32.寝台の断罪人
『惚れ薬と言ったら分かりやすいでしょうか。少々苦味がありますので、香りの強い紅茶に混ぜる事をおすすめいたします。』
トリア教の神官がメルに香水の瓶を渡す。中身は薬だ。
『注意点がいくつかあります。』
メルは顎を引いて、母や兄に似ない丸い目を大きく開いた。神官の言葉を聞き漏らすまいとする。
『まず、この薬は女性にしか効きません。対象者……王太子の婚約者のみ摂取するようにお気を付けください。そして、これが最重要なのですが、邪心を持つ者には牙を剥きます。クリス殿に対し、好意以外の感情を抱いている場合、薬を飲んだ者は……死にます。』
メルは喉を鳴らした。
神官は問う。『それでも使う覚悟がありますか?』と。
『救済の手立てが無い訳ではありません。我々には聖女がいます。彼女の祈りは、どんな傷も病もたちまち治してしまいます。』
『わたくしの為に、聖女様のお力を貸していだけるのですか?』
『ええ。クリス殿の主君への献身は、同志ならば皆認めている事でしょう。王家の者でありながら、洗礼名を授かったのはクリス殿だけなのですから。』
メルは意を決するように、瓶を握りしめた。
これは兄の婚約者と良好な関係を築く為に用意してもらった物だ。カルチェに好かれなければ、城でのメルの立場は無い。危険も受け入れて、薬を使うしか道は残されていないのだ。
メルは聖女が待機している日を選んで、カルチェを部屋に呼んだ。カルチェの為に紅茶を用意したと言うと、カルチェは喜んでくれた。
これでカルチェはメルを親しい者として扱ってくれるだろう。
カルチェが紅茶を飲み干したのを見届け、二人で会っていた事を秘密にするよう依頼した。薬の利用が明るみに出ては困るので、メルの関与を隠すよう指示をしたのも教会だ。
それなのに、カルチェは死んでしまった。何故、どのように亡くなったのか、メルの元に情報は届かなかった。唯、彼女の家で倒れたとだけ。
薬が原因である可能性、聖女の祈りが効かなかった可能性を考え、メルは思い悩んだ。
『薬の改良をいたしました。聖女もすぐに駆け付けるよう、傍に控えております。クリス殿が手引きしてくだされば、城内でも駆け付けます。』
ルエナが新たな婚約者候補となった時、神官は再び薬の使用を持ち掛けた。
***
メル・クリス・ヴィリディステラは第一王女として生まれた。王族ではあるが、常に不安の中を生きて来た。
王位継承権を有しない王女は、王族であろうと立場が確かなものではない。例えば、兄弟に嫌われたら、王太子妃に嫌われたら、メルは城を追われるかもしれない。
メルはルエナから貰った手紙を読み返していた。
利用されていようが構わなかった。ただメルを見捨てないでいてくれれば。
ルエナが社交界の情報を聞き出そうとしているのは分かっていた。純粋な好意だけで関わっている訳で無い事は。
危険な薬を使ってでも、ルエナを完全な味方にしたかった。ルエナは幼少の頃から親しくしていて、彼女以上に王太子の婚約者に望む者はいない。
薬を飲み、ルエナが倒れたと知った時、やはりと思った。だが、聖女の力で回復する事が出来れば、下心の無い笑顔を向けてもらえるようになるという期待もあった。
だから、ソリスが聖女を追い返したのには相当焦った。ルエナを殺したかった訳では無い。
熱にうなされ、眠り続けているというルエナの無事を願って、ルエナは眠れない夜を三回越した。
「メイフォンス侯爵家のご令嬢が目を覚まされたようです。」
侍女づてに、ルエナの回復を知った。既に会話できる状態にあるそうだ。
メルは早速ルエナに会いたいと申し入れた。ルエナを付きっきりで看ていたソリスから許可が下りた。ただし、ソリスが同席する必要があると言う。
メルとソリスは互いの立場も、悩みも理解し合えない。故に、兄妹という肩書以上の仲にはなれない。
ルエナと、ソリスに聞かれたくないような話をするつもりはないが、少々気まずい。
「来たか、メル。」
ソリスは腕を組んで待ち構えていた。少しベッドから離れた所で椅子に座っている。
メルはぺこりとお辞儀をした。この人に名を呼ばれるのは苦手だ。いつも叱られているような気分になる。
「このような見苦しい姿で申し訳ございませんが、お会い出来て嬉しいです。メル様。」
対して、ルエナの声は優しかった。ベッドの上で上半身を起こし、メルに緑の透き通った瞳を向けている。
「姉様の体調が戻られたようで何よりです。」
メルが言うと、ルエナは少し悲しそうな顔で頷いた。
「メル様にお聞きしたい事があったんです。」
「何ですか?」
「カルチェ・フーパ様の事です。」
「……なんでしょう?」
何故突然カルチェの名が出てくるのだろう。
メルは飛び出しそうな程激しく脈打つ心臓を手で押さえつけながら、いたって平静に続きを促す。
「あの日、カルチェ・フーパ様が亡くなられた日、メル様は彼女に会われたのですよね?」
「いいえ。その事はお兄様がよくご存知のはずです。死の謎を解明する為に調査していると使用人から聞きました。」
「そうですね。カルチェ・フーパ様に付いていた侍女は、確かにそのように証言しました。しかし、彼女が図書室に行っていたとされる時間に、カルチェ・フーパ様の入室記録は残されていませんでした。司書も姿を確認していないと言います。」
「偶然誰にも会わなかっただけではありませんか?」
「どうして、そこまでカルチェ・フーパ様と会った事を隠したがるのですか?」
質問を質問で返され、メルは黙ってしまった。
否定をすれば良いだけなのに、それが出来ないのは、ルエナが確信している事に気付いたからだ。ルエナはメルが何をし、何を隠そうとしているのか知っているのだ。
「侍女を問い詰めたところ、カルチェ・フーパ様はメル様とお会いした事を秘密にする為、図書室に行っていたと嘘をついたと分かりました。侍女はカルチェ・フーパ様の約束を守る為、調査の際も嘘の証言を行いました。」
メルはドレスを握って耐えた。小さい頃からの癖だ。辛い事があった時、いつもドレスをしわくちゃにして大人に怒られたものだ。
ルエナはメルの返事を待たずに続ける。
「わたくしにしたのと同じ事をなさったのですね? 部屋に招き、毒を混ぜた紅茶を提供しました。そして、言ったのです。『わたくしと会っていた事は他の方には内緒にしていただけますか?』と。」
ルエナが「違いますか?」と確認するように、メルの顔色を窺う。
メルは今にも倒れそうだったが、掠れそうなか細い声を絞り出した。
「ドク?」
メルも毒を知らない人間の一人だった。王位継承権の無い王女には知らされないのだ。
「お前が二人に飲ませたのは、人体に害を及ぼす危険な薬物だ。」
ここでソリスが口を挟んだ。メルは自然とソリスの方に顔を向けた。
「良い効果もあるのですよね?」
メルの震える声が辛うじてソリスの耳にも届いた。
「毒は薬の一種とも言えるが、多くの場合そうでないから別称がついているのだ。」
「それはつまり、良い効果などなく、わたくしはただ姉様を手に掛けようとしていただけ、と……。」
遂にメルは泣き崩れた。
誰もメルに手を差し伸べなかった。代わりに、部屋の外で待機していた衛兵達がメルを取り囲んだ。
「良い効果とは、何を期待していた?」
ソリスが兵に捕らわれた王女に問いかける。その目に熱は無い。
「お、お兄様の、婚約者様と……仲良くなりたかった……。」
メルは嗚咽混じりに答えた。
「奇術だ。」
ソリスは言い捨てた。科学的根拠の無い物に頼る者の気持ちが知れなかった。
「その奇術しか頼れない人間の存在を、お兄様は知らないの。」
メルは赤くなった目を細めて、兄を睨んだ。
後ろ盾の無い姫が縋れるのはトリア教だけだった。そこの者が悩みを解決する為の案──毒の使用を提示した。
メルも己が教会に騙された事を理解している。だが、助けを求められるのは彼らの他にいなかった。こうなる事は避けられなかった。
同じ血筋に生まれながら、ソリスとメルの境遇は天と地の差がある。全てを手にする事の出来る王太子に、メルの気持ちは理解出来ないだろう。
メルは溜息を一つつくと、立ち上がった。兄弟の中で一番小さな体だが、今だけはソリスよりも大きく見えた。
逃げも隠れもしない。罪を認める。
そんなメルの決意が現れた、堂々たる立ち姿だった。
「殺人の意思が無かったとしても、お前の罪は重い。相応の罰を与える事になる。」
「どのような罰が下されようと、わたくしは受け入れるのみです。」
メルはもう簡単に心を揺らがせなかった。ソリスから目を逸らす事は無かった。
兵士に連行される前に、ルエナに向かって深々と頭を下げた。ルエナは戸惑ったように、目を泳がせた。
メルが満足するのを皆が待った。誰も声を発しなかったし、無理に退室させようとしなかった。
この後、メルは裁判にかけられ、国外追放を言い渡された。当然王女の身分は剥奪された。
この処遇は犯した事に対して、かなり甘かった。死罪を免れた事に、メルは驚いたくらいだ。
一方、首謀者であるトリア教の神官と一部の信者は死罪になった。神官は最後まで、王家が毒に関する情報の制限を行っている事を知らなかった。
神官達の悪事が明るみに出た事で、トリア教の印象は地の底に落ちた。聖女を崇める者もいなくなった。イメージが払拭されるまで、トリア教の復活は見込めまい。
***
「宣言通り、早急に対処したようですね。」
アヴィスは本件の報告書なる物を読み、一言述べた。
ルエナを傷つけた者は処罰を受け、ルエナは無事に元気を取り戻した。王女の罪の糾明の場にルエナを同席させた事は受け入れがたい事だが、本人が望んだ事と聞くし、責めるつもりはない。おおむね満足のいく結果だ。
ソリスは、彼が眉間に皺を寄せている訳でも無いのに、冷汗を流した。
「では、」
アヴィスが報告書をソリスに差し出しながら、じっと彼を見つめる。
ソリスは次の言葉が予想出来ているが、口を挟む事が許されない。頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じて、唇を噛む。
「婚約の件は白紙に戻させていただきます。以降、愚妹には不必要に近づかないと誓ってください。無論、王妃陛下にもお伝え済みです。」
ソリスに拒否権は無い。
アヴィスは期待通りの返答を受け取ると、ルエナが待つ馬車に乗り込み、共にフォンティス城に帰って行った。
ルエナ・ヒエム(19歳)
メイフォンス侯アヴィス・ヒエムの妹。
初登場 :1.籠城の花嫁
前回登場話:31.聖女の行進
アヴィス・ヒエム(25歳)
メイフォンス侯爵。ルエナの兄。
初登場 :1.籠城の花嫁
前回登場話:31.聖女の行進
ソリス・ヴィリディステラ(19歳)
ヴィリディステラ王国第一王子。
初登場 :6.壁の美しき花
前回登場話:31.聖女の行進
メル・クリス・ヴィリディステラ(16歳)
ヴィリディステラ王国第一王女。ソリスの妹。
初登場 :6.壁の美しき花
前回登場話:30.十月六日
カルチェ・フーパ(享年17歳)
スキエンティ公爵の長女。王太子の元婚約者。
初登場 :2.王家の使者
前回登場話:30.十月六日




