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「いいお湯だったわぁー」
温泉から上がると、体全体がぽかぽかと温まり心地よい疲労感が広がった。肌はしっとりと潤い、まるで新しい自分に生まれ変わったような気分だ。
じんわりと体の芯から温めてくれるお湯は、心身の疲れを癒やすと共に、わたしのざわついた心も静めてくれた。
部屋に戻り髪を乾かしていると、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。わたしは急いでヴェールを被り、ドアを開けた。
「ウェイン様、何かありましたか!?」
ドアの前に立つウェイン様を目にして、彼の裸を思い出しドキッとする。
「いや……。イリーゼ、今夜は流星群が見えるらしいんだ。俺の部屋のバルコニーから一緒に見ないか?」
「流星群!? ぜひ見たいです!!」
わたしはガウンを着てウェイン様の部屋へ向かった。彼の部屋は広く、豪華な家具が並び壁には美しい絵画が掛けられている。大きな窓の先にはバルコニーがあり、そこから夜空を一望できるようだ。
部屋にはヨハン様も控えていた。なんだ……。
ん? 『なんだ……』って、なんだ?
わたしはウェイン様と共にバルコニーに出ようとした。けれど、嫌な予感がする……。
「ヨハン様、バルコニーに出てください」
わたしがそう言うと、ウェイン様は少し驚いた表情を見せた。
ヨハン様は一瞬眉を寄せつつも、黙ってわたしの指示に従いバルコニーに出た。すると……。
ヨハン様の赤い紐が一瞬で漆黒に変わった。
「ヨハン様、戻ってください! 早く!!」
わたしはヨハン様の手を取り、慌てて彼を部屋に引き入れた。窓を閉めたその瞬間、風を切る音が聞こえた。
シュッ! シュシュッ! カカッ、カン!
どこからか射られた複数の矢が飛んできた。二本の矢がバルコニーの手すりに突き刺さり、残りの矢は地面に落ちた。
わたしたちは突き刺さった矢を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。その直後、緊張が走る。
「何てことだ……」
ウェイン様は驚きと怒りの表情を浮かべ、低い声でつぶやいた。
わたしも同様に驚き、心臓は激しく鼓動していた。
だって、こんなことができるのは、敵がわたしたちの行動を完全に把握しているからだ
矢が飛んできた方角には、デュスカーナ公爵家が所有する森が広がっている。射手はそこから矢を放ったのだろう。わたしたちがバルコニーに出るタイミングを完璧に見計らい、正確に狙ってきた。これは偶然ではない。
落石、毒、転落、転覆、それらは予め仕掛けておくことができる罠だが、矢はそうではない。つまり、敵は今この瞬間もわたしたちのすぐ近くに潜んでいるということを意味している。
「イリーゼ、君のおかげで助かった。ありがとう」
ウェイン様はわたしに感謝の言葉を述べたが、その声には緊張と不安が混じっていた。
わたしは彼が無事であったことに安堵したが、敵の執拗さに、恐怖とそれ以上の怒りを覚えた。
ウェイン様を狙う陰謀が次々と明らかになる中、その卑劣な手口に対する憤りが胸の中で燃え上がっていくのを感じた。
ウェイン様はいつからこんな目に遭っていたの……? 姿の見えない敵と、ずっと戦い続けてきたのよね……?
彼の心の中にはどれだけの不安と恐怖が渦巻いていたのだろう。わたしは彼の強さと忍耐に対して、深い尊敬の念を抱いた。
彼の表情には常に冷静さが漂っているが、その裏には計り知れない苦労と戦いが隠されているのだろう。
「絶対にウェイン様を守ってみせるからなーーー!!」
わたしは拳を握って、姿の見えない犯人に対して叫んだ。
「大丈夫だ。俺にはイリーゼがいるからな」
ウェイン様はわたしの頭にポンッと手を置いて、笑いながらそう言った。
もう! 笑いごとじゃないのに!
けれど、その笑顔は、モンテクリスト侯爵家の庭園で見せた作り笑いとは違って、彼の心からの笑顔だった。彼の信頼と安心感が伝わってきて、わたしも少しだけ笑顔を返した。
***
明くる日、ウェイン様は商業地区と農村地区へ向かった。商業地区では市場や商店街を視察し、街の様子や商業活動の確認をした。工房や工場なども視察し、地元の産業や手工業の現場を訪れ、生産状況の報告を受けた。
次に農村を視察し、農作物の生育状況や収穫の確認を行った。
「我が領地同様に、今日は驚くほど平穏だな」
市場では商人たちが活気に満ちた声を上げ、工房や工場では職人たちが黙々と作業に励んでいた。農村では、農民たちが笑顔で迎えてくれた。
デュスカーナ領の人々は、皆が安定した暮らしを送っていた。
ウェイン様の言葉に頷きながらも、何事もなく視察が進むことに、わたしは言い知れぬ不安を感じていた。
敵はウェイン様の暗殺を諦めたのだろうか。いや、あれほど執拗にウェイン様の命を狙っていた犯人が、そう簡単に断念するとは思えない。
ウェイン様の命はまだ狙われている。わたしは周囲を警戒しながら、彼の命を狙う真犯人を捕らえる方法はないものかと考えていた。
「イリーゼ、この後別の農村に行ってから、その先の宿に宿泊予定だったんだが、商業地区に戻ることにする」
ウェイン様は突然そう言い出した。わたしは驚いて、彼の意図を尋ねた。
「どうしてですか? 何か問題でも?」
「いや、特に問題はない。ただ、買いたい物があるんだ」
ウェイン様はそう言って、わたしたちは商業地区に戻ることにした。
急な予定変更にヨハン様は不満げだったけれど、ウェイン様の指示に黙って従った。
商業地区に戻ると、ウェイン様は視察時に立ち寄った店に再び足を運んだ。店内には様々な美しい装飾品が並んでいる。
ウェイン様はその中から、ひとつの髪飾りを手に取り、店主に支払いを済ませた。そして、わたしにその髪飾りを手渡した。
「え? これって……」
それは視察時にわたしが気になっていた髪飾りだった。銀の細工が美しく、サファイアの青がウェイン様の碧い瞳を思わせる輝きを放っているその髪飾りは、様々な美しい装飾品が並んだ中でも特に目を引いた物だった。
「似合いそうだと思って」
似合いそうって、わたしの顔も髪色も知らないのに?
まさか、これを買うために商業地区へ戻ってきたの……!?
「ありがとう。ウェイン様」
驚いたけれど、素直に嬉しかった。彼の瞳と同じ色のサファイアが、わたしの手の中で美しく輝いている。
「夕暮れが迫っている。ここからだと宿泊予定の宿より領主館の方が近い。暗くなる前に戻ろう」
ウェイン様は少し恥ずかしそうに目を逸らしながらそう言った。彼の頬がわずかに赤くなっているのを見て、わたしの顔もつられるように熱をもった。
そして、わたしたちは領主館へ向かった。しかし、領主館に戻ったわたしは、衝撃的な光景を目の当たりにしたのだった。