第十七話 うたた寝の揺籃(2)
※こちらの話には少々暴力的な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。
『こんな両親だから』という前置きが正しいのかはさておき、レステーヌ伯爵家の当主夫妻として、すなわち領主としての務めも極めて堅実なものだった。
領民に敬意を払い領土の繁栄と農業技術の発展に注力する人格者として、領民からの信頼が篤かったのは言うまでもないが、それだけではなく貴族には珍しいその清廉潔白ぶりによって社交界でも一目置かれる存在だったと聞く。
そして、忘れてはならないのが——
『あはは、ミオったら! くすぐったいわ!』
オリヴィアの相棒、藤狼のミオである。
オリヴィアが生まれる少し前に屋敷へやってきたミオは、一人娘のオリヴィアにとって姉妹同然の存在であった。
長い舌でオリヴィアの顔を舐め回すのが好きで、ちょっぴりいたずらっ子。そんなミオとオリヴィアは、実にたくさんの思い出を共にしたのだ。
『——こうして、おじさまとおひめさまは、しわわせに、くらしました』
オリヴィアがもっと幼い頃、まだ舌っ足らずなオリヴィアの読み聞かせをミオは大人しく聞いてくれていたらしい。
さすがにその記憶はオリヴィアには残っていないものの、大きくなって夜ごと寝台で読書をするのが習慣になったオリヴィアにミオが付き合ってくれたのはその名残だろう。
喧嘩をしたことも一度だけある。
オリヴィアのお気に入りの本のお気に入りの挿絵の頁に、誤ってミオの涎が垂れてしまったのだ。泣きじゃくるオリヴィアを両親が宥めている間に、使用人が慌てて庭で陽光に晒してくれたものの時すでに遅し。
顔面蒼白な使用人が差し出した本の、目も当てられないほどシワッシワになったかの頁を見た瞬間、オリヴィアはミオに部屋からの出禁を大声で叫んでいた。
ミオがそばにいないことがあまりにも寂しくて、結局一日で出禁は解除してしまったが。
『しっ! ミオ、音を立ててはだめよ! 眠っていないのがバレてしまうわ』
両親が留守の時には、使用人に隠れてミオと夜更かしもした。一緒に布団に潜り込み、隠しておいたお菓子をこっそり食べるのだ。ミオ専用の食事も昼のうちにしっかりくすねておいたから共犯である。
さらにオリヴィアは両親に願い出て、自称『飼育係の弟子』となった。
貴族の屋敷では愛玩動物の飼育係に使用人が充てがわれるのが一般的で、給餌や排泄の処理、お風呂や玩具の洗濯といった、いわゆる世話に当たる部分は使用人に任せることになる。そして、それはレステーヌ伯爵家も例外ではない。
ところがオリヴィアはそれらのやり方を使用人から教わって、ミオの世話のほとんどを買って出たのである。幼いながらに、大好きなミオを自らの手で大切にしたいという思いが強かったのだ。
そんな献身的な姿を見て、両親がオリヴィアを咎めることはしなかった。
どれほど上質な服が汚れようが、裾がほつれれようが、『今日も仲良しね』と温かく見守ってくれていたのだ。
まさかこの時に身につけた知識が、王太子の藤狼のために役立つことになるとは誰も思うまい。
ある日、父によって居間にあるコンソールの上にあるものが飾られた。
『これは?』
そう尋ねたのはオリヴィアだ。
『これは守りの石と言ってね、私たち家族を悪いものから守ってくれるんだ。私たちがずっと幸せでいられるように、ここに飾っておこう』
そう言って、ジョエルが守りの石とやらをひと撫でする。
両親の共通の趣味はまじないだった。
家族の幸せや領地の安泰を願って取り寄せたという珍しい石や宝飾品が、屋敷の所々に飾られていたのを覚えている。足るを知る彼らは決して多くは求めず、少数精鋭で本当に気に入ったものだけを入手していたようだった。
『私たちの瞳と同じ若葉色の石なんてこの国では手に入らないから、東の遠い国から仕入れた珍しい物なんだよ』
ジョエルが目を細めて石に視線を残したまま、オリヴィアに語りかけた。そんな父を眺めながら、オリヴィアは首を傾げる。
『珍しい……? これがあれば、みんなとずっと一緒にいられるの?』
『そうよ、オリヴィア。あなたが大きくなって素敵な女性に成長しても、私たちもミオもずっとあなたを見守っているわ。その願いを叶えてくれる石なのよ』
娘の肩にそっと手を添えて、問いに答えたのはヨランダだ。
豪華絢爛な生活を送る富豪貴族ではなかったが、それでもレステーヌ伯爵家はいつも温かかった。
目が合うといまだに微笑み合う仲睦まじい両親と、片時もそばを離れない相棒のミオがいて、愉快な使用人たちが支えてくれる。陽だまりのようなレステーヌ伯爵家が、オリヴィアは大好きだった。
そんなかけがえのない存在を守ってくれる石——オリヴィアはまるで魔法のようなその石に、すっかり魅了されていた。
『じゃあ、この石はとってもすごいのね! 私、この石大切にする!!』
だから快活な笑みを湛えては、『よろしくね』と石を優しく撫でたのである。
大切な人たちとの幸せな暮らしがこれから先もずっと続いていくものだと、この時のオリヴィアは信じて疑わなかったのだ。
ところが、そんな幸せな日々は突然終わりを迎えることになる。
それは、オリヴィアが十歳になる少し前のこと。両親が馬車での移動中に不慮の事故に遭い、この世を去ったのだ。
その日の朝早く、侍女に起こされたオリヴィアは重たい瞼をなんとか持ち上げて、出かける二人を夢現な状態で見送った。
まさか、それが両親との最期の瞬間になるなんて——悲しみや喪失感がオリヴィアの心から絶え間なく溢れ出す。やがてそれは行き場を失くし、次第に淀んだ色を帯びていった。
陽だまりのような屋敷は突如として真っ黒な雨雲に覆われ、止まない雷雨に見舞われる。
——ガシャンッ!!!!
『お嬢様っ!! いけません!! 破片でお怪我をされてしまいます……!』
『だって!! この石、全然私たちの幸せを守ってくれなかったもの!! それも! あれも!! 全部全部、無駄だったんだわ!!』
自分の瞳と同じ色をした石を、オリヴィアは自ら床に叩きつけて壊したのだ。両親との突然の別れなど、齢十の子どもがそう簡単に受け入れられるはずがない。
これまでオリヴィアが真っ直ぐに育ってこられたのは、両親という支柱がいたからだ。まだ成長過程の苗木に過ぎない少女が支えを失うには、いくらなんでも早すぎる。
『おとうさまにあんなに大切にされていたくせに!! それなのに二人を守ってくれなかったじゃない!! うそつき!!』
オリヴィアはジョエルがこの石を毎日大切に磨いているのを知っていた。
『お嬢様! 落ち着いてください!!』
他の宝飾品を壊そうとしたオリヴィアを、使用人が数人がかりで止めに入る。
中には破片を踏んでしまい出血している者もいたが、この時のオリヴィアは彼らを気遣う余裕など一寸たりとも持ち合わせていなかったのだ。
満足に両親を見送ることが出来なかった自分への苛立ち、受け入れ先を失って尚も生まれる恋しさ。
あらゆる負の感情を持て余したオリヴィアの心は、責任の所在を石に転嫁することでオリヴィアを守ろうとしたのだろう。
『グスッ……、おとうさま……おかあさま……、ズッ……、会いたい……会いたいよぉ……』
来る日も来る日も日がな一日、オリヴィアは滂沱の涙に溺れ続ける。そんなオリヴィアを支えていたのがミオと使用人たちだ。
ミオはオリヴィアが以前のように構ってくれなくても、そばを離れようとはしなかった。
所構わず哭するオリヴィアにぴたりと寄り添い、まるで相棒の哀しみを感じ取ったかのような面持ちでただ静かにそこにいてくれたのである。
そして食事も喉を通らず最終的に起き上がるのも困難になるほど衰弱したオリヴィアを、懸命に看病し続けてくれたのが使用人だ。
定期的に少量の水を口元へ運び、消化の良い食事を整え、体を拭いてくれる。
オリヴィアに回復の兆しが見え始め、一筋ずつだが確実にレステーヌ家に陽光が降り注ぎ始めていた矢先——
彼らはやって来た。




