないらしい。


 部屋に足を踏み入れた瞬間から、引きも切らず注がれる視線はずっと感じていた。恐らくメルクは一度もオリヴィアから目を離していないのだ。


(今のところ襲ってくる気配はなさそうね。様子見、といったところかしら)


 だからといって安心するのはまだ早い。今のメルクは全ての尻尾が上向いており、四肢は床を強く踏んで全身が力んでいるように見える。臨戦態勢は整っている、といったところだ。


 一歩間違えれば即、縄張りを荒らしに来た外敵として成敗されるだろう。


 藤狼は非常に知能が高く危機察知能力にも優れているため、初対面の人間には例外なく警戒を強める。予想の範疇を超えない出迎えだ。


(だけど、ごめんなさい。こちらもやるべきことがあるの)


 オリヴィアは心の中で断りを入れてから、視線だけを巡らせてこの場の勝手を把握することにした。


(なんて豪華な部屋なの……)


 想像以上の規模に気圧されそうになる。部屋自体の広さもさることながら、寝台や玩具も一般的なそれらとは明らかに質が違うのだ。恐らくこの部屋にある全ての物が、メルクのために誂えた特注品だろう。


(これは単に王宮のお部屋だから()()なの……?)


 藤狼は北部の山岳地帯に生息しているが、実は世界で唯一この国でのみ存在を確認されている希少な個体である。

 国の興りよりもはるか昔には先住民族が藤狼と共に暮らしていたという史実も残っており、現在でもアルディエン王国の国獣として国民から親しまれているのだ。


 そんな先住民族の習俗を由来として、この国では藤狼を家の守り神として迎え入れる文化がある。

 災害から領地を守るため、家業の繁栄を願うため——そういった加護を期待して藤狼をそばに置くのだ。


(メルクがここにいるのは、この文化に倣ったが故なのかしら)


 オリヴィアがこうも訝しむのにはきちんと理由がある。


 時代の流れとともに希少価値が高まったことで、藤狼は庶民には手の届かない存在になってしまった。同時にその希少性は貴族たちの興味を強く引いたのである。


 ある時から社交界では、藤狼同伴を必須条件とする夜会が開催されるようになった。参加者たちはそこで華美に飾り立てた自身の藤狼を誇示しては、夜通し手本のような笑みの裏で頸木くびきを争っていると聞く。


 貴族の中にはこの参加者たちのように、藤狼を富の象徴と考え領土や宝飾品と同じ単なる豊かさの指標として扱う者が一定数いるのだ。

 そして、そこに含まれる者ほど人前では藤狼を可愛がる素振りを見せながら、屋敷では世話の全てを使用人に丸投げしている。


 だからオリヴィアは、ベアトリスの話を聞いた時からずっと思っていた。


(……王太子殿下は()()()なのかしら)


 実を言うと飼育係の件に関しても、全面的に賛成しているわけではない。

 

 藤狼は動物の中でも用心深い性質で知られている。野生では群れを成して暮らしていることもあり、たとえ同じ藤狼でも違う群れの縄張りに立ち入ることはダブーなのだ。

 これはひとたび飼い主と心を通わせれば強い忠誠心を示してくれる、という長所でもあるのだが。


(飼育係が頻繁に変わるなんて、メルクにとって落ち着かない状況が続くことになるわ。藤狼の性質を知っていれば、避けるべき方法なはずよ)


 例えるなら自分の家族が定期的に入れ替わるようなものだろうか。しかも現れた相手と気が合う保証もないとなれば、オリヴィアだったら耐えられそうにない。


 一方で自身の藤狼を大切にしてくれる婚約者であってほしい、という気持ちも分かるのだ。


(もし王太子殿下にお会いできたら、その真意を確かめたかったのだけれど……)


 先ほどディオンから王太子の来訪は期待できないと聞かされた。普段なら激務の合間を縫ってでもメルクに会いに来るらしいが、今はそれも難しいほどなのだと。


(それなら仕方がないわ。サッと私のやるべきことを終えて、あとはお従姉様にお任せしましょう)


 くまなく室内を観察したところでメルクと視線がかち合った。黄金の双眸はオリヴィアに狙いを定めたままだ。


 試しにオリヴィアは静かに一歩後ろへ下がってみる。メルクは微かに体を震わせて反応を見せたものの、それだけだった。


(これは……いけるかもしれない)


 ある確信を掴み始めたオリヴィアは次の一手を投じる。メルクを見据えたまま忍び足で後ずさると、背中に扉の感触がしたところで滑り落ちるように床に腰を下ろした。


 メルクが少し首を傾げるような動きを見せる。その仕草がとても愛らしい。


(やっぱり……。初対面の人間を警戒こそすれど、恐怖心に任せてむやみに攻撃してくることはしない。きちんと躾けられている証拠だわ)


 王太子がメルクを大切にしている可能性がここでグッと上がった。


(すでに多くのご令嬢がここに足を運んでいるのよね。メルクも疲れているはずだわ。できるだけ負担にならないようにしなくちゃ)


 やがてオリヴィアはメルクと見つめ合った状態のまま、外套の前開きから片方ずつ慎重に腕を出していく。その右手に抱えられているのは一冊の本。実は屋敷から持参していたのだ。

 もちろん、あらかじめディオンから持ち込みの許可は得ている。王宮へ立ち入る前に身体検査を受けており、その時に確認しておいた。


(……そろそろ大丈夫かしら)


 頃合いを見計らってそっとメルクから視線を外すと、そのまま本を開いてゆっくりと紙面へ目を落とした。

 

 ほどなくしてメルクが辺りを行ったり来たりと、動き始めた気配を感じる。


(知らない人間と同じ空間を共にするなんて落ち着かないわよね。私だって突然部屋に知らない人が居座り始めたら嫌だもの)


 だからまずはオリヴィアがここにいることに慣れてもらいたい。

 たとえ使用人たちの未来が自身の肩に掛かっているとしても、それを理由にメルクに無理を強いるなどオリヴィアにとっては言語道断なのだ。


(遠回りかもしれないけれど、こうして一歩ずつ関係性を深めていくしかないわ)




 

 ——結局この日は、触れ合いらしい触れ合いもなく終えた。


 基本的にメルクはその場から離れず、オリヴィアが腰を上げるのも必要最低限メルクの要求に応える時だけだからだ。


 そわそわとお腹を空かせた仕草を見せれば、食事を用意して決められた場所に置く。そしてオリヴィアは扉の前に戻ってまた本を開くのだ。

 しばらくしてメルクなりに安全確認が取れれば、おずおずと場を移りようやく食事に口をつけ始めた。


 時間になると侍者がメルクを散歩に連れ出してくれたのでその隙に軽く部屋の掃除もしておいたが、それ以上の成果は得られず終い。


 二日目、三日目も状況は好転しなかった。

 

 こうなると、さすがにオリヴィアも焦りを覚え始める。


(はぁ、今のところ全く進展がないわ。三日も経てば少しは距離が縮められると思っていたのに……。人間と同じように藤狼にも個体差があるし、これまで触れ合った子と比べてメルクは警戒心が強いのかしら……)


 だとすると、これまでのやり方が間違っていたのかもしれない。そのせいでメルクにストレスを与えていたらと思うとゾッとする。

 

 王宮から屋敷へ戻る馬車の中でオリヴィアは唸った。


 ところが、事態は急転することになる——


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