第十九話 うたた寝の揺籃(4)
※こちらの話には少々暴力的な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。
何度、意識を飛ばしたいと思っただろうか。
苛立ちを隠す気のないベアトリスに居間まで引きずられたオリヴィアは、そのまま動けなくなるほどの暴力を振るわれたのである。
ここまで酷いのは実に一年ぶりだった。
荒ぶる最中にベアトリスが叫び散らした恨み言によると、どうやら日中に参加した茶会のもてなしが気に食わなかったようだ。
小屋の入口に姿を現した時の彼女の形相はそれはそれは名状しがたいもので、オリヴィアの隣ではミオがはっきりと唸り声を轟かせていたほどである。
『私が一体……っ!』
『ぅ゙……』
『なにをしたって……いうのよっ!!』
『…………くっ……』
オリヴィアは体を丸めて歯をきつく食いしばり、終わりの訪れを待つばかりだ。
床には他に割れたティーカップや破れた本、中身の出たクッションまでもが散乱していて、目も当てられない状況である。
どれほどの時間、耐え続けたのかは定かではない。
ただ覚えているのは、霞む視界の端でなんとか捉えていたベアトリスの姿がいつの間にか消えてしまっていたこと。そのまま寸刻ほど瞳を彷徨わせていると、ドカドカと激しい足音が床を伝うのを感じてオリヴィアは反射的に身を硬くしたのだ。
状況を把握するため微かに頭を上げたオリヴィアの目に映ったのは、いつの日だったかベアトリスがわざと指紋を付けたランプと、それを確と握り締めた彼女の姿。
血走った目で自身を睨め付けるその様に、さすがにこれは——とオリヴィアが命の危険を感じた時——
ミオがオリヴィアを庇うように、ベアトリスの前に立ちはだかった。
『ミ……オ……?! ど……して……?!』
予想外の状況に、オリヴィアは痛みも忘れて声を絞り出す。
巻き込まれないよう、小屋で待たせていたはずなのに——
確かに今日はベアトリスに引きずり出されたせいで、施錠をしている暇がなかった。扉だってしっかりと閉めた自信がない。
それでも小屋で待っているようにと、最後にオリヴィアは叫んだはずだ。
だが、藤狼は敏い生き物である。きっとオリヴィアの身に危険が迫っていると感じ、自ら扉をすり抜けて換気のために開け放してあった勝手口から屋敷へ入ってきたのだろう。
使用人もちょうど休憩に入っている時間であり、廊下に誰もいなかったことも手伝って、鋭い嗅覚を頼りにオリヴィアの臭いを嗅ぎ分けてここへたどり着いたのだ。
『汚らわしい獣の分際で!! そこを退きなさい!!』
ミオはベアトリスの怒号に一切怯むことなく頭を低くして彼女を見据え、鋭い牙を見せて唸っている。ベアトリスを完全に敵と認識して威嚇しているのだ。
その体の大きさも相まって、この状態の藤狼と対峙するのはなかなかの恐怖だろう。ベアトリスが一瞬たじろいだのがオリヴィアにも分かった。
『ミオッ! こっちにおいで!! ミオッ!!!』
オリヴィアの叫ぶような呼び声を聞いても、ミオは威嚇をやめようとはしない。
きっとミオは怒っているのだ、相棒を傷つけるベアトリスに。その証拠に、三本の尾がこれでもかというほどに逆立っている。
『な、なによ……、その顔は…………』
言いながらベアトリスは、震える手でランプを持ち上げる。
たちまち危機感を覚えたオリヴィアは、ミオの名を呼び続けながら重すぎる体をなんとか持ち上げて床を這う。恐らくこれは一刻も捨て置けない状況だ——直感がオリヴィアに警鐘を鳴らす。
ところが何度も蹴られた腹部が悲鳴を上げて力が入らず、思ったように進めない。それがオリヴィアを嘗てないほどひどく苛立たせた。
扉の外からは、パタパタと廊下を駆けてくる足音が微かに聞こえてくる。騒ぎを聞いた使用人たちだろう。だが、彼らの到着まで待ってはいられない。
『ミオッ! こっちへ!!』
『二人とも、目障りなのよっ!!!!』
『ミオッ!!!』
——ガシャンッ!!!
ベアトリスが渾身の力を込めて投げたランプ——それがミオの頭部に接触し、そのまま床に打ち当たる。贅沢な装飾が激しく散開し、そのうちのいくつかはしばし床を転がってやがて倒れた。
『ミ……オ…………』
生気の失せた声が相棒の名を紡ぐ。
大きく見開かれた黄緑の目に映るのは、辛うじて持ちこたえている藤色の体。
だが間もなく、その体からフッと力が抜けたのをオリヴィアの目の当たりにした。
それは伸ばしたオリヴィアの手が相棒の美しい毛並みに届かんとする、まさにその瞬間の出来事だった。
——ドサッ
『ミオッ!! ミオッ!!!』
床に横たわったミオの頭の下にはすでに鮮血の海ができているが、構わずオリヴィアは床を這い、赤い海の中で相棒の身を優しく抱いた。
重さのあるものとはいえ、せいぜい女性の腕力で投げた程度の衝撃だったはずだ。
しかしながら、当たりどころが悪かったのだろう。呼吸は浅くなっていく一方で、呼吸に合わせて上下する胸部の動きが尋常ではないほどに早く、それでいてひどくか弱い。
『ミオッ!! ねぇ、ミオッ!! どうして……どうしてよぉ…………!』
駆けつけた叔父叔母や使用人たちは、室内の凄惨な状況に言葉を失った。
腰を抜かしたベアトリスは頭を抱え、『私は悪くない……、私は悪くない……』と青ざめた顔で呟くばかりである。
オリヴィアは何度も何度もミオの名前を呼ぶ。込み上げる数多の感情が邪魔をして度々息を詰まらせながら、それでもオリヴィアは相棒の名を呼び続けた。
だが、残念ながらミオには、かけがえのない相棒には、オリヴィアの想いに応えるだけの力はもう残っていなかったのである。
こうしてミオはオリヴィアの腕に包まれて、虹の橋を渡ってしまったのだった——
彼らには人の心がないのだろうか。そう思わずにはいられないほど、叔父たちの対応はオリヴィアにとって酸鼻を極めたものであった。
叔父叔母は庭にミオの墓を立てることすら許してくれなかったのだ。それのみか、彼らはミオの亡骸をあろうことか小屋と一緒に燃やしたのである。
当然、これは外聞を憚っての行動だ。
藤狼を殺したとなれば、世間からどんな目を向けられるか分かったものではない。
現に彼らは爵位を継ぐ前、飼っていた藤狼が飼育係の使用人と共に行方をくらましたことで、一度社交界を騒がせていたのだから。
だが、それがなんだというのだ。
その後、新たな藤狼を迎えられなかったのは、劣悪な飼育環境を強いたことで自ら札付きとなった彼らの責任だ。外ではいかにも愛情深い飼い主として振る舞っていたくせに、裏では藤狼にも飼育係の使用人にもろくな生活環境を与えなかったと言うではないか。
そんな叔父叔母が、藤狼同伴を必須条件とする夜会に足を運んでいたことをオリヴィアは知っている。なぜなら、そこに同伴させられていたのはミオだったからだ。
どれだけ抵抗しようとも彼らはオリヴィアからミオを引き剥がし、自分たちの見栄のためだけにミオを連れ回したではないか。
だというのに——
轟音を立てて燃え盛る火の中に飛び込もうとするオリヴィアを、やはり使用人たちが数人がかりで抑え込んだ。
すでに涙も声も枯れきったオリヴィアに抵抗する力は残っておらず、そもそも思考すらまともに働いていない状態で、なおもオリヴィアの体は前へ進もうともがき続ける。
もはやそれは、意志に基づいた行動ではなかった。
どうして両親はこの世を去らなくてはいけなかったのか。
ミオがなにをしたというのか。
なぜ自分だけ生きているのか。
まだ、死ねないというのなら——
灰燼に帰した小屋の前で呆然と立ち尽くすオリヴィアは、ある決意をする。黄緑色の双眸に黒い意志が宿った。
——まだ、死ねないというのなら、せめてミオの仇を討とう。
そして、オリヴィアは廊下に飾られている一本の短剣を手に取った。
ジョエルが生前まじないの一環で仕入れたそれは、大昔、海の向こうの南の大陸で臣下が王の暗殺に使ったものだという。
屋敷内の宝飾品は叔父が越してきた時にガラクタだと言って大半を処分してしまったのだが、これだけは気に入ったらしく残っていたのだ。
これを臣下がやったように、ベアトリスの胸に突き立てよう——




