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第十三話 消化不良はほどほどに(4)

「うっ……痛……」


 床に置かれた粗末な寝具に座って寝具と接する壁に背を預けたオリヴィアは、恨めしそうに痛みの根源を見つめる。ここは今のオリヴィアの自室、先ほど扉の把手に手をかけた地下の倉庫の一つだ。


 造り自体は悪くないものの、家具はこの寝具と洋服箪笥ワードローブぐらいで、机はもともと庫内にあった木箱——一面が割れて無くなっている——で代用している。頻繁に掃除をしても地下に繋がる階段と同じ臭いは消えないし、稀に鼠と戦うこともあるが、まぁ暮らせないことはない。


「ふぅ……今日は平手打ち一発とはいかなかったわね……」


 案の定、患部は皮下出血を起こしていた。手当をしてくれた使用人が現状を目の当たりにして『ヒッ』と小さな悲鳴を上げたものだから、『ただの痣よ』と笑って宥めておいたというのに——


「これじゃあ包帯の巻き過ぎで、血が止まってしまうわ」


 明らかに患部以外のところまで覆われた包帯を見て、思わずふふっと笑いがこみ上げてしまった。範囲もそうだが厚みもかなりのもので、包帯を外すのだって見るからに大変そうなのだ。


 それでも腕周りの大袈裟ぶりが、オリヴィアの心を明るくしたのは間違いない。たとえその灯りの持続性があいにくのものであろうとも、包帯が保護しているのは患部だけではないのである。


「それにしても……お従姉様が地下ここまで来られたのは初めてね」

 

 オリヴィアの脳裏に、先ほどの出来事が思い起こされる。


 使用人区画というのは、ベアトリスが屋敷内でもっとも嫌厭している場所だ。伯爵令嬢が足を踏み入れるところではないという認識なのだろう。貴族ならば往々にして持っている概念である。


 それ故、普段は倉庫に荷物を置いたオリヴィアが彼女の部屋を訪れて、一日の報告を行うことになっている。引き継いだ後の()()()()()()言動に齟齬を来すことがないよう、可能な限りその日の出来事を詳らかにするのだ。


 報告を終えてから、すんなりと退室できない日ももちろんあった。彼女の得意技は平手打ちで、紅茶の入ったティーカップを投げつけるのが次点。一昨日は確か、淹れたての紅茶にまみれたと記憶している。


 それでも今日のように従姉自らが出迎えるなど、この六日間で初めてのことだ。安心しきっていた分、それはオリヴィアをひどく動揺させた。ベアトリスの反応からして、上手く平静を装えたと認識しているが。


「明日も来るのかしら……勘弁してほしいわ……」


 痛みを気遣いながらオリヴィアはぎゅっと膝を抱え、腕の間に顔をうずめた。


 ベアトリスの行動に意味や規則性を求めるなど無意味なことだ。それでも一つ分かることは、嫌厭区域に立ち入ってでも憂さを晴らしたいほどの出来事が、彼女の身に起きたということ。


(だからといって、攻撃的な方法を選んで良い理由にはならないけれど……)


 あれからベアトリスはオリヴィアを地面に放置したまま屋敷へ戻っていった。


 その姿が見えなくなったところで駆け寄ってくれた数人の使用人が、オリヴィアを支えて立ち上がらせては丁寧に体を拭いてくれた。自分が汚れることも厭わず、そのうえ勝手口から屋内へ戻れば貴重なお湯まで用意されていて、あまりの厚遇に頭の下がる思いだった。


 だけど悲しいかな、手際よくオリヴィアを助ける彼らの表情は漏れなく色を失っていたのだ。それがどうしても悔しいオリヴィアは『大丈夫、今日はかなりマシなほうだわ』と気丈に振る舞ってみせたものの、彼らは力なく笑むだけだった。


 そこまで振り返って、オリヴィアは唇を噛む。


(私だって……みんながお従姉様に傷つけられるところなんて、見たくないもの……)


 オリヴィアと使用人、互いに考えていることは同じなのだ。だからといってなんの後ろ盾もないオリヴィアたちは、どう足掻いてもあと半年耐えるしかない。この現実が多分に悔しさを助長させる。


(家族や兄弟、恋人……みんなには、私以外にも大切な存在がいるんだから)


 オリヴィアにとってのそれは、使用人だけ。ならば、せめて前当主の娘として彼らを守るぐらいのことはしたいのである。


 だから、なにがあってもオリヴィアを庇うなと使用人に言い含めてある。彼らがオリヴィアを庇えば、ベアトリスの忌諱に触れるのは明白だからだ。先ほどベアトリスの姿が見えなくなるまで待っていた彼らの行動は、それに従った結果である。


「……この程度なら飼育係の勤めに支障はなさそうね」


 怪我を負ったほうの手をグーパーと何度か握っては開き、動きを確かめてみる。やはり手先を動かすとなれば、多少なりとも患部に響いてしまうようだ。


 疲れの滲む面持ちで、オリヴィアはコツンと頭を壁に預けた。


「明日もエリアス殿下はいらっしゃるのかしら……」


 オリヴィアは庭でのエリアスの姿を思い浮かべた。あれほどメルクと戯れながらも、それがエリアスにとって完全なる私的な時間ではないことぐらい察しがついていた。遠く離れたところにいながらにして、間違いなく彼は飼育係を()()()()のだ。


「ふふ、メルクは終始とても楽しそうだったけれど。玩具を追いかける時の表情なんて、まるで太陽のようだっ……た……」


 笑みを零していたオリヴィアだったが次第にその表情は曇り、やがて口を噤んでしまう。


 今、エリアスやメルクのことは思い出したくない。いつもなら深呼吸をして気持ちを切り替え、軽症ならばやるべきことをする。重症ならば掛布に包まって、全てを忘れるように眠りにつく。今日の程度であれば前者だ。


 そのはずなのに——


 どうにも動く気力が全く湧いてこない。粗末な寝具は焼いて数日経ったパンに比肩するほど硬く、オリヴィアが乗ったところでほとんど形を変えないはずなのに、今は床にお尻が着くのではと錯覚するほど深く沈み込んでいる気がする。

 それでもなんとか立ち上がろうと寝具に手を突くが、上手く力が入らない気がするのだ。


「…………?」


 初めての感覚にオリヴィアは戸惑った。ベアトリスになにをされようと蚊に食われた程度に思えるよう、自分を宥める術を会得しているからだ。本来なら一度軽症と認識すれば、すぐさま行動に移すことができるはずなのに——


「……仕方ないわ、今日はもう寝ましょう」


 この寒さを凌ぐには厚みの足りない掛布に包まって、オリヴィアはぎゅっと目を瞑った。






 どれだけ暴力を振るわれようと、オリヴィアに課された使命が消えるわけではない。


 たった一晩眠ったところで傷は気持ち程度にしか治ってくれないが、それでもオリヴィアは今日も王宮へ向かう馬車に揺られている。


 改めて陽の下に出ると、腕の怪我以外にも小さな擦り傷がいくつもできていることに気付く。外套の存在をありがたく思うなど、皮肉以外のなにものでもない。


「最終日に相応しい晴天ね。これだけでも十分気が紛れるわ」


 怪我によって動きに不自然なところはないか、出発前に使用人に確認してもらった。腕を上げた拍子につかえているのが分かると指摘されたので、そこだけは気を付けなくてはいけない。ロールケーキ並の厚みだった包帯は、取り替える際に違和感のない程度に留めてもらった。


「今日一日がつつがなく終わるよう、見守っていてください」


 代役最終日。オリヴィアは胸の前で手を組み、大好きな人たちに祈ったのだった。


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