第二話 王太子殿下のペットの飼育係(2)
「ここアルディエン王国の王太子様といえば、女性なら誰もが憧れるお方よねぇ。滅多に社交の場にいらっしゃらないから私も一度しかお目にかかったことはないけれど、本っ当にお美しい方だったわ」
ここにいるはずのない王太子の姿が彼女には見えているのだろう。先ほどから熱に浮かされたように目を潤ませ、その姿形をなぞるように指が空をたどっている。
「だけど、王太子様の魅力は美しさだけではないの。他の男が全員野蛮に見えてしまうほど紳士的で、全てが完璧なお方だったわ。物静かでクールなところはあるけれど、そこがまたミステリアスで素敵なのよねぇ。聞いてもいないのに自分のことばかり喋る男なんて、なんの魅力もないもの」
さすがにそれは偏見が過ぎるのでは——とは口が裂けても言わないが。
それにしても異性に関して辛口評価なベアトリスをして、ここまで言わしめる男性は初めてかもしれない。選り好みの激しい彼女だから必ずどこかしらに減点要素を見つけては、過去の縁談相手を尽く足蹴にしてきたのだ。
先日顔を合わせた侯爵家の跡取り息子すらも、すでにその存在はベアトリスの記憶から綺麗さっぱり消え去っているのだろう。
その人と会った日の夕餉の席では、『顔はまぁ許容範囲内』だが『金持ちなくせにケチくさい』と散々だった。世間では足るを知る謙虚な人柄と噂の好青年ですら、彼女のお眼鏡には敵わないらしい。
(それでも婚約は進めることで話がついたはずだけれど、残念ながら王太子殿下がお相手では勝ち目はないかしら。はぁ、お断りと謝罪のお手紙を認めないと……)
自身の不始末ぐらい自力でどうにかしてくれと、オリヴィアは心の中で大きくため息を吐いた。叔父叔母も面倒事はオリヴィアに丸投げで、一貫して我関せずと見向きもしないのだ。
彼らが興味を示すのは富と権力だけ。贅を尽くした屋敷の内装も、頻繁に行われる宴も、領民から聞こえてくる不満の声も、どれも両親の頃の比ではないほどに甚だしい。
皮肉にもオリヴィアの謝罪文の言い回しがうんと上手くなったのは、そんな彼らのお陰なのだが。
「では、私がお従姉様の代わりに王宮へ伺い一週間勤め上げ、婚約者に選ばれたその先はお従姉様に引き継ぐ、ということですね」
オリヴィアは切り替えるように少し声を張った。
「そういうこと。ほら、動物の世話なんて卑しい人間の仕事でしょう? 私のような良家の令嬢がやることじゃないけれど、王太子様のご好意を無下にはできないじゃない? だから下働きはお前に譲ってあげるわ。感謝なさい? 本来、お前は王宮に足を踏み入れていい人間じゃないんだから。貴重な機会を譲ってあげる心優しい私のために、目一杯働いてくることね」
「かしこまりました」
「分かっているでしょうけれど私とお前じゃ見た目が違いすぎるんだから、バレないように細心の注意を払うのよ。……そうね、顔と髪を隠すために、王宮内でも外套を羽織ってフードをかぶっていなさい。あと、王太子様の前で粗相なんて絶対に許さないから」
心得ております——そうオリヴィアが言い終える前に勢いよく腰を上げたベアトリスは、軽快な足取りで部屋の奥へと向かう。
そしてまるでオリヴィアの姿など見えていないかのように、窓辺に飾られた花々を鼻歌交じりに眺め始めた。
強めに巻かれた赤茶色の髪が、窓枠から覗く曇天の前でリズミカルに揺れている。確かにこの見た目に成り代わるのは不可能だと、オリヴィアは内心納得してしまった。
顔は似ている要素が一つもないし、背だって頭一つ分ほどオリヴィアのほうが高いのだ。屈んだまま歩くわけにはいかないので、極力俯いた状態で過ごしてなんとか誤魔化すしかない。
「ああ、そうだわ!」
妙案でも浮かんだのか、ベアトリスが突然こちらを振り返った。たっぷりの布地で作られたワンピースの裾が調子良く弾んでいる。
「あと一週間もすれば、私は晴れて王太子様の婚約者。いずれは王太子妃になってこの屋敷を出ていくことになるでしょうから、その時はこの部屋を譲ってあげる」
口角を釣り上げて勝ち誇ったような笑みを湛える彼女は、すでに選ばれたも同然の心持ちらしい。窓辺できゃっきゃとはしゃぐ姿は、理想の部屋が出来上がったことを喜んでいた数年前と全く変わっていない。
自分は幸せを享受して然るべき人間だ——という盲信が孕む危険性。今のオリヴィアなら容易に気付くことができるそれを教えたところで、きっと彼女は聞く耳を持たない。
だからオリヴィアは喉元まで出かかった言葉も飲み込んだ。すっかり様相の変わってしまったこの部屋が元は誰のものであったのかなど、ここでは枝葉末節なことなのだから。
「寛大なご配慮に感謝いたします。精一杯、努めてまいります」
「分かったらとっとと出ていきなさい! 部屋の空気が穢れるわ——っ!!」
バシッ——……!
「はぁ……」
従姉の咆哮によって部屋から押し出されたオリヴィアは、ため息を我慢できなかった。なにがベアトリスの癇に障ったのか、皆目見当がつかない。
いまだ耳元に残る後味の悪い感覚が嫌で、廊下を進む足を止めて何度も頭を振る。彼女の癇癪気質は慣れたものだが、それでも耳を劈くあの甲高い声はいつ聞いても鼓膜が嫌な震え方をするのだ。
「はぁ……」
駄目だ、ため息が止まらない。
平手打ちをお見舞いされた頬にはジリジリと掻きむしりたくなる痛みが残っていて、添えた手のひらの冷たさが心地よく感じられる。保湿もままならない乾いた肌には、こういった刺激はかなりきつい。
ベアトリスもそれを分かってやっているのだろう、部屋を出る前の満足気な表情からして確信犯だ。
「だけど、平手打ち一発だけなんて相当機嫌が良かったのね。王太子殿下に選ばれたことが、抑止力として上手く作用してくれたのかしら」
二週間前には顎の下から顔を鷲掴みにされた。長く鋭い爪が頬に食い込んでそれだけでも痛いのに、あろうことかベアトリスはその手を思い切り下に引いたのだ。
その時にできた一筋のミミズ腫れが、ようやく退いてきた頃だというのに。そんなオリヴィアの事情など彼女にとっては存在しないに等しい。
「はぁ……瞬きをしたら半年後になっていたりしないかしら……」
半年後、十六歳の誕生日にオリヴィアは屋敷を出ていくつもりでいる。十五歳以下の未成年は法律で就労が禁止されているせいで、今のまま屋敷を飛び出してもまともな職に就けないのだ。
法の網の目を潜っているのか、はたまた国が黙認しているのか——生活に困った未成年が大人に混じって働いている例も存在するが、それは使用人たちに止められてしまった。
オリヴィアを幼い頃から知る使用人たちは、きっとオリヴィアに身を売り物にするような働き方はしてほしくないのだろう。
(選り好みしている場合ではないのだけれど……。だって、みんなをこの屋敷に縛り付けているのは、私だもの……)
兄弟のいないオリヴィアにとって、もはや家族と呼べるのは使用人たちだけだ。両親が亡くなってからも、彼らは変わらずオリヴィアを大切に思ってくれている。オリヴィアが屋敷にいる限り、彼らはここから離れたくても離れられないのだ。
使用人たちを早く解放してあげたいと思う反面、彼らを悲しませるような生き方は選ばないようにしたいともオリヴィアは思う。
「まずは飼育係の代役ね」
使用人を人質に取るなど意地悪いことをする。そう言われればオリヴィアが逆らえないと知ってのことだ。年々脅しのスキルが上がっているのは誰かの入れ知恵か彼女の元来の性格か、そんなことは考えるだけ無駄かもしれない。
「任務を達成してお従姉様が屋敷を出れば、もう少しここも平和になるかもしれないし」
タンッタンッとステップを踏むように階段を下りながら、オリヴィアは「よしっ」と意気込んだ。
乾ききった唇から発せられたその言葉は、無慈悲にも屋内を統べる冷ややかな空気に容易く飲み込まれてしまったが、そんなことはオリヴィアにはどうでもよかった。