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イゾルデ様と放火犯を捕らえ、わたしたちは領主館のそれぞれの部屋で休んでいた。
領主館は幸いボヤで済み、使用人たちの運命の紐も漆黒から元の赤い紐に戻っていた。
「そうだわ。ウェイン様の運命の紐、切らなきゃ」
イゾルデ様は捕らえたが、ウェイン様の運命の紐は漆黒のままだった。けれど、今度こそ、漆黒の紐は完全に消え去る予感がする。
わたしはベッドから起き上がって、ヴェールを被りはさみを手に取った。ウェイン様の部屋へ向かおうとドアに手を伸ばしたとき、それと同時にコンコンとドアのノック音がした。
「イリーゼ、少しいいか?」
ウェイン様の声だった。わたしは「はい」と返事をしてドアを開けた。彼を前にして、心臓の鼓動が早くなったのを感じた。
お茶を淹れ、テーブルについたウェイン様に差し出す。湯気が立ち上るカップからは柔らかな香りが漂っていた。
「どうぞ」
彼は優雅な仕草でそれを口にした。 あれっ? 熱いもの苦手なんじゃなかったっけ?
そうか……。ウェイン様は常に口にするものに注意を払っていたのね。けれど、これからはそれほど警戒する必要はないだろう。彼が温かい食事を摂れることを考えると嬉しくなる。
「イリーゼ、何度も俺の命を救ってくれてありがとう。君がいなかったら、俺は今頃死んでいたかもしれない」
ウェイン様はカップを置き、改まってわたしにそう礼を述べた。彼のその目には感謝の色が浮かんでいる。
「それで、その……えーと……あの……なんだ……」
ウェイン様は何か伝えたい様子だけれど、言葉がうまく出てこないようだ。彼の耳が少しだけ赤く染まっている。
先に紐を切ってしまおう!
わたしは水晶玉をテーブルの中央に置き、ウェイン様に言った。
「ウェイン様、両手をテーブルの上に置いてください。気になることがあるの」
「え? ああ……」
彼は少し戸惑いつつ、両手をテーブルの上に置いた。わたしは水晶玉の上で手を動かし、ウェイン様の左手の小指に結ばれた漆黒の紐を掴んだ。そして、それをはさみで切った。
すると、漆黒の紐は消え去り、彼の左手の小指には、本来の赤い色をした運命の紐が現れた。
「やったわ! ウェイン様! あなたの運命は変わったわ!!」
わたしは安堵と喜びで胸がいっぱいになった。思わず笑みがこぼれ、彼の両手をしっかりと握った。
ウェイン様はわたしを見つめ、そして優しく微笑んだ。
「ありがとう、イリーゼ。君のおかげで、ようやく安心して眠ることができる。それで、その……実は君に言わなければならないことがあるんだが……」
ウェイン様がそこまで言ったとき、再びドアのノック音が響き、今度は家令の声がした。
「イリーゼ様、こちらにウェイン様はいらっしゃいますか?」
彼の声は少し焦りを帯びていた。
「どうした?」
ウェイン様が答えると、家令は息を整えながら続けた。
「ウェイン様の馬の蹄に細工がされているのを馬丁が発見しました。最悪の場合、落馬の恐れがありました。ボヤ騒ぎで興奮していた馬を落ち着かせていた際に気づいたようです」
ウェイン様は眉を寄せ、呆れたようにため息をついた後、わたしに笑顔を向けて言った。
「あの人は最後まで抜かりないな……。しかし、これもイリーゼが回避してくれたということだな」
もう大丈夫。わたしたちは、不慮の死という彼の運命を回避することができたのだ。
胸の奥には新たな感情が芽生えていたけれど、わたしはそれに気づかないふりをした。
***
「ありがとうございました。わたし彼と幸せになります!」
そう言って、本日何人目かのお客様は、幸せそうな笑顔を見せて鑑定室を後にした。
「ふぅ……。少し休憩しましょう。ニーナ、お茶を淹れてくれる?」
「かしこまりました」
両手を頭の上で組み、ぐっと伸びをした。肩や背中の筋肉が心地よくほぐれていくのを感じながら、深呼吸をした。
約束の時間までまだ時間がある。
「お嬢様、緊張なさっているんですか?」
「別にそんなんじゃないわよ」
ニーナの言葉に、わたしは恥ずかしさを隠すように顔を背けた。
イゾルデ様を捕らえた翌日、わたしたちは王都に帰ってきた。ウェイン様はその後の対応に忙しく、それ以来会っていない。
ウェイン様からはローザリー宛に手紙が届き、保留になっている婚約について話し合いたいと書かれていた。
彼がわたしを結婚相手に選んだのは、命を狙われている自分の妻となる者に危険が及ぶ可能性を考え、自分の身を守れる結婚相手を望んだからだ。
けれど、運命は変わり、その危険はなくなった。
カランカランという鉄製のノッカーの音が店内に響き、お客様の来館を告げる。
「先生、いらっしゃいました」
ニーナが鑑定室の布の扉を開けて言った。今日のニーナはヴェールを被っている。だって……。
「ごきげんよう、イリーゼ」
鑑定室に現れたのは、豪華な刺繍が施されたベルベットのサーコートと、金糸で縁取られたガンベゾンを纏ったウェイン様。
彼の肩には美しいマントが掛けられ、胸元には家紋が刻まれたブローチが輝いている。足元には光沢のあるブーツが揃えられ、その姿は以前にも増して完璧である。
「ウェイン様、お久しぶりです。お元気そうでなによりですわ」
ウェイン様は軽く微笑みながら、マントを軽く翻し、優雅に椅子に腰を下ろした。
「本日はどのような?」
「俺の運命の相手を知りたいんだ」
ウェイン様の言葉に驚き、わたしは一瞬固まった。けれど、平静を装って言った。
「承知しましたわ。両手をテーブルの上に置いてくださいな」
ウェイン様は、両手をテーブルの上に置いてわたしを見つめている。
何を戸惑うことがあるの……? 最初からそうするつもりだったじゃない……。彼は今まで大変な思いをしてきたのよ? 秘めた想いを失った分も、彼には幸せになってもらいたい。
わたしは動揺する心を抑えながら、自分に言い聞かせた。
「では、始めますわ」
わたしはそう言って、水晶の上で手を動かし、彼の左手の小指に結ばれた運命の赤い紐を掴んで念じた……。
「君だろ?」
え……?
「俺の運命の相手は、君だろ? ローザリー」
ウェイン様はわたしを、イリーゼではなく、ローザリーと呼んだ。
「な、なんで……? いつから……?」
わたしが驚いて席を立つと、彼は笑いながら言った。
「最初にここに来たときから。俺の手を払って構えただろ? そんなことができる令嬢、他にいないだろ?」
なんてこと……! 彼は最初からわたしの正体を知っていて、黙っていたのか……。
ウェイン様はゆっくりと立ち上がり、わたしと向き合った。
「それに、俺は幼い頃の剣術大会で君に負けてから、ずっと君を目標にして追いかけてきたんだ。それが恋だと気づいたときには、君は第二王子の婚約者になっていた」
わたしは小さく息をのんだ。彼がずっと想いを寄せている方って、わたしのことだったの……!?
「ローザリー、俺は運命の相手と幸せに生きるんだろ?」
わたしは震える手でそっとヴェールを外した。
ウェイン様は穏やかな表情を浮かべ、けれど熱のこもった目でわたしを見つめた。そして、その場に静かに跪いた。
「ローザリー・モンテクリスト侯爵令嬢、俺を死の運命から救ってくれてありがとう。君が切り開いてくれた新たな俺の人生を、どうか共に生きてほしい。君を愛しているんだ。俺と……いや、私と結婚していただけますか?」
わたしは彼に近づき、その手を取った。答えはもう決まっている。
「はい! だって、わたしがあなたの運命の相手だもの!!」
わたしがそう答えると、彼は立ち上がり、わたしを強く抱きしめた。
——ローザリー・モンテクリスト
彼の運命の赤い紐はそう示したのだ。
王都の喧騒から少し離れた場所に、ひっそりと建つ小さな店がある。運命の相手を知れると評判の占いの館は、今日も予約でいっぱいだ。
——おわり——
多くの作品の中から、この物語を読んでいただき、ありがとうございました。