第三話 婚約者選考会審査開始(1)
「は……入れたわ……」
真っ直ぐに続く王宮の廊下で案内人の少し後ろを歩くオリヴィアは、爆音を響かせる心臓を両手で押さえながら思わず声を漏らした。
『ベアトュ……ベアトリス・レステーヌにございます。こ、この度は王太子殿下付飼育係として参りゅ……ました……』
守衛所で用向きを伝えるために、オリヴィアが発した台詞がこれである。
緊張しすぎて盛大に噛んだ挙げ句、あまりの恥ずかしさに挨拶が尻すぼみになってしまったのだ。
(こんな格好で平然としているなんて、私には無理よ……)
誰に聞かせるでもない申開きで自らを慰めながら、足首まで覆う裾長の外套を内側から軽く持ち上げて褪せた黒地に目を落とす。
心なしか視界が狭く感じられるのは、襟元から繋がるフードを目深に被っているためだ。
当然ながら、すれ違う人々は全員漏れなく怪訝そうである。
ある存在の姿を真似ているのではないかと、耳打ちしている声も時折り聞こえてくるほどに。
(誤解しないで……! これは決して仮装ではないの……)
そう弁解して回りたい気持ちをグッと堪えた。オリヴィアだってこれと似寄りの格好をした魔女の挿絵を、いくつかの本で目にしたことがあるのだ。
だから我ながら思う、見るからに怪しい。
そんな仮装——もとい格好が与える不信感を増長させるかのごとく、先の無様な名乗り文句を披露したのである。危うく出だしで自滅するところだったのだ。
(王宮から届いた封書を持参して正解だったわ。守衛の方もとても不審がっていたから、これがなければ門前払いを食っていたかもしれないもの。むしろ、驚いたのは……)
襟元に顔を埋めるように俯いているオリヴィアは、遅くも早くもない一定の速度で歩く案内人を見遣る。その瞬間——
「ベアトリス様、今後について私より一通りご案内させていただきます」
「は、はい……!」
見計らったように案内人が振り返ったことで、反射的にオリヴィアはびくりと体を震わせた。立ち位置を前後にしたまま話してもらうわけにもいかず、慌てて距離を詰めて隣に並ぶ。
案内人はそれを確認すると再び歩き出し、やがて口を開いた。
「改めまして、本日はご足労いただきありがとうございます。私は王太子殿下の側近を務めております、ディオン・クレールと申します。自己紹介が遅れてしまい申し訳ございません」
「あ、えっと、私はオ……ベアトリス・レステーヌと申します。こちらこそ光栄なお役目を賜り感謝申し上げます。精一杯、勤めさせていただく所存です」
ディオンと名乗る王太子の側近は、襟足を軽く刈り上げた緩やかな癖のある茶髪が印象的な青年だ。
優しげな目鼻立ちと男性の中でも高い部類に入る背丈のバランスが絶妙で、天鵝絨色の仕着せが実に似合っている。
膝丈の上衣の襟には植物を模した刺繍が施されているが、落ち着いた色味の金糸が使われていることで派手すぎず洗練された印象を受ける。
刺繍糸と同じ色の釦に入っている刻印は、封蝋のそれと同じものだろう。ディオンはその全てを前で留めてきっちりと着こなすスタイルらしい。そして、上衣と同色の脚衣に合わせているのは黒いブーツだ。
「これからご案内するお部屋が、ベアトリス様が一週間お勤めいただく場所になります」
「はい」
「仕事の内容としましては、一般的な動物の世話とそう変わりません。給餌や体調管理、部屋の掃除など、様子を見ながら適宜ベアトリス様のご判断で行ってください。備品も全てご自由にお使いいただけます。私はご案内が終わりましたら失礼させていただきますが、扉の前には常時護衛を兼ねた侍者が待機しておりますので、なにかあればその者に」
「かしこまりました」
「定期的に侍者がお部屋を訪問し様子を確認いたしますが、ベアトリス様は普段通りお過ごしいただいて構いません。お気づきの点や王太子殿下への伝達事項がありましたら、その時に遠慮なくおっしゃってください」
「承知しました」
過不足なく必要事項だけを淡々と説明していくディオンからは、これといってオリヴィアを訝しむ気配は感じられない。守衛所で迎えられてからここまで、ディオンの態度は一貫してこうなのだ。
どこから素性が漏れるか分からない以上、返事だけで済むのはオリヴィアとしてもありがたい。
それでもある程度の追及は覚悟していたのだ。こうもすんなりと受け入れられては、肩透かしを食った気分である。
そして、気になることがもう一つ。
それは先の説明をすでに何度も口にしており、なおかつ最終的には無駄骨折りになることを分かっている——そんな雰囲気がディオンから漂っている気がするのだ。
(すでに何名かのご令嬢が挑戦されたみたいだし、私も失敗に終わると思われているんだわ。ディオン様には申し訳ないけれど、そう簡単に脱落するつもりはないの)
覚悟を決めるため、代役として人を欺く罪悪感は王宮までの道中に無理やり捨ててきた。
たとえこれから対峙する生き物にどれほどの情が芽生えようとも、時が来ればベアトリスに全てを託すことができる自分であると信じるのだ。
「こちらです」
しばらく歩いてようやくたどり着いたのは、荘重な白塗りの扉の前。
金箔で塗装された草花の彫刻模様はとても繊細で美しく、王室の人間のために用意された部屋だと言われても違和感はない。
だがこの立派な扉構えの一室が、王太子の愛玩動物の部屋なのだという。
(いよいよね……!)
緊張から心臓が早鐘を打つ。
ディオンは相変わらず行動に無駄がないようで、オリヴィアの事情など委細構わず早くも扉の把手に手をかけていた。
間もなくギイィィ……という年季の感じられる音と共に、室内の様子が顕になった。
入口の向こう正面の壁に規則正しく並ぶ立派な縦長の窓。その一つ一つから差し込む柔らかな陽光が、静かにこちらを見据えて佇む存在を照らしている。この生き物こそが、今回の審査員である王太子殿下の愛玩動物だ。
その種の名を藤狼という。
全身を覆う毛は淡い青みを含んだ紫色をしていて、澄み切った琥珀色の瞳が煌々と輝いている。
姿形が狼と近いことから便宜上その名がつけられたが、狼よりも一回りほど小さく毛も長くて柔らかい。遠目に見てもふわふわなのが分かるほどだ。
なにより特徴的なのが臀部から伸びる長い三本の尻尾。いずれも胴体と同じくらいの長さで豊かな毛に覆われ、その毛は尻尾の先にかけて紫の色味が濃くなっていく。
こうして外見的特徴だけを並べると神獣さながらの崇高さを感じてしまうが、あくまで一般的な種の範疇を超えない存在であり、不可思議な力を持ち合わせているといったこともない。
「——……っ」
そんな万人が見惚れてしまうほどの存在を前にして、オリヴィアは言葉に詰まっていた。若葉色の瞳はゆらゆらと煌めいている。
オリヴィアにとってこの藤狼という種族は、この世で一番胸が踊る存在だ。専門家には到底及ばないながら、オリヴィアなりに知識を得ようと努力していたこともあるほどに。
と同時に、オリヴィアの心を深く抉る存在でもある。
代役を引き受けた時に覚悟を決めたつもりだったが、実物を前にするとそんなものは簡単に崩れてしまった。
(今は……)
隣に立つディオンの存在も忘れて、オリヴィアは頭を振った。
(今は、遣る瀬無い思いに打ち拉がれている場合ではないわ。私は飼育係として王宮に来ているのよ)
そう自分を諭すもなかなか切り替えられないオリヴィアを、頓とその務めを果たしていくディオンが現実に引き戻してくれた。
「あちらが王太子殿下の藤狼でございます。名をメルクといいます」
「メルク……」
ぽつりと復唱したものの聞き慣れない響きだ。この国の言語で該当する言葉は思い当たらないが、そういえば——と、昔会った藤狼の中にもそのような名前の子がいたことを思い出す。
異国の言葉に由来する場合もあるため、さほど珍しい名付け方でもないのかもしれない。オリヴィアは一人納得した。
「王宮内の安全を考慮して、ベアトリス様がご自由に動けるのはこちらの一室のみになります。部屋の外へ出られる際は必ず侍者が同行いたしますこと、ご了承ください。お一人で王宮内を歩き回ることは禁止されておりますので」
「承知しました」
部屋に籠りきりでいられるほうが、代役としては当然都合がいい。
「私からのご説明は以上となりますが、現時点でなにがご不明点はございますか?」
「いえ、特には」
「かしこまりました。では、これにて私は失礼いたします」
「はい、ご案内ありがとうございました」
てきぱきと任務を全うしながらも去り際に丁寧な一礼を忘れないあたり、王太子の側近はそつがない。廊下を歩く速さ一つとっても、高い教養が身についていることは明らかだった。
言動はおしなべて事務的であるもののそこに不快感を抱くことがなかったのは、こうした礼儀や細やかな配慮が行き届いていたからだろう。
ディオンを見送るため入口のほうへ頭を下げながら、オリヴィアはそんなことを考えていた。




