第92話 意気地なしなんかじゃない
あの時、夕暮れの校舎で――。
大きな黒水のうねりは、真田馨が去った方角から押し寄せて来た。だとすれば、献慈よりも先に彼女が巻き込まれたと考えるのが自然だ。
(どうして……思いつかなかったんだ……?)
思考が堂々巡りしている。
馨もトゥーラモンドに来ていた――正確には〝写し取られていた〟――可能性を疑いもしなかった愚かさが悔やまれた。
無論、わかったところでどうなるわけでもない。同時に一人しか存在を許されないマレビト同士が再会する望みは、無きに等しいのだから。
――美名子さんは気性も器量も天下の真田馨譲りですけぇの。
(確かに……そう言っていた)
ベッドに座り込んだまま、何度目とも知れぬため息を吐き出す。
「もしもーし」ドア越しに澪が呼んでいる。「開けて大丈夫?」
「……いいよ」
上ずった返事が空元気を隠しきれていない。気取られている。澪の浮かない表情が物語っていた。
「若蘭から」
差し出されるアメ玉。
「……何?」
「心配してたよ。献慈の様子が変だって」
「……そっか」
つと伸ばした献慈の手を、澪の指が絡め取る。
「話してくれないんだ?」
「大したことじゃないから」
「ウソ」
「今言うことじゃないっていうか」
「ほら。言ってること変わってるし」
寄り添う尻の重みでベッドがきしむ。
「話してくれないなら、このアメ貰っちゃうから」
「どうぞ」
「う~ん……だったらさぁ」
「俺の話聞いてた?」
「勝負しよ? 私が腕相撲で勝ったら正直に話すってことで」
「俺が勝てるわけないだろ」
「それじゃあ、普通にお相撲で勝負するとか」
「そんなんもっとムリだって」
「めんどくさいなぁ」
(どっちがだよ……)
「じゃあこれ――私と献慈、どっちがお互いのこと好きかで勝負しよ?」
「……何だよそれ」
「んー? 自信ないのかなぁ?」
「そんなわけっ……あー、もう! わかったよ。話すからさ」
お手上げだ。どう転んでも献慈は話さざるをえないのだから。
「『真田馨』さんって言ってたの? ジオゴさんだけ? ほかの人は?」
「ううん。だから俺の聞き間違いかもしれないし」
この期に及んで自分の耳を疑う、往生際の悪さが滑稽だった。
「確かめて来る」
「ジオゴさん、帰って来るの夕方だって」
「そ。じゃあ帰って来てから訊く」
「知ったからって、どうなるわけでもないし」
「これは私が勝手にすることだから。献慈が知りたくないなら私は黙ってるよ」
澪が自分の望むよう振る舞ってくれるなどと考えるのは、ただの思い上がりだ。献慈は心底痛感しながら、それが決していとわしい気持ちではないことに驚きをも覚える。
「どうして……そこまで」
「私ね、お母さん失って、引きこもって、いろいろあったでしょ? その後もしばらく村のみんなから腫れ物扱いされてたから……だから、好きな人にはそういう態度取りたくないなぁって、思っただけ」
「こんな意気地なしなんかのために?」
「献慈は意気地なしなんかじゃないよ」
まったく、敵わない。
「……俺が行くよ。だから……」
「ついて来るな、なんて言わないよね?」




