第59話 絡み合う小指
走れども、走れども、雨に霞む景色の向こうには、剣を背にした長身の影が付き纏う。
「まだ……追って来てる……!」
この場からキホダトまで引き返すには遠すぎる。かといって先ほどの橋まで戻れば、民間人をも巻き込みかねない。
「来て」
崖っぷちの手前で澪が呼んでいる。下を流れるシヒラ川の向こう岸までが一望できる高さだ。
「近道……使うしか」
「近道? ……って!!」
見下ろす地面ははるか真下。しっとりと濡れそぼつ流木が、転落者の到来を待ちわびるかのように物寂しく横たわっていた。
否応なく、澪は献慈を抱き上げる。
「しっかり掴まってて」
「あの……まさかとは思うけど……」
「献慈、信じてるからね――――!」
(マジかあぁァ――――ッ!!)
体が、頼るもの無き空へ投げ出されたのを、五感が把握する。
ゆっくりになる雨粒の動き。
内臓が上へ上へと引っ張られる感覚――そして。
「――づぅ……ッ!!」
「ふがっ……!?」
激しい衝撃に全身が大きくバウンドする。両腕が振り解かれ、献慈は杖ともども地面へ転がされていた。
「うっ…………み、澪姉……!?」
二人分の重みを一身に受けた負担がどれほどかは測り知れない。献慈は急いで身を起こし、澪のもとへ駆け寄った。
「あぐぅぁ……ぅいぎぃ……」
「今っ!! 治すからっ!!」
「あり、が……っ……も、もう平気。歩けるから……」
「えっ!? でも……!」
治癒もそこそこに立ち上がろうとする澪が指差すのは、川岸に建つ質素な、舟小屋であろうか。
「(身を隠すのが先決か……)わかった。先にあそこまで行こう」
献慈は澪に自分の肩と杖を貸し、小屋の方まで連れて行く。
「すいません、お邪魔します」
明かりや物音は窺えないが、幸いなことに鍵は掛かっていなかった。
窓から差し込む頼りない光が屋内を照らす。壁には舟を漕ぐのに使われる櫓や櫂が立て掛けられており、奥には釣竿や投網らしき道具も見える。
「ここで……いいかな」
献慈は小上がりになった板の間の縁へ澪を座らせた。すぐさま入り口を閉め、治癒を再開させる。
「俺のために……こんな痛い思いして……」
「信じてたから。献慈なら絶対こうしてくれるって」
「それはわかるけど……いや、責めてるわけじゃなくてさ。感謝……してる」
「……うん」
「それと……尊敬も」
患部から散っていく光の粒が怪我の全快を告げる。
「どう? 大丈夫?」
「うーん……」
「え……え!? ちょ、何して……」
澪はいきなり袴をまくり上げる。股下から覗いたドロワーズのフリルが、昆虫を誘い込む花弁のようにふわりと揺れる。
「何って……汗拭いたりとかしたいし」
「あー、そうい…………う!」
太もも。
目を逸らそうとしても、献慈の本能がそれを拒んでいた。初めてじっくりと目にする、澪の太もも。げに麗しき、太もも。太いももと書いて、太もも。太ももが太いももであるという純然たる真実に、はたして疑問を差し挟む余地などあろうものか。粛々と眼前に示された光景は、むしろそのことを雄弁に物語っていた。健康的という度合いをわずかに超えて鍛えられた筋肉の上を絶妙な加減で覆う柔らかな肉質が板の間の縁や彼女自身の指先に押されて形を変える様は舌なめずりを催させるまでに艶めかしく、滅多に陽の下へ晒されることのない部分であるだけに本来的な白さを保ちつつある柔肌の表層がかすかに汗ばみ煌めく様子と相まって、さながら極上の水菓子を思わせる。さらに付け加えるならば、暗がりのもと妖しく艶めくロングブーツとの質感の親和性は太ももが太もも然たる太ももとしての自己同一性を再獲得せしめ、それに対して色彩的対比にあっては太ももが太もも未満であるところのものとして在りつつも完全なる太ももとして成る潜在的可能性をも指し示しているかのごとく、その堂々たる威容を幾重にも礼讃してやまないのであった。
「ねえ」
「…………」
「……献慈?」
「…………はっ!」
すっかり見とれていた。
「……面白い? こんなの見て」
「あ、えっと、き……」
「き?」
「き……綺麗、だったので……見とれてました。すいません……」
すぼめた背中越しに、クスクスと笑い声が漏れ聞こえてきた。
「ふふっ……久しぶりに褒めてくれたと思ったら、それ? おっかしー」
「久し……? そ……そう、だっけ……」
「そうだよ。ま、どぉ~せ、ご機嫌取りなんでしょうけど」
「ち、違うって! それはただ――」
ただ素直に「綺麗だ」と褒めるのが、いつしか照れくさくなっていた。
「(俺……意識してる……)え、遠慮……してた、だけ」
「そうなの? さっきは……あんな力ずくで止めてくれたのに?」
「それは……ごめん。澪姉よりも俺の気持ちを優先させちゃって」
澪は首を横に振る。
「ううん。献慈が止めてくれなければ、きっと私……ヨハネスにやられてた」
「あの男……いや、『眷属』がお母さんの仇なんだよね?」
澪は神妙な面持ちでうなずいた。
「お母さんがやられる間際、ヨハンだかヨハネだか、そんな名前を口にしてたのを憶えてて……きっとヨハネスのことだったんだ」
(美法さんの知り合い……あるいは烈士時代の仲間……)
献慈はそこまで考えて、一人の人物に思い当たる。
「烈士……〝勇者〟ヨハネス……」
「確信があったわけじゃない。だからこそカミーユたちに確かめておきたかったの。献慈も話してた異国の戦士のことも含めて」
「……そうか。そっちはヨハネスの件とは無関係なんだね?」
澪は揺るぎない眼差しをもって肯定する。
「急ごう、献慈。橋の下からカミーユたちに呼びかければ、上の人たちを巻き込まずに済むと思う」
「……わかったよ」
あの恐ろしい存在と再び対峙することへの躊躇を見透かされていたのだろう。
震える献慈の手を、柔らかな指がそっと包み込んだ。
「約束……しよ」
「…………」
「ふたりとも生き延びられたら、お互いの言うこと何でも一つずつ聞くの」
「…………うん」
「じゃ、指切りね」
それは数秒にも満たぬささやかな儀式であった。
絡み合う小指と小指、脈打つ血管が交差し、ふたつの鼓動が重なる。縒り合わさる糸のように、ふたりをつなぐ縁もより強く、確かなものとなってゆくかに思えた。
互いの汗に貼り付いた肌同士が、名残惜しげに離れゆくのを待たずして――
「…………!」
献慈は戸外から接近する足音を耳にする。




