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 長い一日の仕事がようやく終わり、私は疲労で重くなった足を引きずりながら、自宅のドアにたどり着いた。


 肩は鉛のように感じられ、オフィスで繰り返される会議と絶え間なく届く無数のメール、それらが見えない重荷となって私の体にのしかかっていた。


 私は鍵を差し込み、ゆっくりとハンドルを引いた。ドアが開くと、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。


 私の目に映ったのは、散乱した本や雑誌、ガタガタと揺れる椅子。壁にかけられた絵画は斜めに傾き、時計の針は狂ったように早回りしていた。


 私は息をのみ、歩を進めた。一歩踏み出すごとに床が軋む音が響き、本棚から本が一冊、また一冊と落ち始める。まるで見えない手がそれらを投げつけているかのようだった。


 私は恐怖に怯えながらも、非常に疲れていた。能力も毛もない上司は自分の仕事の責任を取らず、先輩にはブラックリスト会員の対応を押し付けられた……。


 まずはベッドにダイブしたい。ダラダラしたい。疲れて帰ってきたのに片付けから始めるとか勘弁してほしい。



 私のイライラはピークに達した。



「いい加減にしろーーーーーーっ!! この部屋は私が契約して、私が家賃を払ってんだよ!! 無料(タダ)で居座ってんじゃねぇ!! この居候幽霊が!! 出て行かないなら家賃を払えーーーーーーっ!!」



 私の叫び声が響き渡り、部屋の異変を一瞬で止めた。ガタガタと揺れていた椅子はピタッと静止し、狂ったように早回りしていた時計の針も、一定の時刻を指したまま動かなくなった。本棚から落ちそうだった本も、そのままの状態で留まっていた。


 しかし、その静寂は長くは続かなかった。


 部屋の中心から光が溢れ出し、それは徐々に強くなっていく。光はやがて渦を巻くように広がり、私の周囲を包み込んだ。


 私は恐怖と驚愕で固まりながらも、反射的に近くのテーブルの上にあったはさみを掴んだ。意識はぐるぐると渦巻く光の中で飲み込まれ、現実の感覚が遠のいていく。


 次に目を開けたとき、わたしの目の前では、金髪赤眼の見目麗しい青年が横に立っている女性の腰を抱き、わたしを睨みつけて叫んでいた。





 ***





「ローザリー、聞いているのか!?」


 わたしはきょろきょろと辺りを見渡す。


 金箔が施された壁、天井には巨大なシャンデリアが輝いている。床は光沢のある大理石で、その上には赤い絨毯が敷かれていた。


 周囲では、金糸や銀糸が繊細に縁取られたダブレットに身を包んだ男性たちと、シルクやベルベットの豊かな生地で作られたドレスを着用している女性たちが、こちらを見ながらひそひそと興味深げに囁いていた。


「お前との婚約を破棄すると言っているんだ!!」


 その声を無視して、わたしは窓辺に歩み寄り外の景色を確認した。

 眼下には、石畳の道、ゆっくりと通り過ぎる馬車、屋根の瓦が日光に反射して光るレンガ造りの家々が広がっていた。




 これって、アレよね…………?




「おい、ロー「よっしゃぁぁぁーーーーーーっ!!」


 わたしは両手の拳を握りしめ、歓喜の声をあげた。


 やった! やったわ!! あの幽霊、いい仕事するじゃん!!


 ブラック企業よ、給料ドロボーよ、ブラックリスターよさらば!! 親兄弟も親しい友人もいない、恋人とは別れて久しい、元の世界への未練などこれっぽっちもない!!


「フフフフフ」


 何しちゃう? 料理革命? 最強ポーション? 異世界チートで無双しちゃう?


 わたしはあまりの喜びにその場で飛び跳ねていた。



「ロ、ローザリー……?」


 金髪赤眼の彼が、戸惑いながらわたしを呼んだ。



 そうだった。わたしはローザリー・モンテクリスト侯爵令嬢、十九歳。金髪赤眼君……じゃなくて、我が国の第二王子であるベンジャミンの婚約者……だったんだわ。さっきまで。



「えーと? 婚約破棄だっけ? オーケー、オーケー! あとはよろしくー!」

「は……?」


 同い年で家格が釣り合うからという理由で婚約者にさせられただけだもの。婚約破棄? 礼を言いたいくらいだ。


「おい、待てっ……! 衛兵!」


 ドレスの裾を掴み軽やかにその場を去ろうとすると、ベンジャミンはわたしを捕らえるよう衛兵に命令した。



 しかし!



「せいっ!!」



 わたしは体を低くし、後ろ回し蹴りを放った。続いて倒れた相手の腰から剣を奪い取り、剣先を衛兵の喉元に突きつけた。


 ふふん! わたしは空手の有段者なのだ! その上、我がモンテクリスト侯爵家は武に秀でた家系。幼き頃より剣の扱いには慣れている。『幼年剣術大会』で優勝したこともあるのよ?


「か弱い女性になんてことすんのよ。まぁ、今は凄く機嫌が良いから許してあげるわ。ふふ。じゃあサイナラー」


 わたしは床に剣を置き、にっこりと笑いながらそう言って再びドレスの裾を掴み、今度こそ軽やかにその場を去った。



「へぇ……」



 その様子をニヤリと笑いながら見つめていた男性がいたことに、このときのわたしは気づかなかった。





 ***





 モンテクリスト侯爵家の馬車に揺られ、石畳の街を進む。先程までいた王城を眺めながら、感嘆の声を漏らす。


「素敵っ!! 憧れの世界だわ! 何度この世界に行きたいと思ったことか!」


 高くて頑丈な城壁、立ち並ぶ高い塔、掲げられた旗、国の紋章が刻まれた大きな門には、鎧を身にまとった衛兵が立っている。


 目に映る全てがキラキラと輝いている……!





 以前の私は、マリッジサービス会社で働く会社員だった。人と人の出会いをサポートし、人生のパートナーを見つける手助けをしたい、人の幸せな未来を応援したいと意気込んでその業界に飛び込んだ。しかし、現実の厳しさの前に、その情熱はすぐに冷めてしまった……。


 業務内容の過重負担、クライアント対応の難しさ、成果のプレッシャー、職場環境や人間関係の問題……。それらが負担となり、私は次第に疲弊していった。


 そして、そのストレスを少しでも和らげようと、忙しい仕事の合間を縫って日々の癒しを求めた。私の心を満たしてくれたのは、ライトノベル、特に異世界恋愛モノだった。



 わたしは神に、いや、幽霊に感謝した。



 幽霊さん、ありがとう!! 居候していた分の家賃はチャラにしてあげる!!



「素晴らしいわ! 異世界恋愛を生で見られるなんて! はっ、そうだわ!」


 わたしは意を決して声を発した。


「ウォーターフォール」


 ……………………。


 何も起こらなかった。


「エアロスラッシュ」


 何も起こらなかった……。


「フレイムバースト!」

「アースシェイク!」

「シャドウクロウ!」

「サンダーストライク!」

「ライトスピア!」


 何も起こらなかった…………。


「やっぱりだめかぁー」

「お嬢様、いったい何をなさっているんですか?」


 馬車に同乗していた侍女のニーナが冷ややかな目を向けて言った。


「いや、魔法使えないかなって」

「は? 魔法? 何を物語みたいなこと言っているんですか……」


 うん。この世界に魔法はないんだよね。でも、期待したんだよ。突然覚醒したりしないかなって。


「大丈夫ですか? あの馬……んんっ、王子殿下との婚約破棄に浮かれてるんですか? まさか、ショックなんですか?」

「そんなわけないでしょ」


 あんな馬鹿王子のことなどどうでもいい。


 わたしは気を取り直してニーナに尋ねた。


「それより、ずっと気になってたんだけど、それってなんなの?」

「それとは?」


 わたしはニーナの手元を指さした。


「その赤い紐よ。街の人たちもほとんどの人がその紐を付けているじゃない? そういったお祭りでもあるの?」

「赤い紐?」


 ニーナは、まるでわたしが奇妙なことを言い出したかのように、わたしに懐疑的な目を向けた。


「だから、それ」

「はい……?」


 わたしが指さした彼女の左手の小指には、赤い紐が結ばれている。


 ニーナの懐疑的な目に心配の色が浮かび、わたしは半信半疑に思いつつも、慌てて御者に声をかけ、馬車を止めた。


 馬車を降り、確かめるように周囲の人々に視線を走らせた。


 やはり、街を歩くほとんどの人が、左手の小指に五十センチ程度の赤い紐を結んでいる。紐は風にそよぐように揺れていた。


「ねぇ、ニーナ……。あれ、見えない……?」

「お嬢様……先程から何をおっしゃっているのですか……?」


 前から歩いてきた若い夫婦を指さしてニーナにそう言うと、彼女はついに哀れむような目をわたしに向けた。


 若い夫婦のお互いの赤い紐は、彼らの前で結び合わさり一本の紐になっていた。




 こ、これは、もしかして……わたしにしか見えない『運命の赤い糸』ってやつ!?




 わたしは衝撃に足を取られ、近くの売り物の台にぶつかってしまった。そのとき、カチャリと音がしてそれに気づいた。わたしのドレスのポケットには、わたしがこの世界に来たときに反射的に掴んだはさみが入っていた。



 この赤い紐、切れたりするのだろうか。



「愛してるよ、ハニー」

「わたしもよ、ダーリン」


 若い夫婦は仲良さそうにわたしの横を通り過ぎた。

 わたしはサッと手を伸ばし、彼らの赤い紐を掴んでみた。


 おお! 何という収縮性!! 赤い紐はビヨーンと伸びた。


 わたしはそれをはさみで切ってみた。


 すると……。


「あなたの頭臭すぎ」

「お前のブーツも臭いだろ」


 彼らは突然言い争いを始めた。


 まずい……!


 わたしは慌てて彼らの赤い紐をぎゅうぅぅと固く結んだ。


「君は今日も美しい。君がいると毎日が特別だ」

「あなたがそばにいてくれるだけで、わたしは世界で一番幸せよ」


 彼らは再び仲の良い夫婦に戻った。



「フフフフフ、フフフフフ」



 使える!! これは使えるわ!! 



「お医者様をお呼びしなければ……」


 そう冷静に言うニーナに引きずられ馬車に乗りこみ、わたしはモンテクリスト侯爵邸に帰った。







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