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第十八話 うたた寝の揺籃(3)

※こちらの話には少々暴力的な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。

『ベアトリス、今日からお前の妹になるオリヴィアだ』


 しばらくして襲爵した叔父が、妻と娘を引き連れて伯爵家の屋敷へ越してきた。

 よほど爵位が嬉しかったのだろう。娘を紹介する彼は明らかに悦に入った様子で、それがオリヴィアには少し不気味に思えたのを覚えている。


『オリヴィア、よろしくね。私のことはベアと呼んでちょうだい!』


 そう。意外にもベアトリスは最初、優しかったのである。


 オリヴィアは遅くに生まれた子だったため、従姉妹にあたるベアトリスのほうが二つ歳上だった。

 弾けるような笑顔を向けてくれた従姉を前にして、オリヴィアは姉ができることに心踊らせていたのだ。


 そんなベアトリスが変わってしまったのは、彼女の母親を真似たからに他ならない。


『あの女に似て、呑気なこと。どうせ、選ばれない悔しさに歯噛みしたこともないのでしょう。男が寄り付く顔立ちも雪を欺く肌も、その黒茶色の髪も! 見ているだけで吐き気がするわ!!』

『うっ…………』


 叔母に髪を強く掴まれて、オリヴィアは涙を滲ませながら呻いた。こちらを見下ろす叔母の鋭い目が当時は魔女のそれにしか思えず、その後たびたび夢に見たことを覚えている。


『お母様、オリヴィアが痛がっているわ! 手を離してあげて!』


 それでも最初のうちはベアトリスがオリヴィアを庇ってくれていたのだから、人生なにがどう転ぶか分かったものではない。


『ご、ごめんなさい、お義母様……』

『お前にそんな呼び方を許した覚えはなくてよ!!!』


 ——バシッ!!!


 これがオリヴィアが人生で初めて、平手打ちを食らった日である。確か、彼らが越してきて二週間と経たないぐらいの出来事だっただろうか。


 叔父たちから虐げられる日々——そこに足を踏み入れてしまったことなど、この時のオリヴィアはぶたれたショックで気付きもしなかった。


 これは後に執事長に聞いた話だが、どうやら叔父はもともとヨランダに思いをかけていたようなのだ。

 そして、叔母がそれをよく思わないのは当然のことだろう。過去に果たせなかった憂さを晴らすかのように、叔母は当初からオリヴィアに強く当たっていたのだ。


 つまり彼女の中で長年煮え滾っていた感情が、ベアトリスに伝染うつったのである。

 屋敷へ来て一年も経たぬうちに優しかった頃の面影は欠片もなくなり、早くも今のベアトリスが出来上がったのだから。


 そしてある日、叔父一家とオリヴィアの四人が揃った食事の席で、ベアトリスは揚々とねだったのである。


『お父様、私あの部屋が欲しいわ』


 彼女がカトラリーで指したのは、当然オリヴィアだ。


 この頃にはオリヴィアも自身の立ち位置を心得ていて、ベアトリスがこうして遠慮会釈もなくあれこれと要求することにも叔父叔母がそれを咎めないことにも慣れ始めていたし、その我が儘に振り回されるのも仕方がないことであると諦め始めていた。


 しかしながら、先の発言だけは首を縦に振るわけにはいかない。


 オリヴィアの部屋は日当たりが良く広々としていて、本来は屋敷の当主に充てがわれるはずの一室だ。そこをジョエルがオリヴィアが生まれる少し前に、娘がのびのびできるようにと譲ってくれたのである。


 父の愛が込められたあの一室だけは、誰にも穢されたくない——


『ど、どうかあの部屋だけは——……!』


 床に平伏してまで懇願したオリヴィアの訴えが、彼らに届くはずもない。

 気が付いた時には、その慎ましい内装は目を細めたくなるほど豪奢なものへと変化を遂げてしまっていたのだから。


 これまで辛うじて貴族の娘として扱われていたオリヴィアであったが、屋敷での居場所を完全に失って以降は、叔父の言いつけでミオと共に屋敷の裏にある小屋で過ごすようになる。

 

 ところが、意外にもこの選択が吉と出たのだった。


『お嬢様、お洗濯までお手伝いいただきありがとうございます。冬のお水は冷たいでしょうに、あとで保湿に効くクリームを塗りましょうね』

『あら、みんなだって同じでしょう。これくらい平気よ』

『ですが、お嬢様は本来こんなことをされるお立場ではないのですから』

『問題ないわ。ミオがそばにいてくれるし、みんなといるほうが楽しいもの。それに自分でできることが増えて、なんだか気分もスッキリしているのよ』


 小屋に移るにあたり外出までをも禁止されたオリヴィアは、一日小屋にいても無聊を託つだけだと使用人たちの仕事を手伝い始めた。


 これが案外、オリヴィアには向いていたらしい。


 選り好みすることなく目についた仕事を手伝っていたところ、根っからの箱入り娘から一転、手際よく家事をこなす敏腕使用人ができあがったのだ。

 先の会話のように使用人たちの意識から『オリヴィアお嬢様』が抜けきらない状態ではあるものの、一人の働き手として仕事を任せてもらえるまでに成長したのである。


『いやだわ、そんなところに頭から入るなんて。まるで鼠のようね、汚らしい』


 暖炉の火床を掃除して煤で真っ黒になったオリヴィアを見て、叔母が鼻で笑う。


『ちょっと! ここ、まだ汚れていてよ!』


 ランプの真鍮にわざと指紋を付けて、オリヴィアを呼び出すのはベアトリスだ。


 一見すると『主人にいびられている使用人』というこの構図だが、実は意図的に作られているものである。彼女たちからの攻撃を少しでも軽くするために、使用人たちが編み出した秘策なのだ。


 住まいが離れたことで、オリヴィアが叔母や従姉の前に出ることはほとんどなくなった。すると今度は彼女たちのほうから、わざわざオリヴィアを呼び出すようになってしまったのだ。

 そこで使用人たちが上手く仕事を振り分け、時折りこうして彼女たちの前に姿を現すことで、そのストレスのはけ口を暴力から嫌味に昇華させたのである。


 彼女たちの機嫌が悪ければ、暴力を受けることはまだある。

 それでも顔を合わせる頻度が少なからず減ったことで、オリヴィアはそれなりに穏やかな生活を取り戻すことができたのだ。


 小屋での暮らしも、相棒がいるから辛いことは一つもない。


 冬の夜もミオのふわふわの毛並みで寒さを凌ぐことができるし、両親を思い出してオリヴィアが涙を流してもペロッと舐めて慰めてくれる。

 洗濯かごを上手く背中に乗せて運んでくれたり、荷物の縄を縛る時に一緒に引っ張ってくれたりもするのだ。拭き終えた床に足跡が付くこともあるが、それはご愛嬌だろう。


 両親はいなくなってしまったが、ミオと使用人がいればオリヴィアはまだ生きていける。


『だから大丈夫』


 ——そう思っていたのに





 今から一年半ほど前——


 オリヴィアは扉を開け放した小屋の中でミオと並んで横になり、初夏の夜の風を楽しんでいた。


『もう、五年も経つのね……』


 しみじみと呟いた口調はどこか他人事のようだ。オリヴィアの脳裏を、屋敷を出て行く両親の最期の姿が過る。

 

 叔父が爵位を継いで一家が屋敷を乗っ取ってからはその日を生きるのに精一杯で、月日の流れを意識することもほとんどなくなっていた。せいぜい、季節の移ろいに遅れて気付くぐらいだったろうか。


 近頃は屋敷の中も比較的平和で、オリヴィアを虐げるのはベアトリスただ一人となり、暴力を受ける頻度も当初と比べてはるかに減った実感がある。これもひとえに、秘策が上手く作用してくれたお陰だ。


 叔母は自身の役目を娘に引き継いで勇退したかのようにオリヴィアから一切の興味を失い、顔を合わせてもオリヴィアに一瞥すら寄越さなくなっていた。


 ちなみに叔父は恋敵だった兄の娘を可愛がるつもりは毛頭ないようで、当初からオリヴィアに手こそ上げないものの妻と娘の行いを咎めることもしなかった。


『それなりに、平和にはなったけれど……』


 こんな生活がいつまで続くのか——未来を憂いていたオリヴィアは、突然の呼び声にビクリと大きく体を震わせた。隣ではミオがすでに身構えている。

 

 すかさずオリヴィアも身を起こし、ミオと並び立ってその時を待つ。

 

 次第に激しさを増すその呼び声は、ほどなくして小屋の入口までやって来た。


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