第85話 とめどなく
沿道に停まった大学イモの屋台が澪の別腹を誘惑する。甘美な蜜の匂いから逃げるように、ふたりは早足で通り過ぎた。
「ライナーさんと無憂さん、あの調子じゃ朝帰りもあるかもなぁ」
「んっ? 献慈もオトナの遊びに興味あるのかな?」
「そ、そういうつもりで言ったんじゃ……」
カタン、コトンと音を立てながら、路面鉄道の車両がふたりの足取りを追い越していった。線路の続く先は学生街だ。
「わかってる。カミーユたちもだけど、気を使ってくれたんだと思う」
(それでふたりきり……か)
すれ違う若者たちの中には、恋人同士とおぼしき二人組もちらほらと見受けられる。自分たちもそんな世間並みの一組として認められたということなのだろう。
「……疲れちゃった? 鉄道乗って帰ろっか?」
「いや……いい。歩こう」
ほんの二年ほど前までは考えもしなかった。
「そういう態度、余計に気になるんですけど?」
「鉄道の音で思い出してただけだよ。昔のこと――」
献慈が語ったのは中学校の修学旅行先、路面電車でのほろ苦い思い出だ。
「――ってな感じ。情けない話だよ。寝不足で乗り物酔いとかさ」
「それは周りがお子様だよー。私だったら献慈の体調心配するけどなぁ……馨さんみたいに」
「うん……え? な、何でわかったの!?」
「わざわざ『友だちの女子』とか、ほとんど言ってるようなものでしょ?」
勝ち誇った笑みがひたすらに眩しい。
「はぁ……澪姉にはホント敵わないよ」
「ふふーん。でも面白いね。学校のみんなで旅行とか行くんだ?」
「ん、まぁ学校っていってもいろいろでさ……」
線路の向こうに見える西洋風の建物はウケハリ大学だ。ウスクーブ内外から集う学生たちの学舎であると同時に、豊穣神・祈玻璃比売神の名を冠した農学の研究機関でもある。
「……懐かしいな、何だか」
献慈と変わらぬ年格好の学生たちが徒歩、あるいは自転車で、長くなった影を引きずっている。寮や下宿先へ帰る途中だろうか。
「学校、また通いたくなった?」
「まさか。そんなに勉強好きじゃないし。落第やらかすぐらいだからなぁ」
「それ言ったら私だって……」
「……あぁ、ごめん」
「ううん、多分そっちの話じゃなくて……やっぱり少し関係あるかも。実は私ね、一年ぐらい家に引きこもってた時期があるんだ」
あっけらかんとした口ぶりながら、澪の目は遠くを見つめたままでいる。それがいつ頃の出来事なのか、献慈にも見当はつく。
「……そっか」
「驚かないんだ。誰かから聞いた?」
「いや、初耳」
「そ。私さ、お母さん失ってから、ずっとふて腐れて部屋に閉じこもってたの。誰にも会いたくない、話したくないって……それでも千里たち三人だけは毎日必要なもの買って来てくれたり、みんなの近況とかお手紙くれたりして……」
「親友なんだね」
「うん。それからお父さんにもいっぱい迷惑かけちゃった。お父さんだって私以上につらかったはずなのに……あー、ダメ。また後ろ向きになっちゃう」
うなだれかかる澪の正面に、献慈は回り込んだ。
「いいって。今さら遠慮なんか要らないよ。愚痴でも文句でも、俺が全部受け止めるからさ」
「……あ~っ! もうっ! 結局こうなるからぁ!」
澪は顔を両手で覆い、その場にしゃがみ込んでしまう。
「大丈夫?」
「私のほうが年上なのにぃ……いっつも私ばっか献慈に甘えてる気がするぅ……」
「そうかな? 俺こそ澪姉に頼りっきりな気がするけど」
「……へ、へー。そっかなーぁ」
隠された口元の答えを、にやけきった目元が雄弁に語る。ゆっくりと立ち上がる澪に追従しながら、献慈は己の内に燻る思いをまざまざと自覚する。
今、訊いておかねばならない気がした。
「澪姉は……俺のために無理してるとかじゃないんだよね?」
「……どういう意味?」
「俺が、帰る場所がないから、かわいそうだから、とか……同情の気持ちで付き合ってるんだとしたら、申し訳ないかなぁとか……」
数日前、あれほど大胆な告白をした入山献慈の姿はもうここにはない。熱狂に勢いを借りた仮初めの勇気などとうに失われていた。
「はぁー……随分見くびられてるなぁー」
澪はついと視線を外し、また正面へと戻す。
「……って、私も悪いんだけど。ちゃんと……伝えてなかったから」
「澪――」
献慈の体を温もりが包み込む。睫毛が触れるほど間近に、澪の首筋がある。柔らかい後れ毛が頬を撫で、ほのかに漂うミルクにも似た安らぎの匂いが鼻孔をくすぐる。
「好き」
囁く声が、耳の裏側でびりりと反響する。背中を、肩を這う、たおやかな指先の力加減が、紡がれる言葉を追い越して、克明にその想いを告げていた。
「…………」
「好きだよ、献慈」
揺れている。自分なのか、相手なのか、高鳴る鼓動のせいか、ままならない息づかいのせいなのか、あるいは――疑うまでもなく、その全部だ。
身体中を高速で駆け巡る血液が、通過するたび胸が甘く疼いた。それは己を肯定されることへの痛みにも近しい愉悦であった。
「……みおねえ――っ」
震える声で、舌足らずに口走る。愛しい人をその腕でかき抱く。大きく、頼もしく見えた体。それが今は、こんなにも細く、柔らかい。
とめどなく溢れ出る愛おしさに息もできない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように。
「…………」
「……好き」
「うん……」
「献慈……大好き」
「……うん」
幸せが身を包む、永遠とも、一瞬とも思える時間だった。
頭上でちかちかと、街灯が明滅する。夕闇を照らす淡い光の中で、献慈はふっと夢から醒めるような心地がした。
「帰ろっか」
遠慮がちに伸ばされた澪の指先が、献慈の手の甲をしっとりと潤した。
次話へのつなぎ
【番外編】第85.5話 いよっ! 横綱!
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