4.ダイイング・メッセージは読みづらい
ガバッと顔をあげると頬からペチュという音がした。
「いったっ!」
乾燥して固めの糊状になった血が頬と床を接合していたようだ。
「……また死んでたみたいね」
座りこんで頭に手をやる。ごわごわの髪の間から血の欠片がポロポロ落ちてくる。どうやら頭に一撃もらったらしい。とりあえず現状把握からね。
……冷静だな、私。血まみれで起きた人間とは思えない反応だ。悲しくなってくる。
頭をふって気持ちを切り替え、辺りを見回す。おそらく凶器であろう血痕が付着した長い角材が私の近くに無造作に放り出されている。そして板張りの床。物はほとんどない。テーブルも椅子も壁際に寄せられているし、ソファの革は擦り切れが目立つ。白い壁に舵輪や網、ボトルシップなどの海グッズがたくさん飾り付けられていて、それが少し特徴的だった。
この部屋で異質なのは私と凶器の角材くらいだ。
部屋のデザイン的には海辺のコテージ的な建物かしら? そう言えば血の臭いに混じって磯の香りがしないでもないか?
匂いはそれでいいとして、問題は埃っぽい床に一か所の赤黒い染みである。さっきまで私の頭があったところだ。
「ん? こ、これは!」
その染みの少し先にミミズがのたくったような赤黒い線が何本か引いてある。
「も、もしかしてダイイング・メッセージってやつ⁉」
血みどろを忘れるくらいにテンション爆上がりだ。なにしろダイイング・メッセージである。ミステリ好きなら一度はあこがれるミステリの王道。私の長い殺害歴を見てもお目にかかったことがない。
状況から判断するに紛れもなく本物。私が死んでしまう直前に気力を振り絞って書いたに違いない。
「…………」
ダメだ。全然さっぱりわからない。
これは何を書いてるんだろう。
「これは……『Z』かしら? それとも『2』? こっちは『山』に見えなくもない……?」
赤黒い線は見ようによってはそう見えるというレベルの文字かどうかも怪しいありさまだった。おそらく二文字で、『Z』的な形のものと『山』と読めなくもない線引き。
ほぼ確実に自分で書いたはずなのに、記録がぶっ飛んでいるせいで全く思い出せない。
「まあ、現状把握の方を優先しましょうか」
さっきも確認したが、今いる場所は海グッズに囲まれた部屋の中だ。室内はやけに埃っぽく、床には血の染みとダイイング・メッセージの他に、何かを引きずったようなあとが残っている。たぶん、私を引きずった跡よね。
自分の埃まみれのスーツを見下ろしながら考える。仕事用のスーツが台無しだ。
そして仕事用の格好しているということは、海に遊びに来たわけではないのだろう。
記憶を探ってみる。
確か……浮気調査の結果報告にきたはず。そう。この海辺のコテージの奥さんの浮気調査だったわね。結果はクロ。それで殺されたのかしら?
調査結果を依頼主であるコテージの主人に報告した記憶がない。そもそも現地で会った記憶がない……最寄り駅に着いた、という時点から記憶がなくなっているわね。
約束の時間が午前九時だったから……駅から二十分ぐらい歩いたとして、九時前にここに着いたはず。
腕時計を確認すればすれば、針は十一時過ぎを差している。
二時間しか経ってない。
ここに来た時点でガツンと頭をやられ、この部屋に運び込まれ、その時点ではかろうじて生きていた私は最後の力を振り絞ってダイイング・メッセージを書き残した、というところだろう。記憶と現状を確認すれば、おそらく正しい推測のように思う。二時間以内に復活することはほとんどないので、着いた、殺された、二時間経過、復活という流れのはず。脳震盪かなにかで気絶していただけかと思ったが、頭にこびりついている大量の血液に対して傷がない。復活したときに治ったのだ。
二時間ちょっとで復活とは中々スピーディだ。頭部撲殺としては早い方である。吹っ飛んだ記憶の方も数十分というところだろう。打ち所がよかったのだろうか。死んでおいて打ち所も何もないような気がするが。
一人で苦笑いを浮かべる。
しかし、少々困ったことになった。
今回は一人で報告に来ている。影丸は別件で仕事中。笑君は体調不良で寝込んでいるし、音黒ちゃんは有休を取って、世界のミイラ展を見に行っている。
有休をとって見に行くのがミイラというのが、最高に音黒ちゃんだ。まあ、人の趣味にケチをつけるつもりはないけど。
電話で助けを求めることもできなくはないが、ほとんど役にはたたないだろう。影丸は仕事にかこつけて、きっと無視するだろうし、寝込んでいるのと休みの従業員に仕事の連絡をするのは酷すぎる。そもそも笑君と音黒ちゃんは私の傷&死体が写真に残っていないことを怒るに違いない。
死んでいた人間に対する、あまりにも無茶振りで理不尽な怒りをぶつけられるのがおちだ。
そんなこんなで私は一人だ。まさか死ぬとは思わなかった。フォローをしてもらうこともできないし、死んでいた時間の情報もない。敵地というと大げさだが、殺人犯と対するのに味方はいない。一人でなんとかせねば。
とりあえず、外に出るのは得策ではないだろう。
改めて自分の状態を確認してみれば、所持品はすべてそろっていた。かばんも無事で、スマホから報告用の資料までそろっている。財布の中も減ってない。今日この日に偶然、強盗に襲われたということもなさそうだ。
悲しいかな、もともと財布にはあまり現金が入っていなかったけど……。
となると、犯人は依頼人の妻および浮気相手が濃厚だ。
まさか依頼人の旦那の方じゃないでしょう……依頼を完遂して殺されるなんて、あんまりにもあんまりだ。土壇場で妻の浮気の結果を知るのが怖くなって、という動機も考えられなくはないが、それにしても殺すのはやりすぎだろう。断ればいいだけの話なのだから。
報告用の資料を確認する。
依頼人は栃王山清。日に焼けてはいるが、かなり痩せ型の骨川筋衛門だ。正直、後ろから殴られたとしても一撃では死なない気がする。一撃必殺の殴打をかませるほどの腕力があるようには思えない。私の方が絶対強い。
妻は栃王山巴。無茶苦茶童顔で、百四十センチもない小柄な女性。その割には出るとこは出てるグラマラスな体型だ。そういうのが趣味な野郎にはたまらないタイプなのかもしれない。それはどうでもいいとして、犯人だと考えるならば、圧倒的に頭部撲殺向きの体型じゃない。身長もそうだが、体格に比例して非力だ。頭部をガツンと撲殺できるようなパワーはないはず。
私はこれでも百六十は超えているから、巴とは三十センチ程度の体格差がある。こびりついた血液を思えば、致命傷が頭部であったことは確かなので、小柄な巴に頭を殴られたとは考えにくい。しゃがんだ瞬間を捉えられたのかもしれないが、そんなに都合よくしゃがむことってあるかしら? 靴は普通のパンプスだし、靴紐を結ぶ必要もない。まあ、物を拾うときなんかはしゃがみ込むが、私は他人の前で物を拾うとき、通常では考えられないぐらい警戒するのが癖だ。世の中にはしゃがみ込んだ頭をこれ幸い、とばかりにガツンと殴ってくる輩が多い。
最後の容疑者候補は浮気相手の枝木直己。時折、このコテージを手伝っているアルバイトである。名前の字面からは想像できない外見。見た目は完全にアメコミのヒーロータイプで、ゴリゴリのムキムキ男。二百センチに近い長身で、胸板なんてプロテクターでも着こんでいるのかと思うほどにパンパン。腕も丸太のように太く、人の頭をスイカ割りのごとく砕きそうな感じがする。私の武力をもってしても正面から戦えば、きっと負けるだろう。
この三人を犯人候補だとするならば、やはり枝木だろう。転がっていた角材で頭をぶん殴る姿が簡単に想像できる。
問題は巴との共犯かどうかだが……。
調査結果からみれば、限りなく共犯だと思う。見かけによらず、巴はかなり激烈な性格の持ち主で、言いたいことは絶対言うタイプ。カッなるととんでもない行動にでるという話もあった。強気強気で、決めたことは引かない性格らしい。よく言えば姉御肌、単純に言えば強情苛烈。
枝木の方は、体格に似合わない気弱なタイプ。肉体的なパワーと反比例するかのように精神的にもろい人間だ。
ちなみに正夫の方の清も気弱である。こちらは肉体的パワーのなさと比例して、精神的パワーが低い。おそらく今回の依頼もなけなしの根性を振り絞った結果のはず。依頼を受けた時の様子を思えば間違っていないはずだ。
両者ともに完全に巴の尻にひかれている状態なのだ。
報告書をパラパラとめくりながら思考する。
巴の性格からすれば、浮気の証拠隠滅に殺人という最悪の強硬手段をとるような気もする。
「ふむ……」
おそらく犯人――巴と枝木は私の処理に来るはず。私が放置されていたここはおそらく使われていないコテージだ。ここには何棟かコテージがあるが、そのうちの二か所ほどが使えなくなっていたはずだ。人に見られたくない、死体なんかの隠し場所としては理想的だろう。
隠し場所としては理想的だが、私がこのまま放置されることはない。所持品がすべてそろっていたことを考えても、後で死体ごとまとめて処理するつもりに決まっている。
しかし、問題はいつ頃処理に来るのか、ということだ。単純に考えれば暗くなるまで待ちたいのが犯人の思考ではないだろうか。それとも共犯ならどちらかが解体とかしに来るだろうか。
「いや、でも……」
巴が自分から死体の処理をするとは思えない。単純に体力的な話もあるが、やらせるタイプの人間だろう。かといって、枝木が一人で処理できるとも思えない。体力的には問題ないだろうが、精神的には無理な気がする。おそらく一人では死体への恐怖に勝てないはずだ。
もろもろを勘案すれば、私が処理されるまで少しは時間があるということになる。さすがにほったらかしではないだろうから、日が暮れるまでが勝負だ。
「さて。どうしたものかしら?」
これから取るべき私の選択だが、大きく分ければ二つだ。
一つ。この後、死体の処理にやってくるであろう巴と枝木を待ち伏せし、急襲し制圧する。それから殺された恨みを込めて制裁を下す、という痛快な案。
二つ。こっそりとこの小屋から出て、清とコンタクトを取り、調査結果を報告、依頼金を受け取りサヨウナラする案。
どちらも捨てがたい。
だがしかし、現状をかんがみれば後者が現実的だろう。私は一人だ。馬鹿どもとはいえ、社員の協力は得られない。外の情報も、殺された後の正確な情報もない状況では形勢が悪すぎる。巴と枝木に返り討ちに遭う可能性も否定はできない。不意を衝くとは言っても、体格差は明確だし、巴の指示に従って動くなら、枝木も油断ならない。どちらでも単体で、急襲できれば負けないと思うけれど。
もしかすると巴の部下は枝木だけではないかもしれないし。そんな調査結果はなかったが、抜けているとも限らない。私は巴のすべてを丸裸にしたわけじゃない。
幸いにも私物は一切なくなっていなかったので、このまま清に報告することは可能だ。ただし、見てくれはもう少し整えなければならないとは思うけど。
スーツは薄汚れ、頭皮と髪の毛には血がこびりついている。なんら顔にも。このままの姿で清の前にでたら、泡を吹いて気絶するかもしれない。
方針は決まった。あとは準備しなければ。
洗面所を探して部屋を出る。奥の扉をあけるとバスルームと洗面台があった。ここも使われなくなって久しいようで、うっすらというにはやや多い埃が積もっていた。蛇口をひねるとカルキの臭いが鼻を突いた。
よかった。水道は生きている。
問題はタオルの類が全く見当たらないことか。あったところで埃まみれで使えないのだが。かばんの中のハンドタオルで、うまいことやらなければならない。
埃でドロドロになったジャケットを脱いで、ワイシャツの袖をまくり上げる。ジャケットの置き場に困ったが、かばんの上しか置く場所がなかった。まったく。
ジャケットを置く前にかばんの中から常備しているオキシドールを取り出した。少量を手とって、頬にこびりついた血液にまぶしていく。すぐにぶくぶくと泡が立ってきた。やはり血液を落とすにはこれに限る。過酸化水素がどうたらという化学反応で非常に血液が落ちやすい。
私のように血まみれになりがちな人間はとても重宝する薬である。血まみれになりがちな人間なんてそうはいないと思うけど。
正直、肌やら髪やらには悪そうだし、目に入ったらシャレにならないのだが、背は腹に代えられない。
オキシドールと水道水を駆使し、私は順調に血液を落としていった。悲しいかな、手慣れた作業である。
辺りに雫をまき散らしながら、血液洗浄は終わった。びしょびしょの髪の毛を絞り上げる。
ああ、くそっ。またキューティクルが死んでいく。
こういう時は長い髪の毛が鬱陶しい。ショートカットにしようかしら。短ければこういう時はきっと便利だろう。
ロングヘアの方が好きなんだけど、短いのも似合うかしらね。ただ、こういうときのためにヘアスタイルを変えるのって、なんか負けたような気がして嫌なのよね……。
とりあえず、ヘアスタイルの問題は置いておこう。
限界まで髪を絞ったが、それでも乾燥しているというには程遠い。ハンドタオルを使ったが、まったく足りなかった。
「もう。仕方ないわね……」
ある程度、乾燥するのを待つしかない。これ以上、手の打ちようがないし、しばらく待機するほかない。おそらく、犯人が来るのは先の話だし。
座りたかったが、どこも埃まみれで座れる場所がない。すでにスーツが汚れているが、新しい汚れを増やしたいわけじゃない。汚れは前面に集中しているわけで、お尻の部分は比較的マシなのだから。
仕方ないので突っ立たまま、頭頂部で髪の毛を結ぶ。結ばないと濡れた髪でシャツが湿ってしまう。人には見せられないしなびた葉のついたパイナップルみたいな髪型だが、誰もいないので問題ない。
「はあ……」
報告書をうちわ替わりにパタパタ仰ぎながら、髪の毛を乾かす努力をする。
こういうことしてると高校生時代のプールの授業とか思い出す。もうかなり前の話だが。あの頃と比べたら、キツイ塩素の臭いがないだけマシよね。
そんなどうでもいいことを思っていると、ふと、床のダイイング・メッセージが目に入った。
「ふむ」
そういえば、あったわね。いい機会だし、多少は時間もあるし考えてみましょうか。
推定:『Z』と『山』。
位置取りとしては『Z』のすぐ下に『山』がある形になる。
容疑者は『栃王山巴』と『枝木直己』。
ふーむ。やっぱりこの『山』は栃王山の『山』かしら? しかしそうなると犯人ではなさそうな清も同じ苗字なわけで、あえて『山』をチョイスした理由がわからない。同様に仮に犯人が清であった場合も『山』を選ぶ理由ない。
なら『Z』はどうだろう。
『Z』というのは『巴』の書きかけとも取れそうに思える。
しかし、そうだとすると絶妙に中途半端だ。巴を差したいのなら『巴』と書けばいい。『Z』を書いているのだから『巴』がかけない道理はないだろう。
他に考えるとすれば『Z』は直己の『己』? 形的にはより近づいたような気もするけど。
ただ、枝木直己を表すのに『己』というのは解せない。確かに画数で言えば圧倒的に少ないが、そうなると平仮名でもイニシャルでもよかったはずだ。『Z』のイニシャルは関係者にいない。しいて言えば『とちおうざん』の『ざん』がZだが、そんなところまで考え出したらキリがない。もしかすると『Z』は『直己』のイニシャル・Nを横倒しに書いたのかもしれないが、そうなってくると、次はなんで横倒しに書いたんだという話になる。死ぬ一歩手前の私が力を振り絞ってわざわざ横倒しに書いたというのだろうか。なんのために?
犯人を欺くためというのも考えにくい。状況を察するに私をここに引きずってきた犯人はダイイング・メッセージを見てはいないはずだ。仮に犯人が見ていたとしたら、絶対に消されているはず。いくら意味不明の文字だとしても消したくなるだろう。誰にも見られないにしても、いい気はするまい。
そんな推察から横倒し説は放棄しよう。
『Z』が『2』ならどうだ?
まあ、単純に考えるなら『2』人とか? そうなると次の『山』を考えると栃王山夫婦という話になりそうだが、そうではないと結論付けたしね……。
『2』メートル近い、筋肉『山』盛り男とか……流石にない。あまりにもこじつけが過ぎる。そんなアホみたいな言葉のチョイスを自分がしたとは思いたくない。
まあ、死にかけた私の頭が正常に働いてなかったら、あり得る話なのかもしれないが。
確かにダイイング・メッセージというのは、死の直前の比類のない神々しいような瞬間に書かれるものなので、意味不明だというのが通説だ。
しかし、自分が書いたダイイング・メッセージを確認できる人間はそうそういないはず。例え、比類のない神々しいような瞬間に書かれたとしても、自分が書いたんだから、理解できてもよさそうなものだけど。私が理解できなかったら誰ができるわけ?
つらつらと思考を泳がせていたが、ふと嫌なことに気づいてしまった。
「……なんか、あれね」
卑怯な気がする。卑怯というか、順序が逆な気がする。
容疑者がほぼ確定しているときに、ダイイング・メッセージを読み解こうとするのは間違っているような気がしてきた。
本来であれば、ダイイング・メッセージを解き明かすことで、たくさんの容疑者の中から犯人を絞り込むものだ。しかし、私が今やっていることはまったくの逆。犯人に合わせてダイイング・メッセージを読み解こうとしている。
問題を見て答えを考えるのではなく、答えに問題を合わせようとしているに等しい。
くっ……なんてこと。
なまじ生き返って犯人が特定できてしまったものだから、ダイイング・メッセージの持つ意味があやふやになってしまっている。
これではミステリの神様に合わせる顔がない。
そんな神がいるのかはさておいて、意味をなさなくなってしまったダイイング・メッセージへの考察は棚上げにしよう。
「……まあ、でも記念に写真でも撮っておこうかしら」
こんなことは滅多にないし、もしかしたら急なひらめきがあるかもしれない。
そんなことを思いながら自分が書いたであろうダイイング・メッセージを写真に収める。
殺人現場を写真に収めるとは、音黒ちゃんや笑君になった気分だが、こんなことは本当に滅多にないのだ。
そんなことを思っていると、一つ、いいアイデアが浮かんだ。
……嫌がらせでもしていこうかしら?
「さて。あんまりちんたらしてられないわね」
しなびたパイナップルヘアーが少し元気を取り戻してきたし、動き出しましょう。
約束の時間はだいぶ過ぎてしまったが、清の方へ連絡を入れてみる。
「『遅れて申し訳ありません。今、どちらにいらっしゃいますか?』っと」
『コテージです。何かあったのでしょうか』
やきもきしていたのだろう。清からはすぐに連絡があった。
依頼人を待たせるとはとんだ探偵だ。
頭の中の影丸がのたまう。それを蹴り飛ばしておいて、清に返信だ。確かに遅れたのは職業人として本当に申し訳なく思うが、あんたの奥さんに殺されたんだから、多めに見てほしい。
『おひとりですか? 奥様は近くにいらっしゃいませんね?』
さすがにこれは確認しておかなければならない。
殺人の被害者としても指示役に遭遇するわけにはいかない。もちろん、探偵としても浮気調査の対象に鉢合わせるわけにはいかない。
まあ、正直に白状すれば、当初ここに着いたとき、おそらく探偵として浮気調査の対象に鉢合わせたせいで殺されているのだが……。
しかし、今のこの場でそれを証明できる人間はいない。私の記憶はパアだし、もしかするとなんとなく殺されたのかもしれないし! 探偵としてやっちゃいけないことをやってないかもしれないし!
私が必死で探偵としてのプライドにしがみついていると清から返信が届いた。
『はい。買い物にでかけると。ホームセンターへ先ほど』
……これ、死体を解体するための道具を買いに行ってるんじゃないの? 私の殺害の後始末をしてからの行動だとすれば、時間的にもそうおかしくないはずだ。
本当にぐずぐずしてられない。
犯人どもをぶん殴ってやれないのは悲しいが、仕事を完遂するとしよう。
『コテージの入り口でお会いしましょう』
「え⁉ ど、どうしたんですか、その恰好」
コテージの入り口で所在なさそうに佇んでいた清は私を見るなり、大げさにのけぞった。
そりゃいきなり目の前に現れた女が、髪の毛ぐしょぬれ、服は埃でドロドロなら仕方ない反応かもしれない。
そんな格好だが、私は平然と言い切った。
「局所的な雨に降られてすっ転んでしまいました」
「居所的な雨……?」
清は訝しげにピーカンの空を見上げた。
私が人生で得た教訓なのだが、たいていの人間は、自信ありげに平然と言われたことに反論してこない。
まだ納得していなさそうな清に促されコテージの中に案内される。正直、中に入りたくはないのだが、軒先でできるような話でもない。
そのままテーブルへ案内される。この汚れた服では座るに座れない。椅子にできる限り浅く腰かけて、背もたれなどは使わなかった。
「まずは約束の時間に遅れて申し訳ありません。連絡することもできずに、重ねて申し訳ありません」
清も着席したのを見て、私は強引に話を進めた。
「こちらの依頼とは無関係ですが、少々問題が発生しまして」
「はあ」
「栃王山さんがお気になさる必要はありません。それで、依頼の件なのですが」
「は、はい」
清は目に見えて緊張した。この気弱な男に残酷な真実を告げても大丈夫だろうか、と要らない心配が頭をよぎる。
「えー……あなたの伴侶である巴さんについてですが、浮気されていますね」
「っ……やっぱり」
わかってはいたのだろうが、改めて事実として告げられるとショックなようでふらついて、背もたれに深くもたれかかっている。『誰と』を聞いてこないところを見ても予想はしていたのだろう。
「詳細はこちらの資料にまとめてありますので、またご覧になってください。こちらは用紙。こちらはデータになります」
紙束とUSBをテーブルに滑らせる。
「それと、こちら請求書になります」
茫然自失といった感じの清に請求書を手渡す。清は機械的な動きで請求書通りの金額を手渡してくれた。
これで依頼は完了だ。
「……落ち着く時間が必要でしょう。私はこれで失礼します。何か追加の確認などあればまたご連絡ください」
「……ありがとうございます」
清の反射的なお礼を背にコテージを出た。
探偵を生業にしている以上、こんなシーンはいくらでもある。が、正直あまり気分のいいものではない。基本的に他人の知られたくない、知りたくない話を告げるのが私の仕事だから仕方ないのだけれど。
「さて、帰るとしましょうか」
巴と枝木に鉢合わせてもまずい。とっととおさらばするべきだろう。本当は私の死体が消え去ってしまっていることに気づくであろう巴と枝木の様子も見てみたいが、我慢すべきだと結論付けたわけだし。
軽く伸びをしていると遠くに見覚えのある車が見えた。
あ、栃王山家の車だ。今回の調査で飽きるほど見た車種だ。
やべっ! 巴が帰ってきたじゃん!
私は見つからないうちにとっとと身を翻して、逃げるようにその場を後にした。
「でも、珍しいですね。所長が犯人に制裁を加えずに帰ってくるなんて」
「まあ、状況的にしょうがないかなーって」
晩酌のビールを煽りながら、世界のミイラ展帰りでホクホク顔の音黒ちゃんに答えた。この女、世界のミイラ展の開館から閉館まで居座った猛者である。
ちなみに今は事務所に私と音黒ちゃんしかいない。九猫探偵事務所は住居を兼ねているが、ここに住んでいるのは私と音黒ちゃんだけだ。……まあ、この子はいつの間にか住み着いていただけなのだが。
私が今日の件のあらましを語ると案の定、死体を見損ねたことを心底悔しがり、写真を撮っていないことを無茶苦茶怒られた。
いや、死んでた人間に写真なんか撮れるわけないでしょ。
そもそも、今日のことは言うつもりがなかったのだが、どうにもウチの助手は勘が鋭い部分があって、音黒ちゃんは私が死体になり果てたことをかぎつけた。
はあ、普通に仕事は完了したって言っただけなのに……。
「で、嫌がらせって何してきたんですか?」
音黒ちゃんはミイラ展のお土産のミイラフルーツなるものを摘まんでいる。ただのドライフルーツの詰め合わせなのだが、商品名としてはいかがなものだろう。
「ダイイング・メッセージの改造」
イチジクのミイラフルーツを口へ放り込む。商品名を付けた奴の神経を疑うが、味はおいしい。
私はなけなしの時間を使って、死体を片しにくるであろう巴と枝木のために、素敵なダイイング・メッセージを残しておいてあげたのだ。
血痕を水で伸ばしながら『2』を『直己』に、『山』を『巴』と読めるようにしておいた。血痕ならいっぱいあったし、インクには困らなかった。
「今頃……かどうかはわからないけど、慌ててるでしょうねぇ」
自分の顔が皮肉な笑みを浮かべているのがわかる。
死体がきれいさっぱり消えて、見るからな血文字で自分たちの名前が書かれているなんて、犯人からすれば相当な恐怖だろう。
「質が悪いですねぇ。自分で書いたダイイング・メッセージを自分で改造して犯人を追い詰める探偵なんて」
音黒ちゃんもヘラヘラ笑っている。
「でも、大丈夫ですか?」
「何が? 大丈夫でしょ。まさか警察に死体が無くなりました、なんて連絡できるはずもないし、死体が消えたなんて、一体誰に相談できるの?」
巴と枝木からすれば、悶々と悩むことになるだろう。仮に私を殺し損ねているのなら、犯人だと名指しされているわけで、いつ警察が来てもおかしくない状況の出来上がり。また私が死んでいたとしても、死体が正体不明の第三者に持っていかれていることになる上、その第三者には、ダイイング・メッセージで自分たちが犯人だとばれている。何らかの脅迫を受ける可能性も脳裏に浮かぶだろう。
もちろん、私は事を荒立てる気はないが、二人にとっては何の連絡もない、音沙汰ない状況というのも辛いはずだ。
「怒った犯人が復讐に来るかもしれませんよ? そうなったらまた殺されて……うひっ」
「私の死体を想像して吹き出すな!」
相も変わらない音黒ちゃんにチョップをかます。
「痛っ。もう~想像ぐらい許してくださいよ~」
「まったく……なんにせよ、せいぜい苦しめばいいわ。殺人犯の罰にしちゃお似合いでしょ」
またもビールを一口。
ああ……生き返ったあとのビールはうまいっ!
「それよりさ、これちゃんと見てくれない⁉」
私は加工前のダイイング・メッセージを音黒ちゃんに突きつけた。
死体の写真ではないので、音黒ちゃんはいやそうに画面をのぞき込む。
「なんて書いてあると思う?」
「ええ……いや、所長、字ぃ汚すぎません?」
「いや、普通の状態じゃなかったんだから勘弁してよ」
「うーん……『乙』? いや、『2』かな? あとは……歪んだ『E』?」
顎に手を当てながら、眉間にしわを寄せる音黒ちゃん。
「……犯人の名前とか、状況とか読み取れそう?」
「無理ですね」
「ええっ⁉ なんでよ! 本物のダイイング・メッセージなのよ⁉」
「そんなこと言われても。正直、文字かどうかも怪しくないですか? ぐにゃぐにゃの線だって言われたら、そうだ、としか言いようないし、百歩譲ってメッセージだとしても、文字へろへろだし、意味を読み取るのは無理……これはまさしく『死にかけのメッセージ』ですよ」
「うまいこと言ってんじゃないわよ!」
「いや、無理ですってこれは。お手上げです」
音黒ちゃんは万歳しながらソファに倒れこんだ。
「っていうか、所長は何か思いついているんですか? 名前とか状況って」
「……まあ? こ、これは『己』で『直己』とか、とか『山』で栃王『山』……」
言葉が尻すぼみになって消えていく。音黒ちゃんは哀れみの視線を向けてくる。
「強引にも程がありますよ……」
「うぐう」
「書いた本人が分かんないのに、あたしが分かるわけないじゃないですか」
「そうなんだけど……そうなんだけど!」
だんっと缶をテーブルに叩きつけて、私は思いのたけを吐き出した。
「悔しいじゃない! ここに本物のダイイング・メッセージがあるのに……! 待ち焦がれた本物のミステリが目の前にあるのに‼」
悔しさのあまりテーブルに突っ伏してしまう。
「なんで何にも思いつかないかなぁ‼ 悔しい‼ 私にもっと探偵力があればぁ~」
「もしや、もう酔ってます?」
音黒ちゃんのあきれたような声を聴きながら思った。
私が不甲斐ないばかりに、こうして本物のミステリは迷宮入りしてしまうのである。