第十五話 消化不良はほどほどに(6)
その問いが、オリヴィアの身体から瞬く間に温度を奪っていく。外套の中に隠された手をオリヴィアは咄嗟にぎゅっと握り締めた。
あれほど危惧していたことに追い詰められているのだと、全く以て機能していない頭で辛うじて理解する。
「と……扉の縁にぶつけましたので、多少の痛みは仕方のないことかと。ですが、特に支障はございません。ほら、こうして問題なく動きますでしょう?」
焦りを押し隠して涼やかな笑みを湛え、包帯が見えない程度に外套から手を出してグーパーと動かして見せた。それでもエリアスの張り詰めた視線が和らぐ気配はない。
「確かに多少の痛みは仕方のないことだが、君のあの反応は尋常ではなかった。元からそこに傷でもなければ、あれほど痛みに耐えるようなことはしない」
「——……っ」
オリヴィアは言葉に詰まった。自分の反応をはっきりと覚えていないせいで、どれほどの失態を演じたのかが分からないのだ。
こういう時に当意即妙な答えを用意できるほどオリヴィアは器用ではないし、相手がエリアスともなれば、なおさら適当なことは口にできない。ただ下手な弁解を続けたところで、余計にエリアスの不信感を煽ることになるのは明らかだ。
(どうにか……上手く……)
オリヴィアは外套の前開きから出していた手を内に収め、震える唇から必死に言葉を紡いだ。
「……ご推察の通り、この腕は確かに怪我を負っています。ですが大したものではありませんし、先の扉との接触によって悪化したということもございません。どうかご安心ください」
「だが、後に影響が出ることもある。念の為、医家に——」
「……——っ! だ、大丈夫ですっ!」
数拍遅れてオリヴィアはようやく我に返った。
場は張り詰めた空気に支配され、しん……っと静まり返っている。さすがのエリアスもオリヴィアが語気を強めたことに驚いたのかわずかに目を瞠っていて、エリアスの足元で散歩の支度を待っていたメルクですら異変を感じている面持ちだ。
(私……なにを…………)
自分で自分が信じられず、若葉の瞳が激しく揺れる。
医家の前ともなれば患部を診せて終わりとはいかないだろうと、そう恐れただけなのだ。
この腕の怪我は、ただの痣などではない。それをオリヴィア自身が本当は自覚しているからこそ、これ以上踏み込まれるわけにはいかなかっただけなのに——
だからといって、王太子の言葉を声を上げて遮るなど許されないことだ。
未だこの状況を受け入れられぬまま、それでもオリヴィアは回らぬ頭でなんとか謝罪の二文字だけは捻り出した。こわごわと腕を抱きしめるように平身低頭し、今にも消え入りそうな声で詫び言を並べ立てていく。
「……と、とんだ無礼を働きましたこと、謹んでお詫び申し上げます。ですが怪我につきましては、どうかお見逃しいただきたく……」
正しく謝罪できているのかすら、もう分からない。それほどまでに、オリヴィアの心の中は絶望で満ちていた。
昨晩、使用人を悲しませたばかりだというのに、自分はこれから彼らにそれ以上の悲しみと苦しみを強いることになるのだろうか——悲観的なことばかりが、頭の中で浮かんでは消えてを繰り返す。
「頭を上げてくれ」
低音を主軸としながらも、柔らかさを含む耳障りの良い声音——そこに怒りや嫌悪感といった否定的な要素が滲んでいないことが、生きた心地のしないオリヴィアをいくらか安心させた。
これまでのエリアスを見ていれば、激昂するような人でないことは推して知るべしだろう。それでも今し方の咎をエリアスがどう受け取ったのか、オリヴィアの不安はそう簡単に消えてはくれない。
上体を戻すオリヴィアの挙動はそんな内心をもろに反映しているせいかとても不安定で、さながらギシギシと軋む錆びた歯車の回転ようだ。
それでもエリアスはオリヴィアが目を合わせるまで待ってくれていた。そして軽く目線を下げたかと思うと、変わらぬ声遣いでこう述べたではないか。
「私のほうこそ立ち入ったことをした。申し訳ない」
「そ、そんな……! 殿下がお気に病まれることは何一つございません。こちらをお気遣いいただいた故のお言葉であると、ちゃんと理解しておりますから……! どうか、頭をお上げください……!」
なにがどう転んでも、エリアスが謝る謂れはない。この件は、全面的にオリヴィアに否があるのだから。大した怪我でないのなら患部を診せられないなど不自然極まりないことで、エリアスが訝しむのも当然である。
本を正せば、オリヴィアがここにいることから間違っているのだ。
とはいえ、こちらの手の内を見せられない以上、さらに掘り下げられてはオリヴィアの手に余る事態に陥ってしまう。必要性はさておき謝罪をしてきたということは、エリアスにオリヴィアの言動を追及するつもりはないのだろう。
ならば——と、オリヴィアは悔悟の念を強く抱きながら、それでいて気丈に振る舞ってみせるのだ。
「殿下、そろそろメルクの我慢が限界を迎える頃かと」
「……ああ、そうだな」
同意の言葉を口にしながらも、エリアスの声の端には不承知がはっきりと滲んでいた。あえて隠さなかったのだろうと、オリヴィアは思う。
それでもエリアスはそれ以上なにも言うことなく、足元に寄り添うメルクを連れて部屋の奥へと向かった。
「ふぅー……」
オリヴィアは外套の中で胸に手を当てて、長く細い息を吐き出した。しばらくの間、心臓が爆ぜそうなほどに脈打っていたせいで、息が詰まっている気がするのだ。
(最後の最後で、私はなにを……)
支度の様子を見守るオリヴィアの表情は、強い後悔に歪んでいる。医家を呼ばれては困る、それは紛れもない事実だ。だがエリアスの思い遣りを遮った、あのやり方が間違いであることだって紛れもない事実なのだ。
(傷つけて……しまったかしら……)
発する言葉は実体を持たないくせに、存在として在り続ける。オリヴィアとエリアス、二人の間に走った亀裂はすぐに修復されたはずなのに、それは亀裂が消えたことと同義ではない。
漂う空気が亀裂の走る前のそれとは明らかに違うものに感じられて、それがオリヴィアには一番堪えた。
(使用人にも謝らなくちゃ……)
オリヴィアは外套の裾を摘むと、向かってくるエリアスとメルクを通すため扉を開いた。そのまま二人に続いて廊下へ出ると静かに扉を閉める。室内と比べて幾分か冷えた空気が、今のオリヴィアには心地いい。
やがてオリヴィアはその冷気をすぅっと鼻腔に通すと、廊下を進む二人に向かって深々と頭を下げた。
こんな状況で散歩に同行するわけにはいかない。それでもエリアスとメルクの仲睦まじい姿を最後に拝むことができたのは、素直に光栄なことだと思える。
(もう、お二人にお会いすることもないから……)
心からの謝意を込めて——
「なにをしている」
「……?」
戸惑いながら体勢を戻すオリヴィアは、エリアスの言葉の真意を測りかねていた。侍者へ向けたものかとも思われたが、その眼差しは間違いなくオリヴィアへと注がれているのだ。
「僭越ながら、お見送りさせていただこうかと……」
その声はあまりにも力なく、エリアスの耳に届いたのか定かではない。
先の失態はオリヴィアの精神をひどく消耗させた。ズキズキと明らかに痛みの増した患部と、自身の犯した過誤に対する自己嫌悪や虚無感が相まって、あの夢の中で沈んでいる時のようにぼーっとしているのだ。
だからもうエリアスがどんな言葉を口にしようと、それに心を揺さぶられることはないだろう。今のオリヴィアはそんな心持ちだった。
やがて宵の双眸は寸刻ほどオリヴィアをじっと見据えた後、そのまま落ち着いた声遣いでこう述べたのだ。
「望むなら来ればいい。が、無理強いはしない」
「…………え……」
驚きを零した若葉の瞳が大きく見開かれた。
真っ直ぐな廊下の途中でこちらを振り返るエリアスの表情がとても優しいのだ。昨日庭で見たものと同様に温かく、それのみかオリヴィアを包み込むような柔らかさを携えている、静かな月夜のような笑み。
そしてエリアスの足元では、メルクが明るい表情でオリヴィアを呼んでくれている。
(どうして……)
トク……トク……と心臓が丁寧な脈を刻む。身体を伝うその心音が煩わしくて、オリヴィアは外套の中で胸元の服をぎゅっと強く握り締めた。
(どうして……今なの…………)
心の中に広がっていた茫洋たる枯野に、ぽつりと萌え出ていた新芽——オリヴィアはようやく、その存在を知覚したのだ。
——気付いてしまった
昨夜、どうしてエリアスやメルクのことを思い出したくなかったのか。どうして軽症と認識していながら、動く気力が湧いてこなかったのか。
どうしてエリアスを傷つけたことに、こんなにも胸が締め付けられるのか——
(私…………)
その新芽が生まれた意味を口にしてはいけない。言葉にしたが最後、幼き芽が存在意義を得てしまう。それはきっとオリヴィアには酷なことだ。
だから、決して口にしてはいけない——
「私……、ここに居たいんだわ…………」
乾ききった唇から発せられたその言葉は、無慈悲にも廊下を統べる冷ややかな空気に容易く飲み込まれてしまって、オリヴィアにはそれがとても悲しかった。
こうしてオリヴィアの飼育係としての生活は、幕を閉じたのだった——
ここまでご覧いただき、ありがとうございます。
清書のストックが切れてしまいましたので、以降は不定期投稿とさせていただきます。下書きはできておりますのでさほど間が空くことはないかと思いますが、無理のない投稿頻度で続けていくつもりです。
また、近日中にご挨拶も兼ねた活動報告を投稿する予定です。これまで投稿に手一杯でサイトの管理が必要最低限でしたので、今後はそちらにも意識を向けていきたいと思っております。




