第十二話 消化不良はほどほどに(3)
※こちらの話には少々暴力的な描写が含まれておりますので、苦手な方はご注意ください。
「今日はとても、楽しかったわ……」
帰路につく馬車の中、窓に軽く頭を預けて流れる景色をぼんやりと眺めていたオリヴィアは、口を衝いて出た言葉に自分で驚いた。
結局あの後もお言葉に甘えてメルクとの遊びに参加させてもらったのだが、フードが脱げないよう注意を払いながら動くのは案外難しいもので、エリアスの前で顔を晒しそうになっては肝を冷やした場面が何度かあった。
それを含めてもなお、今日一日に総じて前向きな感想を持つことができたのだ。こんなことはいつぶりだろうかと、オリヴィアは心の中で問いかける。
「それにしても、あの感覚はなんだったのかしら……」
エリアスの一刹那の表情変化が、どうにも引っかかったままなのだ。一つ目の悲しみで歪めたと思しきそれは理由すら考え及ばないが、二つ目に関しては少し毛色が異なる気がしていた。
あの控えめな笑顔の中に、オリヴィアの過去の想い人の面影を感じたのだ。
落ち込んだ時に見る夢に登場する、オリヴィアを「リヴィ」と呼ぶ人物である。夢見を良くしようと甘言を弄しては最後にどん底まで落とす、あの人物だ。
とはいえ明確な根拠があるわけではなく、あくまで第六感に頼った不安定なものであることは心に留めておくべきだろう。
「顔は……似ていないわよね。髪色や瞳の色だって違うし、生まれも王家ではなかったもの」
白状すると、記憶に朧げな部分があることは否定できない。せっかく気分の良い今は思い出したくないが、想い人の記憶が混濁してしまうほどの辛酸をオリヴィアは経験しているのだ。
「一体なにが殿下をその人と思わせたのかしら……?」
夢に出てくるその人はあくまでも夢の登場人物であって、実際の彼の為人とは似ても似つかない。だから、内面に関しては自身の記憶を頼るしかないのだが——
「うーん……、似ているような似ていないような……?」
時に自分とは、全く当てにならないものである。オリヴィアは純一無雑呆れのため息を吐いた。
「なんて、気にしても仕方がないわ。あと一日でこの生活は終わるんだもの。久しぶりに体を動かしてなんだか気持ちもすっきりしたし、今日はよく眠れそう」
オリヴィアは指を交互に組むと、「ん゙ーっ!」と声を漏らしながら腕を伸ばした。
外套を脱いだことで露わになった髪の毛先が、ガタンッと大きく弾んだ馬車の動きに合わせてぴょんぴょん跳ねる。フードをかぶる時に引っかかってしまうので、日課の一つ結びはお預けだ。
「明日もメルクに会えるのが楽しみね」
窓硝子にうっすら映るオリヴィアは微笑んでいた。
——だけど、そうして心を踊らせてしまったのが良くなかったのだ。
馬車を降りて勝手口から屋敷へ入ったオリヴィアは、入口から続く廊下を進むのではなく、すぐそばにある木の扉を押し開いた。蝶番が錆びているせいで、キィィィと鼓膜に痒みを覚える音が響く。
扉の先は地下へ続く階段になっていて、ツンと鼻をつくかび臭さとたった一本の蝋燭の灯りが不気味さを醸し出しだしている。
オリヴィアはそこへ躊躇うことなく飛び込んだ。階段を下っていくその足取りは軽快だ。
ほんの十数段でたどり着いたのは地下の使用人区画。
使用人区画と言ってもここはワインセラーと予備の倉庫がいくつかあるだけで、実際に使用人が働く場所は勝手口から続いていた廊下の先にある。
ついでに言えば、使用人は別棟に寝室が与えられている——一人一部屋などどいう贅沢なものではないが——ので、地下を使うのは食材を取りに来るシェフ見習いかワインを管理する執事長ぐらいのものだ。
そんな環境の中でオリヴィアはただ一人、ここへ放り込まれたのである。
予備の倉庫のうち一番奥にある扉の把手に手をかけたところで、キィィィとあの嫌な音が背筋を震わせた。カツカツと階段を踏み付ける音に身の毛がよだつ。あれほど激しい靴音を奏でるのは、オリヴィアの知る中で一人しかいない。
(どうして……こんな場所、絶対に来ないはずなのに……)
階段から姿を現したのは思った通り、鋭く目を釣り上げたベアトリスだ。
「いっ——…………!」
ズカズカとこちらへやって来たベアトリスに強く髪を掴まれ、反動で腕にかけていた外套を落としてしまった。それをどうすることもできないまま、オリヴィアは階段を上り勝手口から外へ引きずり出される。
髪を掴まれているせいで前のめりの体勢を余儀なくされ、覚束ない足取りでなんとかベアトリスについて行くと、突如グイッと強く髪を引かれ勢いよく前へ転んでしまった。
べシャッと音を立てて崩れたオリヴィアの服や体は、夜中の雨でぬかるんだ泥がべっとりだ。そんな従妹の姿に加虐心が触発されたのか、口元に手を当てたベアトリスがここぞとばかりにオリヴィアを嘲る。
「やだ、きったない。そんな格好で神聖な王宮に足を踏み入れないでほしいわ。だけど、惨めなお前にはよくお似合いではなくて?」
髪の根元に残る痛みや体に纏わりつく泥の不快感——オリヴィアはそのいずれも表情に出すことなく、ただ淡々と上体を起こす。体を支えるために地面に着いた手の指の間から、ニュッと泥が盛り上がった。
「……なによ、その目? ちょっと王宮に入れたからって、調子に乗るんじゃないわよ!!」
フライパンを釘で引っ掻いたようなキンキンとした金切り声で、ベアトリスがあれこれと喚いている。この状態の彼女になにを言ったところで、火に油を注ぐ結果になるのは自明のことだ。
だからオリヴィアはあえて立ち上がることをせず、最低でも小康状態になるまで耐えなくてはならない。その間、無傷でいられるかどうかはまた別の話だ。
「もうっ! 本っ当に鬱陶しい!!!!」
そう吐き捨てたところで、不意にベアトリスがオリヴィアの背後にある今はもう使われていない井戸へ向かった。振り向いたオリヴィアの視線があるものを見つけ、彼女の行動の意図を推し量る。ベアトリスの目的は、井戸のそばに置かれているバケツだ。
持ち上げる時にベアトリスが力んだので、バケツには雨水がたっぷりと入っているのだろう。ベアトリスはそれを泥に足を取られながらヨタヨタとこちらへ運んでくると、案の定オリヴィアに向かって目一杯投げつけた。
ポタ……ポタ……とオリヴィアの顎や耳、髪の毛先から水が滴る。
カラン……カラン……と地面に転がったバケツは左右に揺れて、着地により受けた衝撃の余韻を消化している。
ハァハァ……っと肩で息をするのはベアトリスだ。
オリヴィアは頃合いを見計らって、身を庇おうと咄嗟に上げていた両腕を静かに下ろした。その表情はいたって単調だが、ベアトリスに知られぬよう実は奥歯をきつく噛み締めている。
前腕の一本がもろにバケツを食らったのだ。春を迎える手前、夕暮れの時間ともなるとさすがに冷える。ただでさえ骨身に応える寒さだというのに、濡れたせいでより一層体が冷えてしまい、骨に響く痛みもじわじわとその威力を増していく。
それでも両腕の防御がなくバケツが頭部に直撃していたら、この程度では済まなかっただろう——どこか冷静な頭でそう考える自分に昔は狂気を感じていたっけ、とオリヴィアは内心自嘲した。




