第67話 席はただ一つ
『冥河』を見下ろす丘の上に、二人のマレビトが対座する。
献慈は自分が殺害された後、精霊との『契約』を結んだ経緯をキルロイへ説明した。
「いやはや、精霊に水先案内をさせるとは考えたものよ。無属性精霊領域の有無が鍵となるか……これはよいヒントになりそうだ」
「ヒント……ですか?」
「儂とて何も好き好んでこの地にとどまり続けておるわけではないしの。『冥河』を調べ始めたのも、元はといえば現世へ帰還する糸口を見出ださんがため」
キルロイは生前、仙人になるための儀式を失敗し、肉体を失ってこのリヴァーサイドへとやって来た。
その際の後遺症か、あるいは長い孤独の影響からか、薄れゆく記憶の中で自分の名前すら忘れてしまっていた。
「今見ている貴方の姿は、俺の記憶を参照した仮の姿なんですね」
「儂には自覚しようがないが、どうもそのようだ。マレビトの排他律がなせる業なのやもしれぬ」
キルロイのつぶやきは時折、献慈にとって難解な言い回しを伴う。
「そもそもマレビトって一体何なんでしょうか……?」
「ふむ……その先を知るには覚悟が必要になるが、聞く用意はあるかの?」
「…………はい。帰るための手がかりになるなら、是非とも」
「『帰るため』か……」
前もってキルロイが覚悟を問うたことの意味が、献慈の心に重くのしかかる。
それでも、決めたのだ。前に進むと。
「お願いします」
「あいわかった。儂は先に『冥河』の水が情報であると話した。その大元は実のところユードナシアにほかならぬ」
「……地球の……」
「トゥーラモンドは、言うなれば地球史の複雑かつ緻密なコラージュなのだ」
リヴァーサイドは断続的にユードナシアを走査している。地球の歴史の営み、その瞬間瞬間を、まったくの無作為に。
写し取られた記録は無数の粒子に分解され、やがて別の姿に再構成されるのだ――トゥーラモンドを形作る森羅万象へと。
「それこそトゥーラモンドが地球と似ていながらも様相の違う世界である所以よ」
「まさか……それじゃ、マレビトも……」
「儂もお前さんも、この世界へ〝転移〟して来たのではない。〝転写〟された存在なのだよ」
やっとわかった。マレビトが故郷へ帰れない理由が。帰る道どころか、元々帰る場所など存在しなかったのだ。
なぜならその場所では今も「元となる自分自身」が、本来の人生を生きているのだから。
「…………」
「きつい覚悟を強いてしまったこと、申し訳なく思う。だが、献慈どのにはこの先の人生をありもせぬ希望にすがり、万が一にも愚かな選択を取ってほしくはないのだ。かつての儂のようにな」
誠実さとは、刃物だ。心を傷つけもするし、茨の道を切り開きもする。
「……いえ、答えを望んだのは俺自身です。それに何となく気づいてましたから、帰る方法なんて元からないんじゃないかって。自分が転写された存在だってのには、ちょっと驚きましたけど」
「……そうか」
「それよりも、一つ疑問があります」
あの夏の日、呑み込まれた黒い奔流の中で、献慈は情報として分解される寸前にあったはずだ。
「俺が元の姿のままトゥーラモンドに来られたのには、何か理由があるんでしょうか」
「うむ。厳密に言うと元のままではないのだ。地球上と比較して、こちら側のお前さんは質量が大きく増加しておる。それが何によるものかわかるかな?」
地球人にはなく、トゥーラモンドの住人だけが持っているもの。
「霊体ですね」
「左様。転写〝元〟のお前さんを取り巻いていた物質が、霊体を組成する素材として取り込まれたのだ。転写〝先〟のお前さんによる再解釈を経てな」
献慈は思わず眉間に指先を這わせる。
(何もかも最初から俺の中に在ったってわけか……)
「なぜ分解されずに来られたかだが……ときに献慈どの、『十三年戦争』はご存知かな?」
「はい。千五百年前、トゥーラモンドに魔界からの侵略があったという話は聞いています」
「悪魔とやらの実態が何かはさておき、重要なのは彼奴らが残した痕跡にある」
争いの爪痕か、侵入の名残りなのかはわからないが、トゥーラモンドには痕跡とでもいうべき洞が残されていた。
その洞の中へ、もし分解未然の情報が嵌まり込んだらどうなるか。
「情報は元の形を保ちつつ、空洞部分へぴたり収まる筋立てよ。そしてそこには別の者の入り込む余地はなくなる」
「それがマレビト……ん? 待ってください。別の者が入れない……」
「マレビトの席はただ一つ。トゥーラモンドの大地に二人以上のマレビトは同時に並び立てぬ――」
キルロイが持っていた巻き物を振るうと、それは長い木の棒へと形を変える。両手で棒を構えた男の眼差しは、これまでにも増して真剣そのものであった。
「短い間だったが別れの時だ。実に残念だよ……」




