第62話 落ちてゆく、どこまでも。
「澪姉……澪姉……っ!」
うわ言のように話しかけながら背中をさすった。これ以上苦しまぬよう、痛くないよう、献慈は万感の願いを込めて治癒を施す。
やがて安定してきた息の合間から、澪が返事をした。
「も、う……平気、だから」
澪の顔色が戻ったのを確認し、献慈は滲む視界を晴らそうと強めの瞬きを数度繰り返した。
「よっ、よかっ……」
「……!! 献慈――」
澪の叫びにはっとして振り返る。
殺意はすでに避けられない距離にまで迫って来ていた。
「――贄となれ」
実刃に先駆けて鋭い剣風が耳の横を掠める。真っ二つにされた己の姿を献慈が幻視する最中、割って入った刀と剣とが激しくぶつかり合う。
すんでのところで、またしても澪が救ってくれたのだ。
「ふあっ……!」
剣勢に押し飛ばされる澪の方を、献慈は振り向こうとした。
実際、それはそう難しいことではなかったはずなのだ。
「…………!?」
澪の名前の代わりに、献慈の口から飛び出したもの。
それは生臭く、粘性を帯びた赤黒い液体だった。
「……? …………!!」
おそるおそる視線を下に向け、献慈はようやく自身が置かれた状況への理解が追いついた。
献慈の胸を貫く、ヨハネスの左手がそこにはあった。絶え間なく流れ出る血に染まったそれは、手首すれすれまで己の体に埋まっている。
鼓動が激しさを増してゆく。
遅れてやって来る痛みに恐怖する。
耐えられるのだろうか。
いや、耐えられるはずがない。
嫌だ。どうしようもなく怖い。
幼子であった遠い日より、久しく感じたことのなかった、逃げ場のない感情の激流に、見栄も羞恥も、何もかもかなぐり捨てて泣きじゃくりたい気分に陥る。
今すぐ何かにすがりたかった。
だから、大切な人の名を呼んだ。
「――――!」
喉を駆け上がってくるのは、鉄の味をした生温かい塊ばかりだった。
後ろで自分の名を呼ぶ声がする。
「献慈いぃ――ィ!!」
怒っているのか、それとも泣いているのか、とにかく悲しい、とても悲しげな響きの、しかし何よりも聞きたいと願ったその人の声が、献慈を今一度奮い立たせた。
(み……澪……)
絞り出すような思いで〈ペインキル〉を発動させる。傷口というにはあまりに大きなその孔を癒しの光が覆っていく。
要求に値するとはいえない、頼りない光ではあったが、不死者の本能はそれを嫌ったのだろう。
「ぐ……ッ」
ヨハネスは不快感を滲ませた面持ちで、焼けただれた左手を引き抜く。
「くぉ……ごっ……ぅ……」
献慈の胸の孔から、消えゆこうとする生命のリズムに従って、血潮が噴き出していた。
目を覆いたくなる惨状に気が挫け、治癒の光が止む。痛みが強まるので再度治癒を試みるのだが、気力が安定せず光はさらに弱々しくなる。
急激な寒さが全身を襲う。いよいよ膝も言うことを聞かない。崩れ落ちる体を、献慈はどうにか地面に横たえた。
(嫌だ……俺は、まだ……)
「うおぁあああァァ――――ッ!!」
半狂乱で斬り込んで来る澪。ヨハネスは迎撃を試みる。
「瞬突――ゥ……ッ!?」
真っ向斬り抜けるかに思えた荒々しい太刀筋は急激な弧を描いて変化し、剣を持ったヨハネスの前腕を両断する。新月流〈早叢〉の太刀であった。
「ぐぅおォのおぉォッ!!」
矢継ぎ早に喉元への刺突。ヨハネスはこれを難なく回避、残った上腕ともう一方の腕で澪の両手首を挟み込む。無刀取りだ。
「フフ……いいぞ、殺意が漲っている……! だが――」
「ぃぐぁっ……!?」
「――まだだ。まだ一歩、及ばない」
「うぼぉ……ッ!!」
手首を極められ、さらには蹴りを叩き込まれた澪の体は恐ろしい勢いで河原を転がっていった。
ヨハネスは足下で崩壊してゆく腕――だったもの――から剣をもぎ取り鞘へ納める。一方で斬られた腕の断面は不気味な蠢動を見せながら再生しつつあった。
「〝太刀花〟が娘よ、オレを滅ぼしに来るがいい。お前にはその資格がある」
ヨハネスは言い残し、いずこへと去って行った。
壮絶な死闘がまるで嘘のように、辺りは静まり返っていた。
献慈の耳に聞こえるのは川の水音、自身の途切れ途切れの呼吸、そして地面を引きずり近づいて来る足音だけだった。
霞がかる景色の中で、両腕を垂らした澪の姿だけが、鮮明に浮かんで見える。
治癒はもう使えそうにない。霊力が尽きかけていた。自身の深手以前に、澪を二度も全快させた無理が祟ったのだろう。
だが、そのことに後悔など一片たりともない。
覆い被さるように屈み込んできた、澪の顔。汗で髪の毛が貼りつき、血と涙にまみれ、土や砂で汚れている。凄く、物凄く頑張って、力の限り戦い抜いた、誰よりも愛しい人の顔だ。
ああ、この体が無事であったならば――存分にこの人をいたわってあげたい。
「い……っ、ひぃやらぁ……げっ、んじぃ……」
しきりにしゃくり上げる合間から、澪が涙声で語りかけてくる。言葉こそ聞き取れないが、自分を気にかけてくれているのだけははっきりとわかる。
(ごめん、澪姉……お礼も言えなくて)
「ぐっ……けん、じ、いっ、行かっ、ない……れぇ……」
(……参ったな……これじゃまるっきり、さっきと真逆じゃないか……)
己の境遇に呆れながら、献慈はどうやって澪に答えようか思索した。
身体が異様に寒い。
残された時間はきっと少ない。
(お願いだ……あとちょっと、動いてくれ――)
献慈は力を振り絞り、自分の胸元を探った。目的のものを掴み取り、目の前に掲げる。
「……献慈……?」
音叉のペンダント――広げた手の中に、献慈は想いとともに差し出す。
「…………」
まぶたが重い。少しだけ、少しだけ、目を閉じてもいいだろうか。
「献…………」
頬に、胸元に、四肢に、天から無数の雫が降り注ぐ感触。心地よい雨音の隙間から、なじみのある弦の音色が聞こえてくる。
「…………」
ワツリ村から持って来たギター。初めて手に取った日の、数々の出来事が妙に懐かしい。
思えばあの時も今と似た灰色の空模様だった。
何もかもが、夢であったような気がしないでもない。
沈んでゆく、身体が、意識が。
落ちてゆく、どこまでも。
そして。
誰かが、その手を掴んだ。




