第58話 闇纏う者
逃げる刺青の男と、それを追う献慈たち。双方の距離は縮まらぬまま街道を外れ、森林地帯へと近づいてゆく。
森へ逃げ込まれてはますます追跡が困難になる。危惧を募らせるも、たちまち男の足並みが鈍りだす。
(観念したのか――いや)
男に次いで澪も足取りを緩めていく。最後に献慈が追いつこうとする頃には状況が飲み込めつつあった。
(何か……いる――!)
まばらな木立の向こうから、濃密な闇を纏った気配が迫り来る。場の景色に溶け込むことを拒む〝それ〟は、周囲に溢れる生命とはあまりにもかけ離れた異質な存在であった。
「だはっ……旦那ぁ……」
刺青の男が震える声を絞り出す。
闇纏う者――無造作に流された白髪の奥から、真っ赤な瞳が対峙する一人ひとりを射すくめるように動いた。
「ウァ――ッ!」
寝床で悪夢から跳び起きるにも似た、強烈で抗い難い戦慄。思わず声を上げるも、それを咎める者はこの場にはいない。
「生き残りは……お前だけか……?」
血の気のない唇が、刺青の男に向けて掠れた声音を発していた。
意思疎通が可能だと認識した献慈の脳が、相手を観察できるだけの余裕を取り戻す。
寄せ集めとおぼしき衣服が、戦士然とした男の体を申し訳程度に覆っている。土気色をした肌のあちこちに走る黒いひび割れは、この世のものならざる出自を明確に主張していた。
最後に目を引いたのは、肩口から伸びた武骨な剣の柄であった。
「……んな……所、で……」
澪が何事かをつぶやいていたが、男たちは意に介さず。
「わ、わからねぇ……」
「……そうか。ほかに言うことはあるか?」
「ほッ……オ、オ、オレはあぁ、ア、アンタのこと喋っちゃいねえっ!! に、逃げたのは謝るけどよォ、し、潮時だったんだよぉ! お互いにぃィッ、なあぁっ!?」
「……お前の言い分にも一理あ――」
瞬きにも満たぬ刹那の出来事――刺青の男が腰の短刀を抜き放ち、急所狙いの刺突を繰り出す。
「――うぶぅゥッ!」
「見込んだだけの業前はあったようだな」
二指につままれた短刀が玩具のように投げ捨てられる。もう一方の手で、男が首を軽々と掴み上げられていた。
「ごっ、ごべ……いだだっ分、ガネ、ぢゃんどがえじまずがらぁーっ!」
「……お前たちが思いのほか働き者だったのは誤算というべきか。こうも早く足がつくとは」
彼の者は眦一つ動かさず、その手を下す。
「ぼぉえぇぇぇ……っ!!」
首筋にめりめりと五指が食い込んでいく。腕に走る黒い亀裂が仄かに赤黒く、鼓動のような明滅を繰り返している。
(駄目だ……これ以上こいつに関わったら……!)
自分たちの手に余る怪物――生存本能に根差した直感が、しきりに警告を発していた。
献慈は喉奥から必死に声を絞り出す。
「逃げ……ぇ……よう――!!」
澪の袖を引き寄せた手は、にべもなく振り払われる。
「ンァウ……ッ!!」
「……っ!?」
「……許さない……ヨハネエェ――ス!!」
喉も裂けんばかりの叫びが、血を啜る捕食者へと浴びせかけられた直後だった。
それまでこちらを気にも留めずにいた深紅の双眸が、確かな意思を持って澪へ視線を投げかける。
(『ヨハネス』――?)
献慈は直感的に悟った。澪と彼の者とを結ぶ、浅からぬ因縁を。
そして同時に――このまま行かせてしまっては二度と会えなくなる――澪の足が歩一歩と仇敵に近づくにつれ、献慈の予感は確信に変わってゆく。
「行っちゃ……ダメだ!!」
なりふり構ってなどいられなかった。献慈は杖を打ち捨て、体ごと澪の腰へしがみつく。
「どうして!? あいつはぁ! お母さんの――」
「知ってる!! でも……今は、ダメだ!!」
「いッ……イヤだぁ!! 離してぇッ!!」
「お願いだ……俺と一緒にいてくれ!! 澪姉ぇ――っ!!」
献慈を拒み、荒々しく揺すられていた腰の動きが、ぴたりと止んだ。
「…………澪姉?」
「献慈…………」
「……あ。ごめん!」
慌てて拘束を解くや、ドサリという音が耳に入る。
はたして彼の者――ヨハネスの足下には、血を余さず吸い尽された刺青の男が微動だにせず横たわっていた。
「回りくどい策を弄した挙げ句……畢竟喰らう羽目になるか」
にわかに煙りだす小雨の下、ヨハネスは虚ろな目を宙に揺蕩わせ、何者へともなく問いかける。
「オレは……どうすればいい……? 教えてくれ、ミ――」
「献慈、拾って! 走るよ!」
澪に促され、献慈は地面から杖をすくい上げる。駆け出したふたりはお互いを見失わぬよう気にかけながら、今来た道筋を逆方向へひた走った。
★ヨハネス イメージ画像
https://kakuyomu.jp/users/mano_uwowo/news/16817330666564546689




