第64話 歩き出した足は止まらない
「――――っ!」
途切れた意識が切り替わるのと同時、献慈の視界がぱっと開けた。
「…………。……あ?」
シルフィードの姿はどこにもない。直前まであった浮遊感は消え失せ、両の足には確かな地面の感触が伝わってくる。
(靴……上履き……)
はっとして、足元から順に自分の身なりを目と手とで確かめてゆく。
制服。数ヵ月前まで通っていた、良くも悪くも思い出深い学校の、夏服。
「帰って……来た…………?」
オレンジ色の光差す校舎の廊下に、入山献慈は立っていた。
すぐ横には保健室――扉は閉まったままだ。
(あの時……俺は、部屋に入ろうとして……)
救急箱も、その前に碧郎から渡されたビデオテープも、献慈の両手にはない。
おそるおそる開けた扉の向こうには無人の保健室があるだけだった。
(やっぱり…………あっ)
無意識に額を触った指先が違和感を察知する。その場所に眼鏡は掛かっていない。
(……いや。まだそうと決まったわけじゃ……)
この感情は未練か、それとも期待なのか。
(誰かいないのか……誰か……。…………。…………真田……さん……)
早足で廊下を抜け、さらには渡り廊下を進み行く。
「……あぁ」
半開きの重いドアをくぐり体育館へ足を踏み入れる。
薄暗い館内に人影はない。
ほかの場所も同じだろう。確信めいた予感が、駆け出そうとする足を重くする。
「……どこ行ったんだよ、みんな……」
半ば諦めた気持ちで独りごつ。どうせ、誰も聞いていやしない。
「真田さん……真田…………馨……さん」
ふらふらと立ち寄った水道場。鏡に映るのは、寂しん坊の間抜け面。
「ハハッ…………はぁ……」
込み上げてきた笑いはすぐにため息へと変わる。
「戻れたよぉ……たしかにッ、戻れたけどさぁ!」
静まり返った廊下に怒声が虚しくこだました。持て余した拳が空回りし、水道管にぶち当たる。
「――ぃでっ……え!?」
蛇口から噴き出したのは大量の黒い水だった。献慈は慌てて栓をひねり水流を止めるも、動悸はすぐには治まらない。
「……っ……何なんだ……真っ黒な……」
排水溝へ流れ出てゆくそれを見つめながら、献慈は不意に呼び覚まされた既視感を拭い去れずにいた。
魔物の亡骸から流れ出る黒膿。
(それもある……けど……もっと前に……)
かつて自分を呑み込みトゥーラモンドへと押し流した黒い洪水。
(……そうだ。『因果を遡る』んだったよな)
今一度、鏡を見る。相変わらずひどい面構えだが、乱れた髪の中に一本、薄緑色に透き通った毛が交じっている。
(……泣き言なんて言ってる場合じゃない。何もわからないけど……わからないなりに前に進まなきゃいけなんだ)
献慈は渡り廊下を飛び出し、校舎に別れを告げる。
(そうだよね、真田さん)
見晴るかす地平線の向こう側、沈みかけの太陽がじっとうずくまっていた。
「……待っててくれ、澪姉」
歩き出した足は止まらない。向かうべき場所があるから。
たとえどこまででも。




