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プロローグ

 落ち込んだ時、決まって見る夢がある。

 

 とぷとぷとほんのり粘度のある透明な液体に、背中からゆっくりと沈んでいく夢だ。見始めた時にはすでに全身が浸かっているから、どうやってそこにたどり着いたのかは分からない。


 海の底ほど暗いわけでもなく、かと言って水面近くほど光芒こうぼうが差し込むわけでもない、ほの明るい世界。


 液体の肌触りは良いのになぜか温度は感じないことにさほど違和感を抱くこともなく、不思議な液状の空間の赴くままに身を委ねるのだ。


 ホルマリン漬けにされた臓器はこんな感覚なのだろうか——なんて、我ながら悍ましい感想を抱くのも型通りである。


 そもそもホルマリン漬けなんて、実物を目にしたこともない。幼い頃に初めて読んだ小説で言葉を知った程度だ。


 背伸びをしたい年頃で、推理小説がずらりと並んだ母親の本棚から一番難しそうな表紙のものを一冊拝借したのだが、さっぱり意味が分からずほんの数頁で睡魔に襲われた記憶がある。


 後になって不意に思い出されたその言葉の意味を偶然近くにいた執事長に尋ねた時は、卒倒するんじゃないかと心配になるほどに顔面蒼白していたっけ。

 それでも嘘や誤魔化しは通用しないと思ったのか、額に脂汗を浮かべ目を泳がせながら、その感触がはっきりと想像できるほど懇切丁寧に教えてくれた。


 話を聞き終えた後、恐怖心のあまり母親に泣きついたせいで執事長が騒ぎを聞きつけた父親に叱られる羽目になり、挙げ句母親の自室に忍び込んで本を抜き取ったことまでバレてしまう始末だ。


 責任の所在を擦り付けた仕返しなのか、その後一週間、おやつに出てくる焼き菓子に苦手な薬草がたっぷりと練り込まれていたことは一生根に持つつもりでいる。


 こっそりシェフに泣きついて薬草を抜くようお願いしても、仲良しの侍女に執事長の説得を頼んでも、誰一人首を縦に振ってくれない。


 テーブルに並ぶ焼き菓子からはほんのり甘いバターの香りだけが漂ってくるのに、口に含むとはっきりと感じてしまう薬草の味。これが七日間も続けば、大好物のはずの焼き菓子すら憎らしく思えてしまうのは自然の摂理とも言うべきか。


 老境に差し掛かった物腰柔らかな執事長が、これほど執念深い人だとは思わなかった。両親は執事長の仕打ちを眉を下げて可笑しそうに笑うだけで、援護射撃すらしてくれない。父親が一言言えばそれで終わる話だというのに。


 唯一味方になってくれたのは、ふわっふわの毛並みと長い尻尾が愛らしい相棒だけ。

 味方と言っても人間のように言葉が話せるわけではないので、こちらが一方的にその子をぎゅっと抱き締めてつらつらと恨み言を並べるだけだ。


 木漏れ日が差し込む温かな空間で、周りには両親と執事長、シェフに侍女もいる。みんな優しい笑顔を浮かべていて、腕の中では相棒がいつの間にかすやすやと眠っていた。


 そこまで見たところで、この光景は全て泡となって消えていく。


 揺蕩いながら沈みゆく体は鉛のようで身動きが取れない。手を伸ばして泡を掴みたいのに、虚ろな眼差しでぼうっと眺めるだけだ。


「リヴィ……リヴィ…………」


 遠くのほうで声がする。この呼び声を皮切りに、懐古から都合の良い夢に切り替わるのがお約束。


「リヴィ、お待たせ。迎えに来たよ。今までよく頑張ったね」


 リヴィなんて呼び方をするのは、この世でただ一人。残念ながら現実世界のその人は決して迎えに来るような仲ではないし、どこでなにをしているのかも分からない。


 経験則から、寝覚めが悪くならないよう脳が勝手に結末を作り変えるようになったのだ。

 

「リヴィ……リ……ィ………………」


 名を呼ぶ声が次第に薄れていく。そろそろ夢の終わりが近付いてきた。


「リ…………」


 ああ、このまま目覚めることができればいいのに。


「…………ィ





 ——全ての元凶はお前だ、リヴィ」


 結局、どれほど都合よく書き換えたようとしたところで、一度負った罪が消えることはないのだ——


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