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第十話 消化不良はほどほどに(1)

 敷地内とはいえメルクの庭までは距離がある。


 毎朝オリヴィアが侍者に出迎えられる正面玄関ではなく、奥まったところにひっそりとある出入口を通って王宮の建物から出ると、花壇や噴水を楽しむために敷設された道をしばらく歩くことになるのだ。


 昨日初めて同行した時には、思いのほか歩くのだと驚いたものだった。侍者曰く散歩も兼ねているため、あえて離れた場所に庭を整えたらしい。


「あっ、まただわ」


 オリヴィアは感嘆の声を漏らした。いたずらにフードを翻そうとする寒風に抗いながら、前を歩く王太子とその愛玩動物を見守っていたのだ。


(これで何度目かしら)


 まだ建物を出てからそれほど経っていない。ところがそのわずかな時間ですら、隣を仰ぎ見るメルクの姿をオリヴィアは何度も目にしていた。


 黄金の眼差しの先にいるのは、言わずもがなエリアスである。


(なんだか楽しい気持ちを親と共有したい子どもに見えてくるわ。殿下を心から慕っていることが、はっきりと伝わってくるもの)


 純真な心がそのまま現れたようなメルクの穢れなき愛情表現に、少し離れたところを歩くオリヴィアまでもが癒やされてしまう。


 人間ほど大きな表情変化はないものの、目つきや口角、そして尻尾の状態から、ある程度藤狼の感情を把握することができるのだ。それを踏まえて観察してみると、エリアスが部屋を訪れてからのメルクはずっとご機嫌である。


(それと——)


 若葉の瞳が捉えたのは、丁寧に目線を落として愛玩動物に微笑みかける王太子の姿。


(さすがに、もう驚かないわ)


 オリヴィアは眉を下げてクスクスと笑いを零した。


 エリアスは案外、()()()だ。それを他の誰でもない、メルクが証明してくれている。

 

 昨日は侍者がエリアスの位置にいて今の彼らと同じように並んで歩いていたのに、メルクと侍者の間には人一人分ほどの距離があった。それのみかメルクが侍者を見上げることは一度もなく、義務的に散歩を遂行しているに過ぎないといった雰囲気がメルクと侍者の双方から漂っていたのだ。


 強いて言うなら「微笑みかける」と表現したのは、あるいは語弊があるのかもしれない。なにせオリヴィアから見えた王太子の横顔は、口角が気持ちほんのわずかに上がった程度だったのだ。


 それでもエリアスが応えた瞬間、メルクの三本の尾が元気よく左右に振れたのが全ての答えだろう。


 こうして客観的に見てみると、エリアスが慈愛に満ちた人柄であることは一目瞭然だというのに——オリヴィアは懐疑的にしか見られなかった自分をひどく恥じた。


(少し藤狼のことを知っているからって、傲慢にもほどがあるわ……)


 額をおさえ、オリヴィアは嘆息を漏らす。


 そうこうしているうちに、先を行く二人が立派な白い門を潜った。オリヴィアも少し足を早め、二人に続いて門の先へ足を踏み入れる。


「二度目でも圧巻ね——……」 


 メルクの庭というのは随分と広い。


 長方形の庭の四方はオリヴィアの胸の高さほどある生け垣で囲われ、内側は手入れの行き届いた瑞々しい芝生が敷かれている。この寒い時期にこれほど芝生が元気なのは、ひとえに庭師の技量によるものだろう。


 一辺を歩くだけでも数分は要する規模の敷地。それがたった一匹の藤狼のために用意されているのだから、王家の、いや、エリアスの本気を目の当たりにした気がする。


 背後からカシャンッと鉄の擦れる音がした。庭を囲むように配置された護衛の一人が、入口の門を閉じたのだ。


 庭ではすでに引き紐から解き放たれたメルクが悠々と駆け回っていて、エリアスはそれを少し離れたところから見守るつもりらしい。オリヴィアも昨日と同様、入口のそばに立ってその無邪気な姿を見守らせてもらうことにした。


(ふふ、今日も元気いっぱいね。見ているだけで、なんだか私も元気になれるわ。…………あら?)


 オリヴィアは目の前の光景に驚き入る。


(エリアス殿下も、お元気なのね……?)


 ひとしきり庭を走り回ったところで、メルクがまるで満足したと言わんばかりにエリアスへ駆け寄ったのだ。すると、エリアスがなにやらメルクに指示を出し始めたではないか。


 残念ながらオリヴィアの位置からでは内容までは聞き取れないが、恐らくメルクはその指示通りに動いているのだろう。並んで歩きながらエリアスの足の間を潜ったり、屈んだエリアスの背を飛び越えたりと、エリアスの言葉や手振りに応じて次々と動きを変えていく様子は、さながらサーカスの曲芸のようである。


(すごいわ……息ぴったり……!)


 上手く訓練すれば、藤狼とはこうして相棒のような関係性を育むことができると聞く。一度主人と認めた者には絶対的な忠誠心を示し、時には言語を介する人間同士よりも強固な絆を育むことができるのだ。


 美しい姿形も然ることながら、その性質に魅了されて藤狼に心酔する人間も多い。かく言うオリヴィアもその一人である。


(だけど王太子殿下を飛び越えて許されるのは、この国で唯一メルクだけね)


 きっとメルクならエリアスの足を踏んだとしても笑って許されるのだろう。人間がそんなことをしようものなら問答無用で極刑行きだ。


(怖いもの知らずと言うべきか、天真爛漫と言うべきか)


 オリヴィアは思わず顔を綻ばせた。


 ——ポトッ


「……え?」


 気付けば足元に球状の玩具が転がっていた。その先には、愛くるしい顔でオリヴィアを見つめるメルクの姿がある。


 オリヴィアがひっそりと笑っている間に、どうやら次の遊びに移っていたらしい。


 この玩具は見覚えがある。昨日、侍者がメルクと遊ぶ時にも使っていたメルクのお気に入りだ。侍者が投げてメルクが取りに行く——そのやり取りがあまりにも事務的なものだから、オリヴィアはつい投げ手に名乗りを上げそうになり、どうにかグッと堪えたのだった。


 それが今日は——


(これは私を遊びに誘ってくれている……のよね……?)


 確かめるようにメルクを見遣ると、キラキラと期待に満ちた眼差しが返ってきた。間違いなく、これは遊びへのお誘いだ。


(私と遊んでくれるの?! 嬉しい……! だけど、殿下の前で下手に動くわけには……)


 動作に反映される個性は、外套で覆ったところで隠しきれないものだとオリヴィアは思う。動けば動くほど、エリアスに()()()()()()認識する材料を与えてしまうのだ。

 

 そして、それは確実にベアトリスへ引き継ぐ際の障害となってしまう。


 エリアスへの懐疑心が晴れたとはいえ、恐怖心までもが払拭されたわけではない。ベアトリスの代役として存在している限り、気の緩みなど決して許されないのだ。


(せっかく誘ってくれたのに……)


 願ってもない好機の訪れに、容易く揺さぶられる決心が煩わしい。明日も庭に同行できる確約がない以上、これを逃せば二度とメルクと遊べないかもしれないのだ。その事実が余計にオリヴィアを惑わせた。


 だから後戻りできなくなる前に、潔く退路を断ってしまおう。


 オリヴィアは膝に手を当てて身を屈めると、黄金の瞳を覗き込んでさっさと辞退を申し出る。


「ごめんなさい、メルク。あなたと一緒に遊ぶの……は……——っ!」


 オリヴィアは慌ててフードを握り締めた。いつの間にか、すぐそばまでエリアスが来ているのだ。ザッザッと芝生を踏む音は一定で、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

 

(全然……気付かなかったわ……)


 突然の出来事に一瞬にして全身が総毛立った。ドクッドクッと心臓が早鐘を打っている。


 離れていることに油断したつもりはなかったが、意識が他へ向いてしまっていたことは否定できない。エリアスがこちらに向かい始めてから、なにかベアトリスとして違和感のある行動は取っていないだろうか。あらゆる不安が次々と心に波紋を作っては、オリヴィアを惑わせた。


 とにかく今は、ぎゅっと外套の中で縮こまるしか逃げ道がない。


 間もなく、すぐそばで足音が止んだ。俯いているオリヴィアの視界の端に、わずかだがエリアスの靴先が入るほどの距離だ。


(…………?)


 ところが、エリアスは一向に口を開こうとはしない。


(あ……私が俯いているから……?)


 だからといって、しっかりと顔を上げるのは憚られる。ならば——と、オリヴィアは窺うようにそろりと上向いた。


「…………えっ」


 喉を引っ掛けたような小さな驚きの声を漏らしたのはオリヴィアだ。

 

(どう……して…………)


 見間違いだろうか。すでに感情の消えた端正な顔立ちが、外套の陰から覗いた一瞬だけ悲しみに歪んでいたのは。


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