6.犯人視点だと怖すぎる
目の前の光景を信じることができなかった。
なぜこんなことが起きている? 何が一体どうなっているのか、さっぱりわからなかった。
まさか、失敗してしまったのか? あれだけ力いっぱい叩きつけたというのに……。
なぜ、あの探偵が生きているんだ?
俺には、どうしても存在を許すことができない男がいた。
いや、『いた』ではない『いる』だ。俺の――舵間近助の人生をことごとく邪魔し、俺が得るはずだった栄光をすべて奪い去った奴がいる。
尾幌まじめという男だ。
腹立たしいことこの上ないが、周りから見れば、俺と尾幌は親友らしい。
親友。
馬鹿らしい。ただ単に中高と同じ学校に通っていただけの話しだ。高校生時分から俺たちはともに小説家を目指していた。文芸部でミステリを生み出すことに明け暮れ、切磋琢磨していた。
ああ、その頃は尾幌と切磋琢磨していたと言っていいだろう。ライバルだったと言えるかもしれない。俺たちはミステリが大好きで、様々な論議を交わしていた。探偵について、かっこいい犯人について、好きな作品、多くを語ったが、特にトリックについては熱く語った。やはりミステリと言えば、どうしても魅力的なトリックは必須だ。どれだけ探偵が魅力的だろうと、文体は流暢だろうと、陳腐なトリックでは作品が腐ってしまう。
ある放課後、俺は尾幌といつものようにトリックについて話していた。様々なトリック談義に花を咲かせていた時、俺は天啓のように素晴らしいトリックを思いついてしまった。
慌ててメモをとり、尾幌に言った。
「俺、すげぇトリック思いついたかもしれない」
「奇遇だな。俺もだ」
俺の言葉に、尾幌はそう返してきた。奴の言葉はどう考えても俺のひらめきに負けたくないが故の言葉だったが、俺は気にしなかった。
俺はその日から、制作に取り掛かった。早くあのトリックを小説としての形に残したかった。必死に文字を打ち込んだ。うまく小説の設定に落とし込み、よりよく見せるにはとてつもない時間と改稿が必要だった。
一年近くの月日を重ね、俺は小説を完成させた。我ながら会心の出来だと思えた。俺は意気揚々と推理小説の賞に投稿準備を始めた。
そんな時だ。
尾幌が言った。
「舵間! 見てくれ! 受賞した‼」
それは尾幌が書いた小説が、とある賞の大賞を受賞したという知らせだった。
先を越された、という思いがこみ上げたが、それは押し殺した。俺の作品も賞に出せば、同じような道を辿るはずだったからだ。
「お前も読んでみてくれ! 感想を聞かせてくれないか。俺はまだ信じられない気持ちなんだ!」
興奮した尾幌に渡されたUSBを複雑な思いで受け取った。
家に帰って尾幌の作品を読んだ。
どうしようもない殺意が沸いた。
あいつの作品には俺が考えたトリックが使われていた。それもメイントリックの前の前座のような扱いで。
尾幌の野郎は俺のトリックを盗んだ。おそらく俺が書いたメモを盗み見たのだ。
問い詰めようかと思ったが、証拠がなかった。盗まれたことは間違いないが、奴が盗んだ証拠がなかった。
はらわたが煮えくり返るほど悔しかった。
その後、尾幌は高校生作家としてデビューした。
俺の渾身の作品は日の目を見ぬまま、捨てなければならなかった。単行本として売られた作品に使われているトリックを使用した応募作なんて、受賞できるわけがない。
そんなことをすれば俺が盗作したと判断されるだろう。奴が盗み、俺より先に受賞しただけなのに。
奴はその後も順調にキャリアを重ね、今年でデビュー十周年だ。
俺が掴むはずだった栄光の十年はこうして尾幌に奪われた。
尾幌のデビュー十周年記念パーティの招待状が届いたのは、もう何度目になるのか、投稿作が審査に落ちたことが分かった日だった。俺は生きていくために仕方なく働き、地道に小説を書いていたが未だに日の目は見ていない。尾幌とも表面上は友人づきあいを続けていたが、もう我慢の限界だった。
招待状を読み終えたとき、尾幌を殺そうと思った。
その日から徹底的に準備を始めた。
パーティ会場は尾幌の――俺が稼ぐはずだった――印税で建てられた山奥の洋館、回遊邸。尾幌のミステリ趣向が詰まった怪しげな建物だ。山奥なので、何か起きてもすぐに邪魔が入るわけじゃないし、俺は何度も招かれているから、内部構造もよくわかる。
招待客は出版社の編集者が三人。尾幌の同期の作家仲間が二人。共通の友人が三人。そして尾幌の婚約者。あの野郎は結婚まで控えていやがる。そして回遊邸の管理人。俺と尾幌を含め全員で十二人だ。
記念パーティと言えど、今回は内々に行われるものだ。本格的なものは別途で開かれると聞いている。
くそっ。羨ましくないとは言えない。それもこれも俺が享受するはずだったのに。
とにかく俺は尾幌を殺す準備を進めた。単純に殺すわけにはいかない。尾幌が死んでも俺が捕まっては意味がない。これ以上、尾幌に人生の足を引っ張られてたまるか。
トリックを弄して殺すのだ。
俺が考えたトリックであの野郎を殺してやる。
山奥の洋館なんて、殺人事件にはぴったりだ。ミステリ作家なら垂涎の死に方だろう?
クローズドサークルだから犯人は限定されるが、そこは未来の大作家である俺の腕の見せ所だろう。怪我の功名か、幸いにも俺と尾幌は親友だと認知されている。傍目には俺が奴を殺す理由などないのだ。それは俺に有利に働く。今まで我慢して友人づきあいを続けていたおかげだ。
ついに天は俺に味方し始めたようだ。
俺の計画は早くも乱れ気味になっていた。
首尾よく招待客が回遊邸にそろったのはいいが、突如として地震が発生して、回遊邸と外部をつなぐ道が地滑りで封鎖されてしまった。
それだけなら、クローズドサークルが強固になっただけだが、地滑りに巻き込まれかけたという余所者が回遊邸に助けを求めてきたのだ。計画にはない闖入者が居てしまうことは俺にとって非常に都合が悪い。
しかし、基本的にお人よしの尾幌はその三人を快く迎え入れた。
そして、その三人は何の因果か、探偵事務所を構える探偵とその助手二人だという。
そんなバカな。
どうしてこんなタイミングで、探偵が湧き出てくるのだ。これから殺人現場になるであろう洋館に偶然に探偵が現れるなんて、これじゃあ、まるでミステリじゃないか。
その九猫夜美とか名乗った女は、そこそこ出来る女のような雰囲気を持っていて、わりと整った容姿と芯の通った立ち振る舞いを見せていた。助手の方はフワフワした雰囲気の可愛げだけで生きてきましたみたいな女と、おどおどしたチワワみたいな男だったが。
俺が探偵という存在を色眼鏡で見ているせいだろうか。九猫探偵はやけに実力があるように思えた。これから殺人を企む人間の前に、天啓のように現れた探偵に気おされているのかもしれない。
しっかりしろ。俺の計画は完璧だ。
そもそも、ミステリのような名探偵など、そうそう居てたまるものか。こいつは現実の探偵だ。どうせ浮気調査やペット探しに追われているに違いない。
探偵たちは尾幌に丁寧にお礼を言った後、空いていた部屋に案内された。俺は情報収集もかねてこっそりと後をつけた。
「ふふ……所長、何か起きそうじゃないですか? 具体的にはあれが。所長が『あれ』される未来が見えます」
「音黒ちゃん、滅多なこと言わないで」
「いや、でも九猫所長……この状況は『あれ』では?」
「笑君も。やめてよね。二人の希望的観測だからね。……確かに嫌っていうほど条件は整っているけど! それはそれよ」
「いや、経験から明らかですって」
「いや、起きないから。何も起きないから。万が一、何か起きそうになっても、ちゃんと私が阻止するから」
廊下の先で探偵たちはこそこそと意味の分からない会話を繰り広げている。具体的なことは何も言っていないが、どうにも無視できない単語が聞こえてくる。
私が阻止する、だと?
ど、どういうことだ? まさか、俺の計画が察知された? そんなバカな。まだほとんどなにもやっていないぞ。あの少しの会話で何かに気づいたのか? いや、さすがにそれはない。適当言っているだけだろ?
「場所も面子も、パーティの動機も含めてそれっぽいけど、今は良好な関係に見えるし、大丈夫でしょ」
今は良好な関係に見える……。
くそっ、嫌な言葉を吐きやがる。
やはり、あの探偵は何かを感じ取っているのかもしれない。こんなところで計画の障害がでるなんて思ってもみなかった。あの探偵を侮ってはいけないのかもしれない。
しかし、あの会話を聞けたのはよかった。探偵が何かを感じ取っているなら、それに先んじて行動してしまえばいい。あの探偵たちを調べようと後をつけた俺の慧眼が誇らしい。
計画の修正が必要だ。
俺の本来の計画を達成するためには、まず九猫探偵を排除しなければならないようだ。
そう思ったのだが、探偵はやはり一筋縄では聞かなかった。探偵の隙を探そうとかなり観察してみたが、なかなか隙を見せなかった。まず、大前提として異常に警戒心が強い。単独行動が極端に少なく、基本的に助手のどちらかと一緒にいることが多い。一人になった時も、さりげなく辺りを窺うし、曲がり角も壁際を避けて大きく曲がる徹底ぶり。まるで曲がり角から凶器を持った犯人が飛び出してくる想定をしているかのような用意周到さだ。
観察しなければ気づかないさりげなさで、食事すらも最初に口をつけず、小皿は避けており、大皿から取る。飲み物は自ら封を開けたものを好んでいる。
こいつ……何をそんなに警戒しているんだ? まるで自分が殺されるのをわかっているみたいじゃないか。本当に俺の狙いを察知しているのか?
くそっ、どこで感づいたんだ。俺はそんなに殺気が漏れているのか?
結局、一日目は探偵の隙を見つけられずに終わった。
しかし、絶望するにはまだ早い。期限はあと六日もある。俺は地滑り直後の尾幌との会話を思い出した。
「警察と消防に連絡したけど、こちらの道の復旧には時間がかかるかもしれない。市内の方でもそれなりの被害が出てるみたいだし、一週間ぐらいと言われたよ」
「大丈夫なのか?」
「ああ。山奥だからな。災害時の備えは万全だ。探偵さんたちを入れても一週間なら十分に持つ。電気も水道も生きているし、問題ない」
この話は回遊邸にいた人々全員に伝えられており、パーティ参加者がパニックになることはなかった。
俺も内心ほくそ笑んだものだ。クローズドサークルがそれほど続くとは嬉しい誤算だ。探偵を排除して、尾幌を殺す時間も十分すぎるほどある。
探偵の隙は見つからなかったが、収穫もある。あの探偵が異常な警戒心の持ち主だとわかったことだ。しばらくは大人しくしよう。もはやあの警戒心を解くにはそれしか方法がなさそうだ。もちろん、チャンスは窺うし、可能であればトリックも弄する。
探偵を一人にするために、助手から狙おうかとも一瞬考えたが、結局、そうなると探偵を余計に警戒させるだけだろう。はやり一発目は探偵に絞るべきだ。
実際、それからの二日間はとても穏やかだった。小さな余震が何度かあったが、恐れる程ではなかった。流石にパーティを開くことはなかったが、回遊邸に閉じ込められているとは思えないほどだった。
尾幌は本物の探偵を珍しがって、色々と取材をしていたようだし、探偵も探偵で、尾幌の書籍を読んでおり、その時ばかりは警戒心も忘れて興奮している様子だった。
「ま、まさか尾幌先生の別荘だなんて思いもしませんでした……地滑りに巻き込まれかけたときは最悪だと思ったんですが、いいこともあるのです。まあ、尾幌先生たちからすればいい迷惑ですね。すみません」
「いえ、いいんですよ。こちらも本物の探偵さんにお目にかかる機会なんてそうないですし、聞ける範囲でいいので、色々と聞かせてもらえませんか?」
「いや、別に大層な話はありませんよ? ミステリみたいな事件に出会うことは本当に稀ですし、普段は素行調査とか浮気調査を主にしていますので」
「それでも作家の性ですかね、取材が好きでして」
「まあ、そういうことなら……それから不躾で申し訳ないんですが、尾幌先生のサインいただいていいですか?」
「読んでいただいているんですね。私のサインでよければいくらでも」
「デビュー作の『鳥籠島の殺人』好きなんです。トリックが面白かったです。本命前のヤツがこう絶妙な感じで……いい意味でメイントリックを盛り上げる装置として働いてますよね」
探偵への殺意が燃え上がった瞬間だった。
な、何がメイントリックを盛り上げる装置だ。それは俺が考えて、尾幌がパクった代物だぞ。俺の考えたトリックを装置だと……!
こいつは殺さねばならない。尾幌殺害の壁でもあるが、俺のトリックを馬鹿にしやがった探偵が許せない。
何とかして探偵を殺す方法を考えねば。警戒心が強い探偵だ。一度でも失敗すれば次はない。尾幌という本丸を落とす前に探偵ごときで躓くわけにはいかない。
それからもう一日、計画を練るのに費やした。
探偵は職業柄なのか人と会話をするのが得意らしく、物珍しさはあるにせよ、闖入者とは思えないほど回遊邸に溶け込んでいた。助手二人も雰囲気通り、他人に取り入るのが得意なようだった。男の方は、針野という女の編集者に気に入られているようだったし、女の助手は友人である鷹木、波良、作家の御図柄に積極的にチヤホヤされていた。
時折、探偵たちはこちらをドキリとさせるような会話をこそこそ続けていたが、具体的な計画は露見していなさそうだった。
「……もう三日なのに何も起きない。そんな……この状況で所長が無事?」
「そんなことで驚かないでくれる? しっかり見張ってるんだから、滅多なことは起きないわよ。私だって成長してるんだってとこを、音黒ちゃんたちに見せてやるから」
「ええー……そんな成長は要りませんよ」
何を見張っているのかは知らないが、俺に張り付いているわけでもない。これなら何とか殺せるだろう。
回遊邸は大雑把には円形だ。正確に言うと十字の入った筒だ。三階建てで、ドーナツの穴部分に十字の廊下がついている。一階と三階は十字の廊下、二階は×の廊下。三階は尾幌のプライベート空間で、二階は客室。一階は円形の下半分に広間、食堂、娯楽室などが集まっており、上半分は倉庫や管理人室など普通は客人が入ることのない場所が並んでいる。
探偵に与えられたのは一階の倉庫だった。客室はいっぱいだったし、空いている場所はそこしかなかったからだ。災害時の簡易段ボールベッドを入れただけの空間。助手二人も同じ並びの似たような部屋が当てがわれている。トイレや風呂は共有スペースの分を使っている。客間にはユニットバスがあるが倉庫にそんなものはない。
探偵を殺す際に、ほかの客の邪魔が入りにくいことは俺にとって、はっきりとしたプラスだった。特に探偵の部屋は雑多な物がたくさん詰め込まれていて、事故に見せかけることも可能だった。
俺は尾幌に内緒で作った合鍵を手に、探偵の部屋(倉庫)の中に潜んでいた。この鍵はパーティ会場の設営を手伝うという名目で、回遊邸に乗り込んだときにこっそりと作ったものだ。虫唾が走るのを我慢して、尾幌を手伝ったかいがあった。あいつは俺がこんなものを作っているなんて、思いもしていないだろう。
ここで決める。
探偵が部屋に入ってきた瞬間、頭を殴りつける。これまでの観察で、探偵が部屋に戻る時間は大体把握している。基本的に夜はみんな広間に集まって、軽い晩酌をしたり、話をしたりしていることが多いが、探偵は休むのがみんなよりも少し早い。ほかの客は気心のしれた者が多いし、部屋に戻っても、やることがないから遅い時間まで部屋に戻らない。
俺は先に休むと嘘をつき、部屋に戻ったふりをして、合鍵を使って倉庫に忍び込んだ。尾幌が知り合いの作家からもらったという、なんだかよくわからない置物を握って、探偵がここへ戻ってくるのを待っている。この置物は金属製で固い。造形としてはサッカーワールドカップのトロフィーに近い形状をしている。まあ、形はどうでもよくて、重要なのは固くて、そこそこ重く、人の頭を殴りやすいということだ。
「じゃあね」
来た!
探偵と助手の話声が聞こえた。倉庫の配置的に助手が先にいなくなることは確実。探偵は一人でここに入ってくる。扉は内開きなので、扉が開いたときは、その陰に隠れることができる。
扉が開いた瞬間、小さな揺れが起きた。余震だ。
「うわ、また揺れたわね――ぐっ!」
探偵が揺れに気を取られた瞬間を狙って頭を置物で打ち抜いた。血が飛んだ。探偵がぐらついて膝をついた。
念のため、もう一発。
ゴキャッという奇妙な音と共に探偵が崩れ落ちる。
二発目は何の反応もない。
「はぁ……はぁ……」
置物を握ったまま数秒間立ちすくんでしまった。うつ伏せに倒れた探偵の頭からゆっくりと血の花が広がっていく。足を蹴ったりしてみたが、何の反応もない。手袋をしているのでわかりづらいが多分、脈もない。
「よし。死んでる。殺したぞ……」
あとは事故死に偽造するのだ。探偵は倉庫にいたとき、不運にも置物が頭に落ちてきて死んだということにする。探偵の傍に血の付いた置物を置いておいて、偽装工作は終了。全身を調べてみたが、返り血はついていないようだった。
今すぐに警察が来られるわけじゃない。とりあえずはこれでごまかせればいい。
ふう、と息を吐いた次の瞬間、強い横揺れが襲ってきた。
「うおっ」
かなり強い地震だ。
これはまずい。
俺は必死で扉を開け、倉庫から出た。揺れは十秒程度だったが強烈だった。扉の向こうで何かが落ちた音も聞こえる。
俺は扉に鍵をかけて、探偵の部屋から全力で離れた。助手たちの倉庫とは逆方向、管理人室の方へ向かって。
今、管理人は客人の世話で自室にいないので、見つかる恐れはない。
予想外の地震だったが、これを利用しない手はない。
元々の計画ではこっそりと自分の部屋に戻り、探偵の死体は明日の朝に発見されるつもりだったが、計画変更だ。俺は地震で自室から飛び出してきた風を装って、広間に飛び込んだ。どうにか誘導して、この地震で探偵に事故が起きたことにしてしまおう。
「みんな無事か⁉」
「舵間! 大丈夫か⁉」
「俺は何ともない。お前らも無事みたいだな。寝てたが飛び起きちまった。焦ったぜ」
「確かに、今のは少し大きかったな」
「式咲さんたちは大丈夫か?」
波良がそう言った。誰も言い出さなければ俺が言い出すつもりだったが、よくやったぞ、波良。まあ、あいつはあの頭の軽そうな助手が心配なだけだろうが。
「一応、様子を確認しておいた方がいいかな?」
「私が様子を見に行きましょう」
「俺も行こう。何かあったら人手があった方がいい。流石に何もないと思うが」
管理人の富木が立ち上がったので、俺も便乗する。
富木とともに倉庫に近づくと、二人の探偵助手が、探偵の部屋の前で扉を叩いていた。
「所長ー」
「大丈夫ですかー」
「お二方、どうされました?」
「お、いいところに! 富木さん、申し訳ないんですが、合鍵を持ってきてもらっていいですか! 扉は鍵がかかってて開かないし、今しがた地震があったのに、所長から返事がないんです! 蹴破りたいんですが、金属の扉は流石に無理なんです!」
慌てているのか、二人そろって富木に詰め寄る。
……慌ててるんだよな? なんか、やけに興奮して楽しげに見えるんだが、気のせいだよな?
「は、はい。わかりました少々お待ちを」
富木が走って、自室方向へ消えていく。
「なる早でお願いします!」
はあ、可哀想に。どれだけ早く開けたところで、探偵はすでに死んでいるんだが。
「お待たせしました!」
一分もしないうちに富木は戻ってきた。女の助手は待ちきれないとばかりに、鍵をひったくると倉庫①と書かれた鍵を差し込んで、扉を開け放った。
「所長!」
探偵は先ほど俺が殺したときと、ほとんど変わらない姿で倒れていた。違うところと言えば頭の近くに、五十センチ四方の木箱が転がっているぐらいだ。置物は木箱に隠れているのかここからは見えないが、近くに転がっているだろう。探偵は運がないのか、あの木箱にも後頭部を殴られたらしい。どうやら俺が部屋から出たあとに聞いた音は、あの箱が棚から転がり落ちた音だったようだ。
「所長‼」
「九猫所長‼」
「うわっ」
助手二人が倒れこんでいる探偵に駆け寄る。俺の横で富木が悲鳴を上げた。
「ち、血が、た、大変だ……!」
「富木さん! 俺がここに残るから、みんなを、尾幌を呼んできてくれ!」
「は、はい」
慌てて踵を返す富木をしり目に、俺は探偵の方へ向き直る。我ながら素晴らしい演技だ。
「しょ、所長……ふひっ」
「ふふ……九猫所長……」
可哀想に、二人は頭から血を流した探偵の傍に跪き、肩を震わせている。
……笑い声が聞こえた気がしたが、気のせいだよな? 泣いてるんだよな?
「二人とも、大丈夫か? なんでこんなことに……置物が当たったのか? なんて不運な……」
「入るなっ!」
倉庫に足を踏み入れようとしたが、鋭い叱声に止められた。
今のは、あの女が言ったのか?
「おっとすみません、舵間さん。しかし、今は入らないようにお願いします。所長のことはあたしが――あたしたちが確認します」
その目は爛々と輝き、今までのふわふわした雰囲気はどこかへ消えて、生き生きとしたエネルギーにあふれているように見えた。
俺たちは広間に戻っていた。
あの後、全員が倉庫の前に集合し、茫然自失としていたが、富木と尾幌、そして俺が代表して探偵の脈を確認し、探偵が死んでしまったことを残りの面子に伝えた。式咲と火戸林の助手二人組は俺たちが倉庫に入ることに難色を示していたが、最後は責任者として確認しなければならないという尾幌の言葉に折れたようだった。
「なんてことだ、まさかこんなことになるなんて……」
尾幌は広間のソファに座りこんで頭を抱えている。
「……あなたのせいじゃないわ」
婚約者の日根が尾幌の手を取る。
「ああ。日根さんの言う通りだ、尾幌お前のせいじゃない」
ああ。もちろん言葉通りさ、お前のせいじゃない。
「あのタイミングで探偵さんの頭に、置物がぶつかってしまうなんて、想像できるはずがない」
「でも、俺が九猫さんをあの部屋に案内したんだ」
「あんなことになるなんて予想できないだろ」
「せめてもう少し、荷物を片付けていれば……」
尾幌は俯いて拳の震わせる。
いい気味だ。尾幌が困っているのを見ると心が躍る。
探偵の死を確認した後、事故があったと警察や救急に連絡したが、地滑りの封鎖があるためどうしようもない、今すぐに向かうことは出来ないと返答があった。
これは俺の計画通り。想定通りだ。
そして、あの状況をみて、みんなが地震による不慮な事故だと思い込んでいる。誰もあれが撲殺死体だなんて思っていない。
これも恐ろしいほどに計画通りだ。
その探偵は今も倉庫に転がっている。尾幌が安置を勧めたが、式咲と火戸林が頑として首を縦に振らなかった。二人は背中を震わせながら、スマホで探偵の写真を撮り続けていた。
「証拠にしないと……所長……ふぐ、なんでこんなことに……ひひっ」
「はぁ、ぐう……ぐふふ。傷多い……」
事故死が信じられないのか。警察や救急に証拠写真を渡そうとでもいうつもりだろうか?
……やけに棒読みなセリフと、漏れ聞こえる笑い声のような嗚咽……いや、本当に嗚咽か?本当に泣いているのか? なんだか笑い声のような気がしてならないが……それともショックでおかしくなっているだけか? たぶん、そうなんだろう。あれだけ仲のよさそうだった所長が死んで笑えるはずがない。
尾幌はそんな二人の様子を見て、諦めたように「そっとしておこう」と言った。
おそらくあの二人は今も、偏執的な熱量で撮影会を続けているのだろう。行動原理は理解できないが好きにすればいい。
探偵は排除した。探偵を失ったあの二人は何の障害にもならない。これでやっと本来の計画を実行できる。警戒心の強かった探偵がいない今、俺を止められる者はいない。
「尾幌、ショックかもしれないが、今夜はもう休もう。悲しいけど、俺たちが九猫さんにしてあげられることはもうないよ。お前が疲労で倒れることの方が困るだろう」
俺は時計を確認しながら言った。時刻はすでに零時を回っている。ほかの客はすでに自室に戻っている。どいつもこいつも青い顔で怯えた表情だった。
「……舵間の言う通りかもしれないな」
尾幌は疲れ切った表情で顔を上げた。そしてふらふらとした足取りで、日野さんに支えられながら広間を出て行った。
その後ろ姿を見送って息を吐いた。
「ふー……」
俺が探偵を殺して一時間半は経っている。今日はこれ以上なにもするつもりはない。流石に俺も疲労を感じている。
本番の前に疲れをためている暇はない。俺も今日はゆっくりと休ませてもらおう。
昨日の興奮のせいか、朝の五時にパッチリと目が覚めてしまった。二度寝できるような精神状態でもないので、なんとなく自室を出て、広間へ足を向けた。誰もいないと思うので、一つ仕掛けを打っておきたい。
「おっ、おはよう」
思わず言葉に詰まったが、広間には先客がいた。
助手の二人だ。式咲と火戸林。二人してソファに陣取り、穴が開くほどスマホを見つめている。
「……んあ? ああ、舵間さん、おはようございます。早いですね」
式咲はタイムラグを感じさせる挨拶をかました後、すぐにスマホに目を落とした。俺には何の興味もないような態度。探偵が死んで茫然自失としているのかと思ったが、そうでもなさそうだ。火戸林に至っては完全に無視だ。
二人とも取り乱してもいないし、目も泣きはらして赤くなっているということもない。どちらかというと、表情が明るめで、肌も心なしかつやつやしているように見える。
……そんなことあるか?
訝しげに思いながらも、一つ心を乱しそうな言葉を投げつけてみる。
「……九猫さんのことは残念だった」
「はあ……」
式咲は盛大にため息を一つついた。その表情は明らかにいら立ちを含んでおり、俺に話しかけられたことを心底、面倒くさいと思っているようだ。スマホからチラッと顔を上げて、邪魔をするなという表情で続けた。
「ええ。大変です。所長は大けがをしたわけですからね。心配です」
「…………」
こいつはもう精神的に壊れているのかもしれない。九猫が死んだことを認められず、怪我をしただけだと思い込みたいんだろう。
俺はもう何も言わないことにした。おそらく何を言っても無駄だろう。
それからしばらくしないうちに他の面子が、ぞろぞろと広間に入ってきた。みな、一様に疲れた表情をしている。まあ、あんなことがあった後だ。休むに休めないヤツも多いだろう。そして休めないからと言って、自室に一人で籠りたい状況でもない。探偵は自室で一人で死んだのだから。
尾幌もかなり疲れた表情を浮かべていた。
これは朝飯がうまくなる。奴の心労は俺の元気の源だ。
俺は内心の思いを表に出さず、努めて沈痛な表情を見せながら、これからの計画に思いをはせた。
六時の鐘が鳴った。広間にはレトロ趣味の大きな時計があり、静かな広間に鐘の音が響き渡る。
祝福の鐘かもしれないな。
そんな空想めいたことを考えていると、ありえない声が聞こえた。
「おや、皆さん、おはようございます。音黒ちゃん、笑君も元気?」
広間の扉が開き、入ってきたのは九猫探偵だった。
探偵……
探偵?
探偵⁉
「あ、所長! 起きられたんですね!」
女の助手が何か言ったような気がする。
目の前の光景を信じることができなかった。
なんで探偵がここにいる?
あいつは死んだだろう!
俺が撲殺したじゃないか!
「は? え?」
「た、探偵さん……?」
広間の全視線が探偵に注がれているだろう。かく言う俺も他人を観察する余裕などない。目の前の光景を飲み込むことに必死だ。
「生きているんですか……? あ、いや、生きていますけれど……昨日はその、あの……」
尾幌が口をあんぐりと開けて、しどろもどろに口を開いている。
「昨日は死んでたのかと思っていまして……脈もなかったですし……いや、何言ってんだろうと思われるでしょうけど……」
「あー……ご心配をおかけしましたね。申し訳ない」
当の探偵は苦笑いと照れ笑いが八対二で混じったような表情で頬を掻いている。
「いや、頑丈なのが取り柄なんです。探偵は体が資本。勘違いされるのも無理はないでしょう。血が出ていたでしょうし、気が動転して、怪我の気絶を死んでしまったと勘違いしてしまっても責められるものではありません」
「ああ……そうですか。いえ、驚きはしましたが、あなたが無事で本当にほっとしています。夢でも見てるのかと思いました」
奇しくも尾幌と意見が一致した。夢でも見てるのかと思いたい。どんな悪夢だこれは。
「現実ですよ、私は生きてます。信じられないなら頬でもつねって差し上げますよ?」
探偵は尾幌に向かってほほ笑んだ。
「いえ、大丈夫です。本当によかった」
「重ね重ねご心配をおかけしました。大丈夫です。ゾンビでもないし、幽霊でもありません。いたって普通の人間です。ま、多少けがはしますが」
「流石所長ですね。所長の頭の固さは目を見張るものがありますよ」
「音黒ちゃん、それ褒めてるの? 貶されてない?」
「そんなことありませよぉ」
探偵はこれまでと全く変わらないやり取りを助手と繰り広げている。
「まあ、私は少し休みますね。取り急ぎ、皆さんに無事をお伝えしたかっただけなので。やはりまだ本調子ではありませんから」
探偵は頭の後ろに手を持っていきかけて止めた。後頭部に傷があることでも思い出したのかもしれない。
「音黒ちゃん、笑君。来て」
「はーい」
「わかりました」
探偵は軽く会釈すると、助手二人と伴って広間から出て行った。
「ふうー……驚いた。しかし、本当に無事でよかった」
「あ、ああ。そうだな……」
尾幌に話を振られたので、慌てて答える。
くそっ、気が動転して、うまく受け答えできそうにないぞ。
「いや、昨日は冷静だと思っていたが、やっぱり落ち着けてなかったんだな。もう死んでいるものとばかり思っていたよ。慌てたときの感覚なんて当てにならないな」
「そ、そうかもしれないな。あの状況じゃ仕方ないような気もするけどな。俺たちは医者じゃないし……」
そうは言うが、本当に死んでなかったのか? あの血の量、力の抜けきった体、ピクリとも感じない脈拍で? 人間というのはあれだけ全力で、金属の塊で殴りつけても死なないのか? 人を殺したことなんてないから、加減がわからなかったが、思いっきりやったはずだ。それとも無意識に手加減してしまったのだろうか。俺の内なる良心がやめろと叫んでいた?
そんなはずはない。俺は探偵を確実に殺すつもりだった。尾幌を殺すためには、探偵が邪魔だったのだから。
俺は全力でやった。全身全霊でやった。それは確かだ。
しかし、それでも足りなかったのだろう。
現に探偵は生きている。
殺していなかったのだ。死体が蘇るわけがない。死者の復活なんてありえないのだから、殺し損ねたと考えるべきだ。
問題は一つだ。
探偵が覚えているか。俺があいつの頭を殴りつけたことを覚えているか、だ。あの時は見られなかったはずだ。何も証拠は残していない。
大丈夫。探偵は何も言っていなかった。
俺に殴られたなんて、一言も言っていなかった。証拠があるなら俺を糾弾するはずだ。しない理由がない。俺を見る目も普段と何ら変わりないものだった。ほかのヤツと差があったとも思えない。気は動転していたが、そこは間違いないはずだ。
探偵は何も気づいていない。
おそらく助手から状況を聞いて、自分の身に起きたことが、地震による不幸な事故だったと納得するだろう。
それならやりようはある。
探偵が万が一、何かに気づく前に、もう一度、やればいい。
次は必ず殺す。物理的に、絶対に生存が不可能なほどのダメージを与えるのだ。置物の殴打では不十分だった。それは学んだ。
俺は失敗を次に生かせる人間だ。
俺は武装を整えて探偵が休んでいる倉庫へ向かった。計画を詰めるのに少々時間を要したが、準備は万全にしておかなければならない。右手に工具箱から拝借した金槌。腰にはもしものために用意していたサバイバルナイフを忍ばせて。回遊邸の中は探偵が生きていたことで緊張が途切れ、緩んだ空気に支配されていた。みな広間か自室にいるようで、自由に行動するには最適だった。
探偵は休んでいる。
この情報は隣の助手から聞いた確定情報だ。
俺は探偵の様子を窺いに来たという形で、まずは助手の元を訪ねた。探偵の部屋に助手がいれば殺害は困難なので、できる限り一人の時が望ましい。
「九猫所長ですか。部屋で横になると言っていましたよ。頭の傷はかなりひどいものでしたしね。何とも不思議な傷で――」
いきなり饒舌に話し始めた火戸林を制して、隣の式咲の部屋も確認する。
「所長? 休むって言ってましたよ? 何か用事が?」
「いや、怪我が怪我だから心配になっただけだよ。休んでいるならそれでいい。俺は戻るよ。また起きたら様子を確認させてくれ」
助手どもは揃いもそろって、能天気に探偵が一人であることを教えてくれた。本当にバカどもだ。危機感ってもんが欠如してる。
所長の怪我であれだけ嘆いていたはずなのに、今度は自分たちがついていなかったことで、本当に探偵が死んでしまうとも知らずに、呑気なものだ。
返り血を防ぐためにレインコートを着込んでから、探偵の倉庫の扉に合鍵を差し込み、極力音を立てずに扉を開けた。中を覗き込むと、倉庫の奥に設置されたベッドの上でシーツが盛り上がっている。
よしよし、ちゃんと寝てるらしいぞ。
ゆっくりと扉を開けて、部屋に忍び込む。
流石に緊張する。金槌を握る手に知らずの内に力がこもる。
いつ探偵が起きてもいいようにベッドから目を離さない。一気に距離を詰めるつもりで、金槌を振りかぶりベッドに飛び掛かる!
「があっ!」
膝裏に猛烈な痛みを感じた、と思った次の瞬間、右手に激痛が走り、金槌を取り落としてしまう。
「なんっぐうっ!」
腹にすさまじい衝撃。息が詰まった。何が何だかわからない。腹に衝撃が二度ほど追加され、次は背中に重い一撃が入った。
全く息ができない。かろうじて床に転がったことだけがわかった。一体なにが起きている?
呼吸苦の中、無理やり上半身が引き起こされる感覚があった、胸に強烈な衝撃を感じて吹っ飛ばされた。そのあと、衝撃を感じて止まった。背中からどこかにぶつかったらしい。
「なん……」
幸か不幸か、胸への衝撃で呼吸が再開して何とか息苦しさからは脱したものの、全身が痛くて動けない。
かろうじて動く視線を向けると、俺と反対側、倉庫の入り口付近で前蹴りのポーズをとっている探偵の姿が目に入った。
は? なんで探偵が……
意識が遠のく……
パァンッ!
という音と共に、頬に強烈な痛みが走り、意識が覚醒した。
「はっ」
「気分は?」
「は? あ、え? なんだ?」
「気分はどうかと聞いているんですよ、舵間近助さん」
目の前に探偵の顔があり、俺は一瞬で、何が起こったのかを把握した。
返り討ちにされた……!
ベッドの膨らみは偽物だったんだ……探偵はおそらく、一回目に俺がしたように扉の陰に潜んでいた! そして後ろから俺をボコボコにした。
金槌はない、腰を探るもサバイバルナイフもなくなっている。
「武装解除は終わってます」
探偵が手に持った金槌とサバイバルナイフを後ろに放り投げた。
「まあ、一応聞いておきましょうか。一体、あなたは何をしにここへ?」
「お、お前の怪我の調子はどうかと思って、様子を見に……」
「金槌を片手に? 勝手に扉開けて?」
「…………」
呆れた表情の探偵が冷たく言う。
「素直に認めりゃいいのに」
「お、俺はまだ何もしていない」
「いや、してるでしょ。現在進行形でしてるから。断りなく部屋に入り、金槌を振りかぶった。ナイフも持ち込んで、様子を見に来たとか嘘もついている。絶賛、殺人未遂中」
探偵が指を突き付けてくる。
まずい、なんとかうまい言い訳を考えねば。くそっ、こんなことになるなんて。
「あと、昨日の傷害事件もあんたでしょ?」
は?
「なんでそれを知って……」
「自白ありがと」
「っ! 違う、今のは言葉の綾だ!」
証拠なんてない! 何も残していない!
「ありえない! 犯人は俺じゃない。あれは事故だ。地震で置物がお前の頭に当たっただけだ! 証拠がないだろ! 俺が犯人だっていうなら、証拠を出せ!」
どうだ、探偵。何も証拠はないだろう? 出せるもんなら出してみろ。
「往生際が悪いわね。まず一つ、昨日のあれは事故じゃない」
探偵はイラついた表情で指を立てた。
「昨日私が死ん……じゃなくて、怪我したとき、頭には合計三つの傷があった。比較的軽いものが一つと大きな深いものが二つ。軽い方は木箱での傷。これは地震で木箱が落ちてきた時のものね。深い方はあのよくわかんない置物の分。あんた、あれで私の頭殴ったでしょ?」
探偵が指さす方向には血が付いた、あの置物が置かれていた。確かに俺があれで殴ったが、その証拠がないという話をしているんだ。
「あれがどうした。まさか血がついてるから俺が殴ったなんて言わないよな? あれは地震で落ちてお前の頭に当たったものだ。そうに決まってる」
「はあ、深い傷は二か所って言ってんでしょ。棚から落ちた置物が、頭に二か所も傷を作れるわけないでしょうが。誰かが意図的に殴りでもしない限り、あんな傷は出来ないのよ」
「偶然にできるかもしれないだろう。ないとは言い切れない!」
「はいはい、確かに言い切れないかもね。でもそれは0パーじゃないってだけ話。深い傷だって言ったはずよ? 棚から落ちてきた置物の一撃目は深くなってもいい。それだけの落下エネルギーがあったかもしれないから。でも、自然落下の二撃目が、一撃目と同じような威力であることはない。一撃目と同じような深さになるはずがない。絶対に威力は弱まってるから」
「…………」
くそ、念ための二撃目を入れたせいだって言うのか?
「例えそうだとしても、それは俺が殴ったことにはならないだろうが!」
「まあ、確かに。でも人為的なのは認めるわけね?」
「可能性ならあるかもな!」
はやりこいつは何の証拠もないのだ!
「じゃあ、二つ目」
探偵は落ち着き払って二本の指を立てた。
「音黒ちゃんと笑君から聞いたけど、あんた第一発見者なんだってね。ウチの二人と富木さんを入れて、四人だって聞いてる」
「それがどうした? まさか、第一発見者疑うべきっていうのか?」
「ミステリの王道だけどね。でもそうじゃない。どっちかっていうと、犯人しか知らない秘密の暴露ね」
「なんだと?」
そんなことをした覚えはない。
「あんた、私を見たとき、こう言ってたんだって?『なんでこんなことに……置物が当たったのか? なんて不運な……』」
「それがどうした? あの状況なら何もおかしくない」
「いや、おかしい」
探偵はそう言って、スマホの画面を差し出してきた。そこには昨日見たばかりの光景が映し出されていた。おそらく倉庫の入り口あたりから見た、探偵が倒れている画だ。頭元には木箱が転がっている。
「この状況があなたに見た光景よね?」
「だから?」
「置物、見えるの?」
冷や汗が噴きそうになった。
探偵の言う通り、木箱に隠れているのか、置物は見えない位置にある。
「この状況なら私は木箱のせいで、倒れているように見えるんだけど。あんたはどうして、置物が当たったなんて言ったの?」
「そ、それは……それは置物が見えてたからだ! 俺はあの時、ちゃんと置物が見えていた! そんな写真だけで言われても困るな!」
探偵は反論してこなかった。
ははは、俺はまだ負けてない。探偵には昨日俺が置物が見えていたかどうかなんて、判断する術はない。
「はあ、面倒くさいわね。いい加減諦めなさいよ」
「お前が諦めろ」
「じゃあ、三つ目」
いくらでも言えばいい。どうせ何も出てこない。
「一つ目の証明を引用するけど、置物は自然落下ではなく、人為的に使用されたもの。ということは私を殴りつけた犯人がいることになる」
「それがどうした? それは俺が犯人だっていう証拠にならない」
「昨日、私が死……怪我をしたのは地震の直後。木箱の様子から見てもそれは明らか。その地震は音黒ちゃんたちと部屋の前で別れた後にすぐ起きたもの。なので、犯行時刻はかなり短い範囲に限定される」
「それで?」
「その時間、回遊邸の人間は広間にいた。たった一人、先に休むって言って、自分の部屋に戻ったあなたを除いて」
今度こそ、ぶわっと冷や汗が噴き出た。
「他の人たちはその時間、広間にいたことは確認してある」
「…………」
「だから、あの時間、置物で私を殴れた人は一人だけ。あんただけよ」
「いや、俺じゃない……そうだ! お前の助手なら別れた後に殴れるだろう!」
「それはない。ウチの助手を侮辱しないで。そもそもあの置物は、私の部屋にあった物よ? あの二人が殴るんなら、自分のとこから適当な物持ってくりゃいいだけの話よ。三人とも似たような倉庫なんだから」
「ぐう……」
「観念しろ。犯人はあんただ、舵間近助」
くそっ、くそ、こんなことで、こんなところで!
「うおおおっ!」
探偵に飛び掛かる。
「ぐぼぁ!」
鋭いパンチが俺の頬にめり込んだ。続いて腹。
俺はなすすべなく床にうずくまることになった。
「う、ぐうぅ……」
「往生際悪いわね! 無駄な抵抗はやめろ!」
「ううっ……どうしてこんなことに……尾幌をやるつもりだっただけなのに」
「っ! ああ、やっぱりそうか。私が邪魔だったわけね。私を殴りつけた理由だけがよくわかってなかったのよね」
探偵はすべてわかっている、と言いたげな表情で俺を見下ろしている。
くそっ、くそっ!
「これも全部、尾幌のせいだ! あいつが、あいつが……!」
俺は我慢できなくなり、うずくまりながら尾幌に対する恨みを吐き出した。尾幌に盗作されたこと、それが我慢ならなかったこと、すべて吐き出してしまった。
「ふーん、そう」
あまりにも無情な声が降ってくる。顔を上げると探偵は俺と目も合わせようとしていなかった。俺の話にまったく興味をそそられなかったらしく、上の空で自分の毛先をいじっていた。
「で?」
「で? だと? 俺がどれだけあいつに迷惑かけられたと思ってやがる!」
「いや、聞いた限り、尾幌先生まったく悪くなくない? 完全に八つ当たりの被害妄想で、自意識過剰野郎の被害者面した妄言にしか聞こえないんだけど」
あまりの暴言に言葉を失ってしまう。俺からの反論がないのをいいことに、探偵はさらに責めてきた。
「あんたの小説が何の賞も取れないのは、尾幌先生のせいじゃないじゃん。百パーセントあんたの才能と努力の問題でしょ。そもそもトリックの盗作もあんたの妄想じゃない。証拠ないし」
「……俺が考えたトリックが尾幌の作品に使われてるんだ!」
「いや、だから、なんであのトリックを自分だけが思いつけるもんだとか思ってんの? 尾幌先生と同じ話してるときに思いついたんなら、そりゃ相手も同じ思考で考えついてもおかしくないと思うけど」
「それは……それは……」
「いい加減、自分のダメなとこ見つめなさい。いい年した大人でしょうが」
はっきりと探偵に言われて、もう俺は気力を失った。
ああ、認めたくない……認めたくはないが、どう考えても探偵の言ってることが正しい。探偵にボコボコにされたせいか、それとも完全に論破されたせいか、今までの憑き物が落ちていくようだった。
「はぁ~……あんたの処遇どうしようかな。とりあえず、尾幌先生には言うけど、これ見せながら。殺人計画の処遇は尾幌先生に任せるわ」
そんなことを言いながら、探偵は棚の陰からさっきのとは別のスマホを取り出した。
……録画してやがったのか。
もういい、どうにでもなれ。
わかった。すべて甘んじて受け入れよう。尾幌がどういう行動をとろうが、すべて受け入れよう。せめて人としてのプライドを守るために。
「まあ、私の殺……じゃない、傷害事件を警察に通報するのは勘弁してあげるから、示談金で二十五万ね。治療費含めて」
「……治療費?」
確かにあれだけ殴りつけた賠償としては悪くないのだろう。探偵なりの温情だろうか。
しかし、めちゃくちゃ元気に見えるんだが、というか、こいつ元気すぎないか。昨日あれだけ血を流していたのに……
どれだけ頑丈な頭をしてるんだ。
「…………。あ、イタタタタ~流石に暴れすぎたみたいね~」
明らかにわざとらしいセリフと吐いて、探偵は頭に手をやった。
「昨日殴られたから、痛くてたまんないわ~」
「……わかった。払う」
「あ、そう? じゃあ、交渉成立ね。強請るつもりはないから安心して。これっきりだから」
探偵は少しだけほほ笑んだ。
ああ、俺の負けだ。
やはり、こいつは優秀な探偵だったのだ。俺の警戒は正しかったが、すべてが俺を上回っていた。はなから勝負になっていなかったのだろう。
俺が初めて出会った探偵は、まるでミステリから抜け出してきたような名探偵だった。