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第十一話 消化不良はほどほどに(2)

 大した変化ではなかったように思う。相変わらずの無表情だと言われれば否定はできない。


 それでもその微かな変化は、オリヴィアを動揺させるには十分だった。


「あの……」

「ここはメルクの庭だ」

「えっ?! あっ、はい」


 エリアスはそれ以上なにも言うことなく踵を返してしまった。


 すでに距離のできたその背中を、オリヴィアはただ見つめることしかできない。あの刹那的な表情が幻に思えるほど、芝生を踏む王太子の足取りは確かだ。


 そもそも、この状況で悲しむ要素が見当たらない。メルクがオリヴィアを誘ったことに対する嫉妬心、というのは仮説にするのも甚だ的外れだろう。


(見間違い……? 本当に?)


 どうにも消化不良感が拭えないが、さしあたりは飼育係としての本分に集中すべきだろう。エリアスが立ち去った今も、メルクはオリヴィアのそばで熱視線を向けてくれているのだから。


 ここはメルクの庭だ——エリアスの言葉の意味を、オリヴィアは速やかに咀嚼していく。


(決定権はメルクにある……ということよね。殿下はきっと、私が許可なく勝手に動けないとお考えになったんだわ)


 二の足を踏んでいた理由はそこではないが、エリアスにまで気を遣わせてしまったのは失態だ。

 

 ここまでしてもらっておいて、メルクの誘いを断るわけにはいかない。決心はそのままに、けれどもせっかくなら楽しませてもらおう。


 オリヴィアは外套の裾を畳むようにして屈み、足元に転がる玩具を手に取った。あれほど躊躇っておきながら、すでに満更でもない顔つきになっていることは自覚している。


 手の中にある玩具を一度ぎゅっと強く握り締めると、もう片方の手でフードをしっかりと押さえた。足元にいるメルクに目配せをすると、その意図を察したのか走り出そうと構えてくれる。


 それを確認したオリヴィアは、フードを押さえたまま玩具を放り投げた。


 ——ポコンッ


「うぉっ?!」

「あっ——……!」


 やってしまった。


 オリヴィアの手から離れたボールは生け垣を優に越えて、そばにいた護衛騎士の頭で愉快に跳ねたのだ。呆然とその場に立ち尽くすオリヴィアの顔からは、みるみる血の気が引いていく。


 運動に対する苦手意識はない。どちらかと言えばお転婆に分類される幼少期を過ごし、現在いまも体を動かすのは好きなほうだ。だから先の投球もメルクが楽しく走ることができる、ほどよい距離で着地することを想定して力を加減した。


 はずだったのに——


 残念ながら、オリヴィアは一つ判断を誤ってしまったのである。今日は時折り強い風が吹くことを失念していた。外套のフードを何度も攫おうとした、いたずら好きのあの子である。


 投げる前から落下予定地点に対して微かな横風が吹いていたので、それも計算したうえでの投球だったことは言っておく。予想外だったのは、()()()()()が時機をしっかりと伺っていたことだろうか。

 それがオリヴィアの手から玩具が離れた瞬間、ここぞとばかりに吹き去ってくれたものだから、想定よりはるかに遠くへ飛んでいってしまったという顛末だ。


 犠牲となった騎士は、何事かとキョロキョロ辺りを見回している。その手前にある生け垣のそばでは、投球と同時に駆け出したメルクが懸命に玩具を探していた。

 

「も、申し訳ありません……っ!!!!!!!」


 オリヴィアは慌てて騎士へ駆け寄り、生け垣越しに深く頭を下げた。


(なにもこんな絶妙な場所に落ちなくてもぉ〜〜〜〜〜!!!!)


 騎士とメルクに対する申し訳なさと、恥ずかしさと、その他諸々の感情でオリヴィアの内心は荒れに荒れている。


「あの、私は大丈夫ですから。頭を上げてください……!」


 騎士に気を遣わせてしまい、心苦しさは倍増だ。異変に気付いたメルクまでもがそっと足元に寄り添ってくれている始末で、優しさの詰まったこの空間にオリヴィアは内心で滂沱の涙を流した。


「本当に、申し訳ありませんでした……」


 再度謝罪をしてから、オリヴィアはおずおずと体勢を戻した。騎士が差し出してくれた玩具を、「重ね重ね申し訳ありません」とありがたく頂戴する。


 そして、ようやく周りが見えたことによって、近くを警備している他の騎士までもが何事かとこちらを注目していることに気が付いたのだ。


(本当に、なにをやっているの……。私は目立ってはいけない立場なの……よ…………)


 自分への呆れが収まらず額を抑えていたオリヴィアは、最も重要なことを思い出し失神しそうになった。乾燥と冬の冷気に当てられて赤みを帯びていた頬は、今や石膏像も驚くほどに真っ青だ。


(ど……どどどどうしよう……! 今の一連の出来事、絶対に殿下もご覧になっていたわよね……?! これも飼育係としての評価に響くのかしら……)


 オリヴィアとしては五日間、真面目に勤めてきたつもりだ。あと少しで使用人たちが屋敷から追い出される危険性を排除できる——その未来が、ようやく見えてきたというのに。            


「あ、あの……エリアス殿下は今どうされていますか? お怒り……でしょうか?」


 生きた空もないオリヴィアは振り返ることができず、焦りのあまり騎士にそう尋ねていた。初めてエリアスを前にして、『挙動不審でいるほうが不自然だ』と思えた冷静さを発動する余裕もない。


「えっ?! さ、さぁ……? 私からはなんとも……」


 騎士の返答は至極真っ当である。


「そうですよね……。すみません、自分で確認します……」


 そうだ、まだ失格と決まったわけではない。ほんのわずかでも弁解の余地が残っているのならば、力の限り抗おう。


 ところが、騎士の反応はオリヴィアの予想とは少し違っていた。


「あっ、いえ、そういうわけではなく……」

「?」

「大丈夫か、ネイト」


 思いがけず頭上から降ってきた声に、オリヴィアはビクッと大きく体を震わせた。


 いつの間にか、エリアスはオリヴィアの背後まで来ていたらしい。しかも声の聞こえ方からして、かなり近い場所に立っている。どうりで先ほどまで足元にいたメルクが離れていったわけだ。


「……っ、はい! ご心配には及びません、殿下!」


 騎士も自分に声がかかるとは思っていなかったのだろう、声を呑んだのが分かった。王太子を目の前にして緊張が抜けきらぬ表情ながらも、それでいて言葉の端には隠しきれない高揚感が滲んでいる。

 

 そのまま立ち位置に戻った騎士とは対照的に、オリヴィアはその場を動けずにいた。弁解をしようにも、ここで突然振り返ってオリヴィアから口火を切ってよいものか判断に迷っているのだ。


「…………」

「…………」


 奇妙な沈黙がオリヴィアをなんともいたたまれない気持ちにさせる。


(や……るしか、ないわ……)


 ごくりと喉を鳴らしたオリヴィアが、ひと思いにやってしまおうと勇んだ時——


「レステーヌ嬢」

「——は、はいっ!」


 唐突に名を呼ばれたせいで、不覚にも威勢のいい声を発してしまった。しかも発声と同時にぐるりと振り返ってしまったので、エリアスとバッチリ目が合っている状況だ。さすがのエリアスも驚いたのか、わずかに目を瞠っている。


 だが間もなくオリヴィアは、その美しい夜を携えた切れ長の目の小さな変化を目撃することになる。


「ふっ、いい返事だな。……ほら、続きを待っている」


 エリアスはクイッと頭を振ってメルクを指した。視界の端で藤色の尾がブンブンと振れている気がするが、愛おしい存在を引き合いに出したとしても今のオリヴィアはそれどころではない。


(エリアス殿下って……)


 すでにメルクの元へ向かっているエリアスを見つめながら、オリヴィアは動揺していた。背後では「ついに俺もエリアス殿下に名前を呼んでいただけた……!」と、先ほどの騎士が同僚と喜び合っている声がする。


 また横風が強く吹いたことで外套の裾が足に纏わりつくが、それでも若葉色の焦点は揺るがなかった。そしてそのまま今日何度目かのエリアスの後ろ姿に、オリヴィアはボソッと呟いたのだ。


「初対面……よね……?」


 新たな消化不良に首を傾げつつも、オリヴィアは自身を待つメルクの元へ早足で向かった。


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