カマキリと蝶
ある日夢を見た。自分がカマキリになっている夢。
薄茶色の卵から沢山の兄弟達と一緒に生まれて、1人歩き出した。他の兄弟達はまだ歩き出さない。その場でみんなとカマを合わせたり、足をざわめかせたり、節を曲げ伸ばしたりと忙しそうだ。
楽しそうね。でも私は違うの。
そう思って、私は兄弟達の輪から離れた。
しばらく歩くと、目の前に小さなイモムシが現れた。私と同じく卵から生まれたばかりなのか、まだ小さい。
「初めましてイモムシさん」
私は声をかけてみた。それを聞いて、イモムシは顔を上げて私を見る。驚きも怯えも、喜びも安堵も、何も無い、無感情な目で見る。
「初めまして、カマキリさん。今日は暖かいですね。今日は、と言っても、私はまだ今日しか知らないのですがね」
言って、イモムシは視線を元に戻す。自分が乗った柔らかい葉っぱを再び齧り出した。私には興味が無いようだ。
私は、ちょっとムッとなった。
私はカマキリだ。イモムシを食べることもできるのに。確かにまだ小さいけれども、もう少し怖がってもいいのではないか?
しかし、まぁ良い。イモムシはまだ生まれたばかりで小さい。今日のところは見逃してあげよう。ああ、私はなんて優しいのだろう。
次の日、1人歩いていると、昨日とほぼ同じ場所で同じイモムシに会った。
「こんにちはイモムシさん」
私は、昨日より少し大きくなっていた。アブラムシを食べて脱皮をしたのだ。
「ああ、昨日のカマキリさん、こんにちは」
答えるイモムシも、昨日よりも大きくなっていた。でも脱皮はしていないみたいだ。相変わらず柔らかい葉っぱを食べている。
イモムシは、挨拶を返しただけで、やはり葉っぱを食べ続けた。怖がる様子は全くみられない。私はイモムシを食べることもできるのに。
「逃げても良いんですよ?」
イライラとして私はそう言った。すると、イモムシは再び顔を上げて私を見る。
「カマキリさん、私は足が遅いんです。あなたが私を食べようとしたならば、逃げても無駄です。だから逃げません。見つかった時点で終わりなんです。自分では、生きるか死ぬかを選ぶ事も出来ません」
なるほど。
私は納得した。そして、今日もイモムシを見逃してあげた。ああ、私はなんて優しいのだろう。
何日かして歩いていると、イモムシがいた柔らかい葉っぱのあった場所を通りかかった。葉っぱは無くなっていて、イモムシもいない。もしかしたら何かに食べられてしまったのかも知れない。
足が遅いのだ、仕方がない。見つかった時点で終わりなのだから。
でもせっかく2回も見逃してあげたのに。こんな事なら食べてしまえばよかった。
ふと横を見ると、見慣れない、緑色の、何やら歪なかたちの物体が視界に入った。イモムシが食べていた柔らかい葉っぱの生えていた植物の茎の部分。他の葉の影に隠れるようにして、目立たずにそこにある。
なんだろう。
好奇心に誘われて、私はそれに触れてみた。鎌の先でそっと、突くように。
細長く縦に伸び、上側は膨らみ、所々尖っている。下側はスッと蛇の尾のようになっていた。硬いような、柔らかいような、張り付くような、不思議な感触だ。
ふと、蛇の尾のような部分が動いた。私は少し驚いた。
ああ、生き物だ。
「お久しぶりです、カマキリさん。ずいぶんと大きくなりましたね。見違えました。」
それは、間違いなくイモムシの声だった。緑色の何かから聞こえてくる。イモムシの声ではあるが、以前とは違って、声に感情を感じた。少しの焦り。声が震えて早口になっている。
「私は今、サナギです。もうすぐ成体になります。サナギの間、私は動くことが出来ません。なので見つかりにくいところにいたのです。ですが見つかってしまいました。カマキリさんは、その気になれば私を食べることができます。けれども、成体になったら無理です。羽がありますから。どうしますか?今私を食べますか?」
何ということだろう。あのイモムシが、前よりもさらに食べられやすい状態になっている。そして、もうすぐ食べられなくなるからどうするか?と聞いている。もうすぐ成体になれる、その期待感から命が惜しくなったのだろう。これはもはや命乞いに違いない!
ああ、あの感情の無かったイモムシに命乞いをさせる事が出来た!
私は、胸が喜びで震えた。
私は、サナギに向かって首を振り、そのままそこに留まった。
サナギに割れ目が入ったのは、それから少ししてからだった。割れ目は左右に広がり、中から湿ったシワシワの羽が出て来る。シワシワを伸ばすように羽を揺らし、徐々に細長い体と、さらに細い足が出て来た。
しばらくすると、サナギは蝶になった。鮮やかな模様の大きな羽。
「カマキリさん、カマキリさんが私を食べなかったので、成体になる事ができました。見て下さい、この美しさ!」
蝶は、私に見せびらかすために頭の上を旋回した。
「カマキリさんにも羽がありますが、私のように美しくは無いですね。それに、私程長く優雅に飛ぶことはできない。さあ、よく見て下さい、私は美しいでしょう?」
私は、言葉を失った。
2回も見逃した。サナギを見守った。
その私に対して、このような言葉があるだろうか。私よりも優雅に飛ぶことができ、私よりも美しい羽を持っていると!
なんと自慢げで配慮のない事か!
私は、鎌を振るった。なんの躊躇も無く、蝶を狩った。
「とうとう、とうとう私を捕まえましたね、カマキリさん。」
そう言うイモムシの、その自慢の羽を私は捥いだ。そして自分の背中に付けた。
「ああ、私の羽で飛ぶのですか?ならばお気を付け下さい。私の羽は、空の生き物にしては、決して早くはないのです。」
喋り続ける蝶の体を食べた。頭から食べた。
静かになった。もう、自慢げなあの喋り声を聞くことはない。そして、背中には美しい羽が残った。
やってやった!あの嫌味な蝶の、自慢の羽を奪い取ってやった!
喜びを感じながら、私はその新しい羽で飛んでみた。
しかし、蝶のあの細い体とは違って、私の体は大きく重いようだ。蝶のように優雅に飛ぶことが出来ない。
ならば、と、私は自分の羽も同時に動かしてみた。浮かび上がり、前に進むが、高くなったり、低くなったり、右へ左へと傾いたり、なかなかに難しい。
ようやくコツを掴み、草むらを出ると、開けた所に大きな水溜りがあった。私は、水面に映る自分の姿を見てうっとりとした。
なんて美しい羽だろう。こんな美しい羽を持ったカマキリなんて、他にいやしない。心が軽くなる。誰かに見せたい。褒められたい。でも、誰に?
産まれてから出会った虫たちは、みんな食べた。一緒に生まれた兄弟たちとは、生まれたその時以来会っていない。
ただ、イモムシだけだった。私が何度も会って話した虫は。しかし、無関心なイモムシは、怯えるサナギになり、嫌味な蝶になって私に殺されてしまった。
私は、ひとりだ。
その時だった。頭上から影が差した。風が吹いた。バサリと音がしたと思うと、真っ暗になった。
後には、波紋が一つと、鳥の羽ばたく音が静かに響いただけだった。
目覚めると、私はうつ伏せになって歯を食いしばり、握った手に汗をかいていた。体中に力が入っていたのだろう。疲労感と節々に痛みがある。
私は泣いた。声を上げて。理由はわからない。ただただ、悲しかった。
私の声を聞いて、お母さんが来てくれた。温かい手で私を撫でてくれる。しがみ付くと、鼓動が聞こえて来る。お母さんの心臓の音だ。お母さんは生きている。泣いている私も生きている。そして、お母さんのお腹の中では、これから生まれて来る私の妹も生きている。
まだ会ったことの無い私の妹。まだ名前すらも無い。
生まれたばかりの妹は、危険から逃げることはできないだろう。
見つかった時点で終わり。自分では生きるか死ぬかを選ぶことも出来ないのだろう。
私か何かをしてあげても、それを当たり前のように受け止めて、なんの反応もないこともあるかも知れない。
そのくせ都合よく頼ってきたり、もしかしたら私よりも優れた部分を誇り、自慢げに振る舞うのかも知れない。
もしそうなったら、私は、妹に何をするのだろうか。
考えたらまた怖くなった。泣き声が激しくなる。
お母さんが手を握ってくれる。泣きじゃくる私の手の方が熱かった。お母さんの手は冷たい。気持ちが良い。その手の冷たい感じが、私を落ち着かせてくれた。
お母さんの声が優しい。優しくて心配そうで、不安そうだ。
お父さんも来てくれた。お父さんの声は、お母さんよりももっと不安そうだった。
ああ、みんな不安なんだ。
唐突に私はそう思った。
不安だけど、1人じゃない。一緒にいてくれる。泣いたら駆けつけて、撫でて、手を握ってくれる。
きっと、大丈夫。