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領地視察のために準備されたデュスカーナ公爵家の馬車は、その豪華さと威厳を誇示するかのように、細部にまでこだわりが感じられる一品だった。
朝日に輝く深いロイヤルブルーの外観には金の装飾がきらめき、側面にはデュスカーナ家の紋章が精巧に描かれている。それを囲む金の蔓模様は、細部にまで緻密に施されていた。
馬車にはウェイン様とわたしが乗る予定だ。
「さあ、出発しよう」
ウェイン様はそう言って馬車に乗り込もうとしたが、わたしはそれを引き止めた。
「待ってください、ウェイン様」
わたしはそう言って、騎馬で同行する予定だったヨハン様を呼んだ。そして、危機を占うという設定に合わせ、水晶を手に持ち言った。
「ヨハン様、馬車に同乗してください」
「なぜだ? 俺は警護のために騎馬で同行する」
「良いから! 乗ってください!」
「ヨハン、イリーゼの言う通りにしてくれ」
わたしを怪しんでいたヨハン様だけれど、ウェイン様がそう言うと、渋々ながらもそれに従い馬車に乗り込んだ。
すると……。
ヨハン様の運命の赤い紐はみるみるうちに赤から漆黒へと色を変えた。
「ウェイン様、馬車を調べてください。細工がしてあるかもしれません」
わたしはウェイン様だけに聞こえるように、小さな声で言った。
ウェイン様はわたしをじっと見つめた後、言葉を発した。
「ヨハン、馬車の点検を頼む」
「既に御者が点検していますが……」
「再度点検してくれ」
「かしこまりました」
ヨハン様はそう言いながら、わたしに疑念のこもった視線を向けていた。けれど、馬車から降りたヨハン様の運命の紐は赤い色に戻った。この馬車に何らかの細工がしてある可能性が高い。
御者やヨハン様が馬車の点検をしている間、わたしはウェイン様に尋ねた。
「過去に馬車に細工がされていたことはあるのかしら?」
「以前、馬車に不具合が見つかったことがある。経年劣化か人為的なものかは不明だったが……」
ウェイン様は偶然にもその不具合に気づき、危機を回避できたそうだ。
「ウェイン様、馬車の再点検が終わりました。何処にも異常はありませんでした」
ヨハン様はわたしに冷ややかな視線を向けながら言った。
「わかった。では行こう」
ウェイン様が改めて馬車に乗り込もうとしたが、何かが引っかかる。わたしは再びウェイン様を止めた。
「ウェイン様、待ってください。ヨハン様、馬車に乗ってください」
「お前、いい加減にしろ! ウェイン様は暇ではないんだぞ!」
ヨハン様はそう声を荒げたけれど、わたしは続けた。
「黙って乗りなさい!!」
人の命がかかっているのだ。引いてたまるか!
ヨハン様はわたしを睨みつけながらも、もう一度馬車に乗り込んだ。
すると、ヨハン様の運命の赤い紐は、再び赤から漆黒へと色を変えた。
馬車に細工はされていないけれど、この馬車に乗ったら死ぬわ。考えられるのは、事故か襲撃か……。
「ウェイン様、馬車は駄目です。馬で行きましょう」
わたしがそう言うと、ウェイン様は少し考え込んだ後、言った。
「イリーゼ、馬には乗れるか?」
「もちろんです」
「わかった。ヨハン、気が変わった。俺も騎馬で行く。用意してくれ」
「……かしこまりました」
ウェイン様はわたしの提案を受け入れ、馬で行くことに決めてくれた。ヨハン様は納得がいかない様子だったけれど。
「デュスカーナ領は王都から近いとは言え、馬車なら途中で宿泊せねばならない。しかし、馬なら今日中に着くだろう」
わたしたちは日が暮れる前にデュスカーナ領に到着するため、急いで出発した。
***
辺りが薄暗くなったころ、わたしたちはデュスカー公爵家のカントリーハウス……ではなく、領主館として使用されている別邸に到着した。
広大なデュスカーナ公爵家の本邸であるカントリーハウスに比べ、別邸の方が警備や警戒がしやすいため、ここに滞在することになった。
別邸とはいえ、領主館は豪華でありながらも落ち着いた雰囲気が漂い、デュスカーナ公爵家の威厳を感じさせた。
外観は月明かりとランタンの灯りに照らされ、白い大理石が幻想的に輝いている。正面の門をくぐった中庭には、夜風に揺れる花々の香りが漂っていた。中央の噴水は静かに水を噴き上げ、月光を反射してキラキラと輝いている。
領主館に入ると、広いエントランスホールが迎えてくれる。天井は高く、豪華なシャンデリアが輝き、壁には美しい彫刻、床には緻密な模様が施された大理石のタイルが敷かれている。
「お帰りなさいませ。ウェイン様」
若年の執事が深々と頭を下げ、ウェイン様を迎え入れた。彼の姿勢は完璧で、その声には敬意と忠誠が込められている。
わたしたちは執事に案内されるままにダイニングルームへと向かった。 扉を開けると、そこには豪華な食事が用意されていた。長いテーブルの上には、銀の燭台に灯されたキャンドルが揺らめき、その光が料理を美しく照らしている。
料理はまさに豪華絢爛で、色とりどりの前菜、香ばしいロースト肉、新鮮な魚介類、そして美しいデザートが並んでいる。料理の香りが部屋中に漂い、食欲をそそる。
「どうぞ、お召し上がりください」
執事が丁寧に言い、わたしたちは席に着いた。
ウェイン様は一瞬、料理を見つめた後、ヨハン様に目配せをした。ヨハン様は慎重に銀のスプーンを取り出し、料理に触れさせた。銀のスプーンは毒に反応するため、古くから毒見に使われている。
「問題ないようです」
ヨハン様はスプーンを確認し、毒がないことを示した。けれど、それでは駄目だ。
銀が反応するのは硫黄を含む物質だけだ。硫黄を含まない毒物や、純度の高いヒ素、鉛や水銀化合物などの鉱物由来の毒だった場合、銀食器に反応しないのだ。
「ヨハン様、ウェイン様の食事とワインを試してください」
わたしがそう言うと、ヨハン様は一瞬驚いた表情を見せ、その後、疑念の色を浮かべた目でわたしを見つめた。
「またお前か。いい加減に……」
「黙って食べなさい!!」
わたしの真剣な表情に、ウェイン様がヨハン様に視線を向け、軽く頷いた。ヨハン様はナイフとフォークを手に取り、ウェイン様の食事の毒見をしようとした。すると……。
ヨハン様が料理を口に入れようとした瞬間、彼の赤い紐が漆黒に変わった。
「待って! 食べては駄目よ!」
わたしは叫び、ヨハン様の手を止めた。
わたしの言葉に、周囲は一瞬にして静まり返った。ウェイン様は大きくため息をついて執事に言った。
「この料理を用意したのは誰だ?」
執事は戸惑ったような表情を浮かべながらも、冷静に答えた。
「以前の料理人が高齢で引退したため、少し前に新しい料理人を雇いました」
「そいつを連れてこい」
ウェイン様の言葉に従い、執事に指示されたメイドが料理人を呼びに行った。しばらくすると、館内全体に「きゃぁぁぁ」という悲鳴が響いた。
わたしたちは驚いて立ち上がり、声のする方へ駆けつけた。使用人部屋の前で、メイドが震えながら立っている。部屋の中を覗くと、新しい料理人だという人物が床に倒れていた。彼の顔は青白く、口元には泡が浮かんでいる。
「毒殺だな……」
ウェイン様は険しい表情で言った。執事は顔を青ざめさせ、震える手で料理人の脈を確かめたが、すでに息絶えていることを確認した。
「すぐに医師を呼べ」
ウェイン様の指示で、執事は急いで医師を呼びに行った。わたしたちは使用人部屋を後にし、再びダイニングルームに戻った。
食事を調べると、それにはヘミロックの毒が仕込まれていたことが発覚した。
「敵も焦っているのか、手段を選ばなくなってきたな」
ウェイン様の声には張り詰めた感情が滲んでいた。わたしは彼を守るため、さらに警戒を強めた。
しかし、敵は何重もの罠を仕掛けていたのだった。