第十四話 消化不良はほどほどに(5)
もはや日課となったメルクの出迎えをしっかりと堪能してから部屋へ入ったオリヴィアは、いつも通り仕事をこなした。一週間も勤めていれば、自然と働き方も習慣づいてくる。お陰で怪我の影響も最小限に、実に滞りなく進めることができた。
そうして一通り必要なことを終えた今、寝台でスースーと穏やかな寝息を立てるメルクを見守りながら、座り慣れた椅子でオリヴィアは小首を傾げていた。
「審査の結果ってどうやって発表されるのかしら……?」
今日が最終日のはずだが、合否がどのように伝えられるのか実はオリヴィアも知らないのだ。
「ディオン様は初日になにも仰らなかったし、侍者の方だって……」
偶然にも今日の侍者は、昨日オリヴィアが頭部に玩具を直撃させてしまったあの護衛騎士だった。かなり気さくな人柄のようで、『昨日はどうも』と向こうから声をかけてくれたのだ。
当然、オリヴィアは改めて頭を下げたが、騎士が慌てて『謝罪が欲しくてお声がけしたわけでは……』と笑いかけてくれたことで、少し立ち話をする流れになってしまった。
王宮での人脈形成は必要最低限にしておきたいところだが、この騎士がエリアスにどう報告するのかまではオリヴィアも分からないため、軽率に疎んずるのも危険だと判断したのである。
あくまでも当たり障りない会話を——と頭を捻ったオリヴィアは、昨日気になったあることを尋ねてみたのだった。
『昨日、エリアス殿下にお名前を呼ばれたと喜ばれていましたが、あれはどうい——』
『ああ! 俺は城内の警備を担当する王宮警備隊の所属なんですが、王宮警備隊はさらに担当する要人ごとに小隊に分かれているんですよ。それで、俺のいる王太子殿下付き小隊は平時で五十人前後いるんですが、殿下はその全員の顔と名前を覚えているらしいんです!』
『それは、すごいで——』
『でしょう?! だけど名前を呼んでもらえる機会って、それほど多くないんですよね。普段は殿下のおそばで危険分子がないか神経を尖らせているだけなので、殿下からお声をかけていただくこと自体がかなりレアなんです! だから隊員みんなで、誰が先に名前を呼ばれるか競い合ってるんですよ!』
エリアスにネイトと呼ばれていたこの騎士に、オリヴィアはやや気圧されていた。オリヴィアが話し終える前にネイトが口を開くので、会話の速度がかなり早いのだ。
それでもオリヴィアはネイトに好印象を抱いた。裏表のない素直な性格で、溌剌とした気持ちの良い青年だったからだ。この後しばらく続いた会話の節々から、エリアスに対する深い敬意を感じられたのも後押しとなった。
「雑談のまま話が終わってしまいそうだったから言付けがないか聞いてみたけれど、なにもないと仰っていたし……」
オリヴィアは「どうしよう……」と不安を漏らし、頭を抱える。
今朝、屋敷を出る前にベアトリスに呼び出されたオリヴィアは、一発平手打ちを食らい『あなたの帰りを待っているわ』と釘を刺されていたのだ。
ベアトリスから「あなた」などと呼ばれたのは初めてのことで、まるで王太子妃の練習でもしているかのようなあの口調は、まさしく彼女の意図そのものだろう。
「はぁ……そもそも無事に一週間勤めたところで、本当に婚約者になんてなれるのかしら……」
行き場のない感情を持て余し、根本的な部分を疑うしか発散する術が見当たらない。王家の封書にも明記されていたのだから、「やっぱりやめました」なんてことにはならないはずだが、生殺しのこの状況はいかんせん居心地が悪いのである。
それからしばらくの間、自ら結果を尋ねてよいものか等つらつら考えを巡らせていたものの、やがて思案に余ったオリヴィアはメルクを眺めて癒やしを補給していた。そして、知らず知らずこう呟いたのだ。
「……今日で、終わりなのよね…………」
ちょうどその時、琥珀色の瞳がパチリと目を覚ました。あたかもオリヴィアの言葉に反応したかのようだが、全くの偶然である。
「おはようございます、メルク」
それでもオリヴィアの声や表情は、先ほどよりもずいぶんと明るい。ある種、時宜を得た覚醒だったと言えよう。
ほどなくして軽々と寝台から飛び降りたメルクは、前足を伸ばしてお尻を突き上げるようにグィーッと伸びをした。そして、じっとオリヴィアを見つめてきたではないか。
(これはお散歩に行きたいのね)
それなりにあるメルクの無言の要求に違わない行動を取れるようになってきたのは、ここ二、三日のことである。毎日失敗と成功を積み重ねて、少しずつ精度を上げてきたのだ。
オリヴィアはおもむろに椅子から立ち上がると、「ではお庭へ向かいましょうか。侍者の方にその旨をお伝えしてまいります」とメルクに声をかけて入口へ向かった。
ところが、オリヴィアが扉の把手に手をかけようとした時——
——コンコン
目の前の扉から控えめなノック音が響いたのだ。
(ひょっとして審査結果かしら?)
全身が一気に緊張を帯びたのが分かる。せめてメルクとの散歩を先に楽しみたかったが、悠長なことは言っていられない。なによりお預けを食っていることに嘆いていたのは、他の誰でもないオリヴィアなのだから。
緊張感と逸る気持ちが入り混じる中、努めて平静な声で「はい」と返事をしたオリヴィアは、把手を握り締めたまま一度深呼吸をして扉を開いた。
「エ、リアス……殿下…………」
予告がない分、突然の登場は心臓に悪い。昨日同様、寸分の狂いもない立ち姿で現れたエリアスは、これまた一切感情の乗っていない顔つきでオリヴィアを見下ろしていた。
「メルクを庭へ連れて行く」
「は、はい」
ふと背後から軽快な足音が聞こえたため、オリヴィアは慌てて脇へ身を引いた。
予想通りオリヴィアの空けた道を風を切って走り抜けたメルクは、相変わらず一切の減速なしにエリアスへ飛びついている。どうやらこれは恒例行事らしい。
メルクは飛びつく時、前足を上げて後ろ足で立つような姿勢になる。そうするとメルクの顔がエリアスの顎近くに達するので、なかなかに大きいのだ。それを、やはり泰然と受け止めるエリアスの体幹に敬服していると——
「————……っ!」
声にならない痛みがオリヴィアの腕に走った。
散歩の支度をする二人を通すため、オリヴィアは扉を背中で押しながら後ろへ下がったのだ。ところがその時、少しお尻を突き出して前のめりになっていたことで、外套の裾が床に着いていた。
それを前を通ったメルクが踏んでしまい、クンッと外套が突っ張ったせいでオリヴィアは前方へよろけてしまったのだ。
なんとか踏ん張って事なきを得たはずだったが、留める存在を失ったことで閉じようとする扉を、オリヴィアは咄嗟にかの腕で押さえてしまったのである。
しかも、それがちょうど扉の縁だったものだから、痛みは割増だ。
「……ぃっ——…………」
青銅製の鐘を打った後の震えの余韻のような痛みが、患部に纏わり付いている。それに伴って発生するうめき声をどうにか殺すので精一杯だ。
反対側の手を患部に添えてぎゅっと体を丸めるオリヴィアには、現状を把握する余力など当然残っていない。
「……テーヌ嬢…………レステーヌ嬢」
「…………?」
しばらくして自身の名を呼ぶ声にハッとしたオリヴィアは、ゆっくりと顔を上げた。オリヴィアに自覚はないが額には薄っすらと汗が滲み、それでいてその顔色はひどく青い。
やがて虚ろであった若葉の瞳に生気が戻り始めたことで、改めてオリヴィアは自身の体に影が落ちていることに疑問を抱いた。
「——っ?!?!」
ようやく事態を理解したところで、オリヴィアから声にならない悲鳴が上がる。
どうやら扉を支えていたのはオリヴィアだけではなかったようなのだが、それがどうして蹲るオリヴィアに扉を片手で押さえるエリアスが覆い被さる体勢になっているのだろうか。どこも接触はしていないあたり、さすがではあるが。
「も、申し訳ありませんでした……!」
慌てふためくオリヴィアは床を這うように影から抜け出すと、立ち上がって勢いよく頭を下げた。
「問題ない」とエリアスが扉を閉めながら答えてくれる。
ところが、パタンと完全に扉が閉じられたところで、鋭く光った灰簾石がオリヴィアの胸の前で揃えられた腕を見据えたのだ。
「怪我をしているのか?」
「え……?」




