第13話 悪だくみ
どれほどの時間が経ったのか。
午後からの仕事を放棄し、献慈は薄暗い自室に閉じこもりっきりだった。
柏木の嫌味などどうということはない。
(澪姉……何でだよ……!)
新しい居場所を見つけたかに思えたのも、錯覚にすぎなかったのだろうか。自分を優しく受け入れてくれたあの態度、あの笑顔までも。
一体何度、堂々巡りを繰り返しただろうか。
「……献慈、いるんでしょ?」
ふすま越しの優しい声。
今すぐにでも立ち上がって出迎えたい。
――澪さんに対してはやけに素直なのだな、君は。
――捨て犬と主人の関係ですな。これはまた微笑ましい。
「……入るね」
畳の上を伸びる薄明かりに巫女姿の影が差す。持って来た包みがそっと壁に立てかけられた。
「大事なもの、置いて行っちゃダメじゃない」
澪はおもむろに膝を進め「ごめんなさい」と一言、頭を下げる。
「謝られても……困るよ」
「本当ごめん。柏木さん、ぶん殴って来ちゃった」
「そう……。……………………。……はい?」
「献慈のこと馬鹿にされて、ついカッとなって……手が出ちゃったといいますか……笑ってやり過ごそうとしたんですけど……ダメでした」
「…………」
「うん……そりゃ言葉も出ないよね。あの人も殴られた瞬間、まるで空が落ちてきたんじゃないかってぐらいびっくりしてたし」
「……ぶふっ」
思わず吹き出してしまった。それを見た澪も口元を押さえ笑い返す。
「フフッ……でもこれでまた献慈が意地悪されたりしたら、絶対に私のせいだね」
「ううん。澪姉は悪くないよ。悪いのは……俺だから。今度からは何があっても俺自身でどうにかしてみせるよ」
「なぁに~? 急に男らしいこと言っちゃってさ」
おどけながら、献慈の鎖骨の辺りをつついてくる澪の笑顔が滲んで見えた。
「あっ、あのさ、俺……」
献慈は、抱え続けていたみじめな気持ちを吐露する。
「そんな大した人間じゃないんだ。引っ込み思案で、ろくに友だちもいなくて、勉強も運動もできない落第生で……今まで虚勢を張ってたけど、本当はいろいろ引け目を感じてて……そんな部分を、あいつに見透かされてたんだと思う」
「そんなに自分を卑下しないで。同じだよ、私も……強がってるだけ。ある意味、落第生なのは一緒だから」
「そんな……」
「ううん、実際そうなの。まだ話したことなかったよね。四年前……私が御子封じに失敗した話」
御子封じはワツリ村付近に伝わる風習だ。
はるか昔、河川の氾濫を鎮めるための人身御供として選ばれた「御子」は、時代が下るにつれ形を変え、やがて豊穣の守護者として敬われるようになる。
水神ミグシヒメの名代の地位に封ずる儀式、それこそが現代における御子封じである。
(――って、本には書いてあったけど……)
「はっきり言って時代遅れの風習だし、長い間忘れられてたみたい。でも私が生まれた十九年前がちょうどうるう年で――」
うるう年の八月十五日は現世と幽世が最も近接し重なるという言い伝えがある。その日に生を受けた者こそ御子たる資格を持つ、とも。
「べつに御子としての自覚とか、そういうのがあるわけじゃなかった。でもお父さんが宮司に就いて、娘の私も御子になれば何となく格好がつくんじゃないかって……十五歳の節目に御子封じの旅に出たの」
御子封じの旅における条件は三つ。
一つ、首都イムガ・ラサの神宮で大宮司の祝福を受けること。
二つ、神宮までの道のりを徒歩で向かうこと。
そして最後――
「護衛として連れて行ける守部は一人だけ――神官以外の、御子を守る力を持った、最も信頼篤き者――私にとってそれはお母さんだった」
「それじゃ、前に旅をしてたって話は、その時の……」
「うん……でも私たちは神宮までたどり着けなかった。旅の途中で、あいつが……お母さんの仇が、襲ってきて……」
震え出す声に、献慈は感じ取っていた。
澪の心の奥底に潜んだ、黒く燃え盛る憎悪の炎。
「……そっか。澪姉は今までずっと我慢してきたんだね」
「…………」
「……ごめん。澪姉は同じだなんて言ってたけど、やっぱ俺なんかとは抱えてるものの重さが違いすぎて……」
「そうじゃない! ……そうじゃ……ないの」
両腕で顔を覆い、澪はしばらくの間しゃがみ込んでいたが、突如「よし!」と声を発して跳ねるように立ち上がる。
「決めた。もう一度御子封じに挑戦する! それが……私なりのけじめだから」
「……それなら俺も」
一度は言葉を飲み込みかけるも、献慈は意を決して宣言する。
「俺も、澪姉の守部として名乗り出るよ」
「献慈……いいの?」
「今はまだ力不足だけど、いずれは澪姉のこと支えられるようになってみせるから。その時は改めて、ちゃんと……面と向かって申し込ませてもらうよ」
「……うん。ぜったい忘れないでね?」
「忘れないよ。出発の日までには、必ず」とは言ったものの、「……まぁ、さすがに明日すぐとかは困るけど」
冷静に考え、日和った。澪がくすりと笑う。
「わかってるってば。出発の日ね……前と同じ、誕生日の翌日にしようと思うの」
「というと、二ヵ月ぐらい先か」
「うん。けど、一つだけ……しばらくこのことは内緒にしておいて。とくにお父さんだけには」
あえて問いただしはしなかった。理由など端からどうでもよかったのかもしれない。
ふたりだけの秘密の共有。その甘美な響きが、献慈の思考を押し留めたのだ。
「……わかった。誰にも言わないよ」
「約束だからね。それにしても……何だかちょっとワクワクするね」
ふたりは顔を見合わせ、頬を緩ませた。まるで幼子たちが大人に内緒で悪だくみでもしているかのように。
「あーあ、献慈のこと元気づけてあげよって思ったのに……結局また自分のことばっか話しちゃった。献慈は本当に聞き上手だよね」
「いやぁ、そんなことは――」
村の広場から時報の鐘が聞こえてきた。
午後四時。休憩時間などとうに終わっている。
「やばっ! 社務所の掃除当番、忘れてた!」
「一緒行こ? ふたりならすぐに終わるよ」
ふたりは我先にと、転がるように家を飛び出していく。
喉奥から漏れ出る笑いを、弾む息の中へ紛れさせ、献慈は梅雨空の下をひた走った。
(ありがとう、澪姉――)
優しい共犯者の横顔を目の端に留めながら。




