第十六話 うたた寝の揺籃(1)
※こちらの話には少々暴力的な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。
「ぅ゙っ…………」
体勢を変えようと動いた拍子に、オリヴィアの口からうめき声が漏れた。
バケツの直撃した前腕に加えて全身の至る所がズキズキと脈打つように痛み、これ以上動いてくれるなと悲鳴を上げている。
わずかな動作ですら、今の体には毒だというのに——判断を誤った自身の脳を、オリヴィアは心底恨めしく思った。自室の寝台に横たわりながらうとうとと微睡んでいたために、思考がひどく鈍っていたのが原因だと分かってはいる。
(もう……夜なのかしら……)
窓のないこの倉庫では自ら外へ踏み出さない限り、時間の感覚などすぐに奪われてしまう。それをオリヴィアは身を以て経験していた。
現に今、オリヴィアが最後に王宮を後にしてからどれくらい経っているのか見当もつかないのだ。
(全て……私のせいなのだけれど…………)
現状をどうにか受け入れようと自らに因果を含める。今オリヴィアが満身創痍を強いられているのは、凱旋を遂げられなかった自身の責任なのだと。
結局、最終日にエリアスの口から審査結果が言い渡されることはなかった。
あれから庭で楽しく遊んだ後、『明日も来るように』とだけ言い残してエリアスは去っていったのだ。
帰りの時刻が迫る中でなおかつ王太子相手に食い下がるなんて真似もできず、渋々王宮を後にしたオリヴィアであったが、やはり多少強引にでも結果を聞いておくべきだったと馬車の中でどれほど悔やんでも、それは後の祭りにしかならない。
屋敷へと戻り、いつかと同じように地下の倉庫まで迎えに来たベアトリスの溢れんばかりの期待で爛々とした目を見た瞬間、大げさではなくオリヴィアは死期を悟ったのだ。
それからベアトリスの部屋に引きずり込まれたオリヴィアが、『本っ当に使えないわね!!!!』『これだから親のいない欠陥品は!!』といった使い古された誹りと共に叩く、踏み付ける、物を投げる等、多種多様な攻撃に晒されたのは想像に難くない。
眉を吊り上げて満面に朱を注いだ彼女から、オリヴィアはお叱りを受けたのである。
『はぁ……はぁ…………、もういいわ!! 明日も来るように言われたのなら、婚約者として認められたも同義でしょう! 明日からは私が行くから、お前は引っ込んでなさいっ!!!! 二度と私にその腹立たしい顔を見せないでっ!!!!!!』
その捨て台詞を最後に浴びてようやく部屋から這い出たオリヴィアは、少し離れたところで待機してくれていた使用人たちによって手当を受け、寝台まで運ばれたのであった。
重症ならば掛布に包まって、全てを忘れるように眠りにつく——今回の負傷程度からして、対処法はこれ一択だ。
とはいえ呼吸すら響くほどの痛みに耐えながら昏々と眠るなど到底無理な話で、先ほどから覚醒しては自省し再び微睡むことを繰り返している。
(みんなが路頭に迷うことにならなくて……良かった……)
すでに何度もやっている安堵に、オリヴィアは再び胸を撫で下ろした。
『明日も来るように』というエリアスの一言を、ベアトリスは一縷の望みとして捉えたらしい。そして図らずもその一言が、使用人とこの屋敷を首の皮一枚で繋げてくれた。
確かに不合格と明言されていない以上、可能性はまだ残っていると言えるだろう。実際のところ、オリヴィアは飼育係としての条件を達成したはずなのだから。
「手懐ける」の具体的な基準が提示されていないのは気がかりだが、それでもメルクが遊び相手に選ぶ程度には仲を深められたと自負している。
となると——
(やっぱりあの失態が、大幅な減点対象だったんだわ……)
遊び相手に選ばれながら合格していないとなれば、思い当たる失点はあれだけだ。
そう考えると、エリアスの言葉は「審査期間延長」を意味するのかもしれない。仮にそうだとすれば、ベアトリスが王宮へ赴いてしまって良かったのだろうか。
しかしながら使用人の一斉解雇という最悪の事態は免れたことで、オリヴィアの心はずいぶんと軽くなった。それだけでもう十分だろう。
だからこれ以上、オリヴィアにできることはない。このまま婚約者になれるかどうかは、全てベアトリス自身に懸かっている。本来、この話はこうであったはずなのだから、正しい形に収まったまでのことだ。
(ちょっと、疲れたわ…………)
疲労が痛みに勝ってきたのか、オリヴィアは再び瞼に重みを感じ始める。ぱち……ぱちぱち……と不規則的な瞬きを繰り返しながら、オリヴィアの意識は夢の中へ誘われていくのだった。
『おとうさま! おかあさま! 見て! 蝶が二匹、花壇の上を一緒に飛んでいるわ! まるでダンスを踊っているみたいで、とっても楽しそう!』
麗らかな春のある日のこと。
かぐわしい花々や新緑に満ちたレステーヌ伯爵家の庭で、花壇を指差し声を張ったのは今より少し幼いオリヴィアである。
『そうだね、オリヴィア。今日もお前は本当に愛らしい』
あどけなさを多分に含んだ少女の呼びかけに、鷹揚な声音で応えたのはオリヴィアの父ジョエルだ。
後ろ手を組んでわずかに身を屈め、自身の前に立つ娘に優しい眼差しを注いでいるが、そんな親心は眼前で舞い踊る蝶に夢中なオリヴィアの与り知らぬことであろう。
むしろオリヴィアが気になったのは、同意のあとに続いた一言のほうである。
『おとうさまったら、ちがうわよ! 私のことじゃないわ! 蝶の話!』
ふくれっ面のオリヴィアが振り返ったことで、揃いの若葉色の瞳がかち合った。
橄欖石のごとく煌めく幼き瞳に映るジョエルは、『うんうん、見ているよ』と眉を下げて笑うばかりである。
春陽に照らされた香色の髪は清潔に整えられており、男性にしては小柄な体格と下がった目尻が柔らかな印象を与えてくれる。笑うとできる目尻の皺が父の優しさを際立たせている気がして、オリヴィアは密かに気に入っていた。
『ふふ、オリヴィアもいつか素敵なお相手と一緒にダンスを踊るのかしら』
口元に手を当てて可憐に微笑むのは、母ヨランダである。
糸目が特徴的なおっとり美人で、黒茶色の髪は顎の長さで丸みを帯びる形に切り揃えられている。
ヨランダは代々レステーヌ伯爵家と親交の深い子爵家の娘で、子煩悩だった両親——オリヴィアの祖父母である——から蝶よ花よと育てられたことにより、のほほんとした性格に育ったらしい。
一緒にいると心が穏やかになるのだと、ジョエルがよく言っていたのをオリヴィアは覚えている。
『ヨ、ヨランダッ?! なにを言っているんだ?! オリヴィアがダンスを踊るなど……そ、そんなのはまだまだ先の話だ! 第一、私はオリヴィアをどこの馬の骨とも分からぬ者に——』
『はいはい、分かっております。いつか、の話ですよ、あなた』
妻の衝撃発言に面食らうジョエルを、ヨランダは笑みを崩さずたおやかに往なす。ジョエルの子煩悩っぷりは、彼の義両親のそれに負けず劣らずと言えよう。
これはほんの一例だが、ジョエルはいつも両手でしっかりとオリヴィアを抱き締めては、スリスリと頬を擦り寄せながら『ああ、今日も可愛い私の天使』と口を極めて愛情を伝えてくれていた。
ある日オリヴィアが『お髭が痛いから嫌』と拒否したところ、半刻も経たぬうちに口と顎回りがツルツルになっていたのだ。
小柄な体格のせいで威厳が足りないからと時間をかけて丁寧に伸ばしていた髭だというのに、それを愛娘のたった一言でいとも容易く手放してしまうジョエルの決断力は今も使用人の語り草となっている。
ちなみにオリヴィアに拒絶された時のジョエルの蒼白ぶりに、裏でヨランダと笑ってしまったのは内緒だ。
とはいえ、ヨランダだってジョエルのことを笑えた義理ではない。少なくともオリヴィアはそう思っていた。
なぜならオリヴィアは知っているのだ。ヨランダが毎日欠かさずオリヴィアのことを褒めてくれて、『あなたは私の宝物よ、オリヴィア』と眠る前には額にキスを落としてくれることを。
『あら、蜂だわ』
『お、奥様?! 危険です!』
『なにをやっているんだ、ヨランダ! 逃げなさい!』
ガーデンチェアに腰を下ろすヨランダの元に、どうやら一匹の蜂がやってきたらしい。慌てて父や侍女が駆け寄る中、少し離れたところにいるオリヴィアですら大きいと感じたそれに、ヨランダは怖がる素振りも見せない。
これが、レステーヌ伯爵家の日常だった。




