第65話 ゲンキデスカ
はやる気持ちが抑えきれない。澪のことを考えると胸の奥が狭くなる。
待っていてくれと、何度も心の中で叫ぶ。
(バカだな、俺……こんなに……好きだったんだ)
ほかの何よりも、あの人に会いたい。
献慈は校庭を横切り、体育館とは反対側にある施設を目指してひた走る。
(何の確証もない。でも思いつくことなんかこれぐらいしか……)
黒膿。
黒い洪水。
水。
(学校で一番水が多くある場所……確かめるだけ確かめよう)
いちいち正面に回ってなどいられない。ブロック塀に手足をかけ一気に中まで躍り出る。
「はあぁっ……んぐぬぅーッ!!」
バランスを崩しながらもプールサイドに降り立った献慈は、四つん這いの体勢からゆっくりと体を起こす。
(ふぅ、危なかった……けど思ったとおりだ)
プールを満たす水は一面、墨汁のように真っ黒だった。
(…………。ここに飛び込めば、きっと……)
あの出来事を可能な限り再現する――献慈に考えつくのはこのぐらいだ。
「うおぉおおお――――ッ!! 澪姉ぇえええ――――ッ!!」
「こらこら! やめんか、若人よ」
「――えっ!?」
飛び込み台で前傾姿勢となった体が突然、真後ろへと引っ張られた。一瞬空中を漂った献慈の背中を誰かが支え、プールサイドに危なげなく立たせる。
「間に合うたか。お前さん、向こう見ずが過ぎるぞ」
「あ、ありがとうございま……す?」
振り返って、息を呑む。
古めかしい袍を着た男が、釣り竿を手に立っていた。その顔つき、声までもが、献慈にとって少しどころではない馴染みがあったのだ。
「へ……きろ……う……?」
この校舎で数ヵ月を共に過ごした悪友・宇野宮碧郎と瓜二つの姿がそこにあった。
「キロ……? まぁよい。ちと動くでないぞ」
男は献慈の襟の後ろに引っかかった釣り針をひょいと外す。近くで観察すればするほどそっくりだったが、一方で微妙な違いも見えてくる。
「どうも。えっと、その……人違いでした。知り合いに似ていたもので」
幾分大人びた顔立ち、それに何よりも――『相案明伝』によって意味こそ通じてはいるが――男の話す言葉の響きは、日本語の発声とは程遠い。
「儂がか? ふむ……なるほど。お前さんもマレビトだな?」
「……『も』?」
「いかにも。申し遅れたが儂の名は…………」
「…………」
「儂の……名前……」
「…………?」
「……忘れてしもうた」
「…………忘れてしまわれたんですね……」
どう答えればよいものか、ともかく当の本人に悲壮感が感じられないのが救いといえば救いだ。
「まぁ、よかろう。しかし名無しのままというのも不便だ。ちょうどよい、キロ……キルロイ、そう名乗ることにしようぞ」
「キルロイさん、ですね。俺は入山献慈です。はじめまして」
「ほぅ、マッケンジーどのとな?」
その反応に確信する。この男はやはり碧郎とは別人だ。
「献慈です。入山献慈」
「イリヤマ・ケンジ……ひょっとして日本人かの? ゲンキデスカ~?」
「げっ、元気だと思います……一応。死んじゃってますけど」
「なぁに、気にするでない。儂もその昔、訳あって肉体が爆発四散してしもうての。先輩だ、先輩。ヌハハハハ……!」
「は、はははは……」
とりあえず献慈は調子を合わせておく。
「して、それ以来儂はここで長いことのんびりと暮らしておった。献慈どのが初めての客人よ。現れて早々、川に飛び込もうとしたのには驚かされたがの」
「それは事情がありまし……え? 川……?」
「む? いかがした?」
どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、キルロイの態度が読めない。
「あの……俺にはどう見てもプールに見えるんですが……」
「プールとな。これは何に見える?」
「釣り竿……ですよね」
「では――これは?」
キルロイが手にした釣り竿をぐにゃりと折り曲げると、それは木製のフラフープのようなものへと変化した。
「て、手品!? あ、じゃなくて、輪っか……?」
「自他の意識の境界を具現化したものよ。さぁ、まずはこの円をくぐって隣まで来るがよい」
「隣……?」
「来ればわかる。ほれ」
キルロイが献慈の頭の上で両手を離す。自然、輪っかはそのまま地面に落ちる。
「…………。落ちましたけど」
「うむ。この景色が見えるであろう? 広漠たる山野を滔々と流るる大河の……」
「いえ、変わんないですね。同じ学校のプールです」
「何とっ!? 理論上は完璧だったはず……となると調整が甘かったかの……」
しょんぼりするキルロイを前にいたたまれず、献慈は足元の輪を拾い上げる。
「あの……腰でぐぃんぐぃんって回してみたほうがいいっすか?」
「いや、関係ないと思う……気休めかもしれんがお前さん、もう一度その円をくぐってみてはもらえまいか?」
「こう、ですか?」
キルロイの言に従い、献慈は再び頭から輪の中を通り抜ける。




