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30.十月六日

 あの日の事は今でも昨日の事のように思い出せる。


 いつものように、婚約者のカルチェが妃教育を受ける為に城に来ていた。


 母との関係も良好で、王妃となった未来も想像できる、優秀な女性だ。あまり話さず、控えめな人だが、芯は感じられる。幼い頃からの厳しい教育に耐えて来た事が、彼女の自信となったのだ。


『それでは、わたくしはお暇させていただきます。』


 同じ城にいても、会って話す事は少なかった。だが、帰る前の挨拶だけは欠かさなかった。


 ソリスは何の不安も無く、カルチェを自宅に送り出した。


 その日の夜、報せが届いた。カルチェが急死した、と。


 ソリスは信じられない思いで、カルチェの実家に向かった。そこで見たのは、苦し気に顔を歪めた婚約者の遺体だった。


 幻覚の症状があったようで、暴れた形跡があった。部屋中の物が荒らされ、まるで強盗に襲われたかのようだった。


 首にはかきむしった痕がある。息が出来ず、苦しかったのだろう。血の付いた爪が痛々しい。


 毒を知るソリスは、彼女が毒殺された事にすぐ察しがついた。


『彼女が口にした物を全てリストにまとめろ。水の一滴も余すことなく、な。』


 毒の専門部隊に調査を依頼した。しかし、ソリスの想定の何倍も調査は難航した。


 カルチェの飲食物は成分まで調べた。彼女に贈り物をした者も全て調査した。


『なのに、どうして見つからないのだ!』


 どこで毒を口にしたと言うのだ。謎が解決する気配が全くなかった。




***




姉様(あねさま)!」


 図書室へ借りていた五冊目の本を返しに向かう道中、背後から可愛らしい声で呼び止められた。


 小柄な少女は、ぴょこぴょこと髪を弾ませながら駆け寄って来た。上質なドレスを当然のように身に纏い、目の前の貴女が自分の呼びかけに応えない訳が無いと思っている。


 声の主はメル王女であった。


 ルエナは彼女の話し相手を務めているが、こうして面と向かって話をするのは数年ぶりだ。日頃手紙のやり取りをしているとはいえ、今もこうして姉と慕ってもらえるのは嬉しい事だ。


「メル様、ご機嫌いかがですか?」


 ルエナが応えると、メルはちょいちょいと手招きをした。求められるままにルエナは膝を曲げ、顔を近づけた。


「少しお話する時間をいただけるかしら?」


 メルがひそひそと言った。内緒の話をしたいのだろう。ルエナは断る理由も無いので、メルの部屋に行き、彼女の相談にのることにした。


姉様(あねさま)は……わたくしのことをどう思っていますか?」


 思いがけない問い掛けに、ルエナは面食らった。メルの相談事というのが自分に深く関わっているとは思いもしなかったのだ。


 これまでメルの話し相手として書面上でも、彼女に好意を伝えてきたつもりだったが、それだけでは不足だったのだろうか。


「勿論、大切なお方だと思っております。これからも仲良くしていただけたら、それ以上の喜びはありません。」


 ルエナが答えると、メルはほっと胸を撫で下ろした。次にちらりと侍女を見て、視線で何かを指示した。命令を受けた侍女は、素早く紅茶を淹れ始めた。


 紅茶は強めの香りを放つ。カップに注がれる前からルエナの鼻にも匂いが届いた。決して不快ではないが、独特ではある。


「先日、特別なお茶を入手しましたの。ぜひ姉様(あねさま)にも飲んでいただきたくて。」


 メルの言葉と共に出された紅茶は、見た目はごく普通の色だった。ただやはり香りは個性的だ。


 ルエナは面白く思いながら、早速紅茶をいただいた。


 メルも紅茶を飲んでいたが、同じ物を飲んでいない気がした。侍女はあくまでもさりげなく用意していたが、メルのカップには別のポットで作った紅茶を注いでいたように見える。メル自身が遠慮するほど、貴重なお茶を出してくれたのかもしれない。


姉様(あねさま)がお兄様(にいさま)の婚約者になってくれたら嬉しいです。カルチェ様にも良くしていただきましたが、やはり姉様(あねさま)ほど気心の知れた方はいないのです。」


 メルの悩み事とは、これから王族に仲間入りする王太子妃との関係の構築だった。元婚約者のカルチェとはそりが合わなかったのだろう。不謹慎だが、カルチェに代わってルエナが婚約者になるのは、メルにとって嬉しい事だった。


「ご安心くださいませ。わたくしは、兄上との関係がどうあれ、メル様とは姉妹のように思っております。メル様がわたくしを姉様(あねさま)と呼んでくださる限り、可愛い妹と思っていますよ。」


 メルはルエナの言葉を、本当に嬉しそうに受け取った。


(少しでもこの方の不安を取り除けられたら良い。)


 ルエナは何の打算も無く、純粋にメルを親しい友人として気遣っていた。


「随分と昔の事のように思われますが、お揃いのお洋服を着た事がありましたでしょう? あの時から、本当の姉妹のように思っておりました。」

「ああ、ありました。わたくしが姉様(あねさま)と同じが良いと駄々をこねたのです。」

「可愛らしいお願いでしたよ。わたくしも兄しかおりませんから、そのように女の子と遊ぶのは新鮮でした。」

「それでは、お人形遊びの事は覚えておいでですか?」

「ええ、勿論です。ウラとネプトでしたね。」

「まあ! そこまで覚えていてくださったんですね。」


 二人は思い出話に花を咲かせる。侍女達は、王女と侯爵家の令嬢ではなく、仲の良い姉妹が話しているように見え、彼女らを微笑ましく見守っていた。


 時間の過ぎる速さを忘れていた。随分と話し込んでしまい、次のソリスと約束していた夕食の時間が迫っていた。


「些細な事で悩んでいたとお兄様にばれてしまっては叱られてしまうかもしれません。本日お会いしたことは秘密にしていただけませんか?」


 帰り際、メルは顔色を伺うようにお願いした。これも断る理由が無いので、ルエナは頷いた。


「わたくし達は、お夕食の時間までスノードロップ宮のお庭を鑑賞しておりました。王女殿下に関わった事があるとすれば、お庭に立ち入る許可を頂いた事のみです。」


 ルエナは後ろを振り返り、城内でルエナと常に行動を共にする侍女に言った。侍女はただ黙って目を伏せた。「御意のままに。」と言っているようだ。


 それを聞いて安心したのか、メルは安堵混じりに「ありがとうございます。」と礼を述べた。


 本当なら図書室に行っていた事にした方が自然なのだが、あそこは出入りした者の記録を取っている。そうでなくとも、知り合いがいるのでルエナが来たかどうかすぐ分かってしまう。嘘をつくときは、ある程度真実を含んだ方が良いのだ。


 ルエナはメルと別れ、今度はソリスに会いに向かった。道中、紅茶について詳しく聞くのを忘れた事を思い出した。匂いに慣れれば美味しく、おかわりも頂いてしまった。次お会いした時に聞こう。そう考えて、ルエナは歩みを速めた。


 ソリスはルエナと食事を共にする度、彼女が好む外国の料理や菓子を出すのに奮闘している。もはやこれは二人にとっての遊びだった。


 この日も、ソリスは自信作をルエナに食べさせ、感想を求めた。


「美味しいですが、わたくしの知る味とは少し違うかもしれません。もう少し酸味が強かったような……地域の差でしょうか。」

「酸味? かなり酸っぱくしていますが、これ以上ですか?」


 ソリスは怪訝に思った。美味しく食べられるギリギリのラインまで酸味を加えている。ルエナの舌が余程鈍感でなければ、そんな言葉は出てこない。


 ルエナが、自分がおかしいのだろうかと思い始めたところで、突然、胃の物が逆流して押し寄せて来た。慌てて口を押えて、堪える。


「うっ。」


 ルエナがえずいたので、ソリスは心配して立ち上がった。


 喉まで遡って来た物を押し込めながら、ルエナは口の中に広がる苦味を感じた。不快な汗が流れる。頭がクラクラする。


 段々と視界がぼやけ、世界が暗闇に落ちていく。その中、不自然に誰かの手だけが明瞭に見えた。その手はぐんぐん大きくなり、近づいて来て、ルエナを捕らえようとする。それは一つではなかった。攫われた日の恐怖が蘇る。


 襲い来るモノを振り払って体をよじったので、ルエナは椅子から落ちて倒れた。その痛みは感じず、ルエナは自分がどんな姿勢でいるのか全く理解できていなかった。


(いたい……!)


 頭が痛いのは、酸素が足りていないから。ルエナは呼吸が出来ていなかった。


 熱い涙が頬を伝う。痛い。苦しい。怖い。


 もう兎に角ルエナには救いが無かった。


「飲み込むな! 吐き出せ!」


 どこからか、ソリスの声が響いた。


 くぐもって聞こえづらかった。けれど、必死にその声に縋った。


 ルエナは先ほどまで吐き出すまいと飲み込んでいた物を口から出した。醜態を晒している事を気にする余裕は微塵も無かった。根拠も無く、死が近づいている気がしたのだ。


 何度も嘔吐した。食べたばかりの夕食を全て無駄にし、胃の中が空になる程繰り返した。最後は出す物が無くなって、胃液ばかりが出て来た。


 その後は、大量の水を流し込まれた。もう飲みたくないと拒んでも、体を押さえつけられ、こじ開けられた口から水を入れられる。


 水を飲む、吐く──を繰り返しながら、ルエナは徐々に体の感覚を取り戻していった。


「名前を呼び続けてください。反応があるまで。」

「ルエナ! 聞こえますか? ルエナ! ルエナ!」


 最初に聴覚が戻った。ソリスの他に誰かいる。


 次に視覚が戻った。血相を変えたソリスの顔が目の前にあった。


(せっかくの綺麗なお顔が勿体ない。)


 ルエナは虚ろに考えた。


 二の腕にじんわりと熱を感じた。ルエナの上体を支える者の手の熱だ。


 外から内側に順に感覚を宿していって、ついに自分が呼吸している事に気付いた。


(息が出来る!)


 ルエナは必死に胸を広げ、目一杯空気を取り込んだ。焦りが呼吸の仕方を忘れさせた。息を吐くのを忘れ、過呼吸になる。


「息を吐いてください。せーの、ふーーーっ!」


 誰かの誘導で、何とかルエナは正常な呼吸を取り戻した。


「解毒剤です。飲めますか?」


 ルエナにコップに入った液体が差し出された。ルエナは補助を得ながら、それを飲み干した。


 ルエナは自分の無事を確かめると、意識を手放した。これは眠りに近かった。

ルエナ・ヒエム(19歳)

 メイフォンス侯アヴィス・ヒエムの妹。

 初登場  :1.籠城の花嫁

 前回登場話:29.図書室の管理人


ソリス・ヴィリディステラ(19歳)

 ヴィリディステラ王国第一王子。

 初登場  :6.壁の美しき花

 前回登場話:29.図書室の管理人


メル・クリス・ヴィリディステラ(16歳)

 ヴィリディステラ王国第一王女。ソリスの妹。

 初登場  :6.壁の美しき花

 前回登場話:24.侯爵家の長男


カルチェ・フーパ(享年17歳)

 スキエンティ公爵の長女。王太子の元婚約者。

 初登場  :2.王家の使者

 前回登場話:29.図書室の管理人

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