第120話 ふたりで歩む未来
「…………」
いつからこの場所に座り込んでいたのだろう。
献慈は周囲を見回し、ここがゆめみかんの一室であることを認識する。
(……十一時……三十分)
柱時計の針は、献慈がシルフィードと一緒に自室を出た五分後を指していた。
誰もいない部屋。
(カミーユたちは……)
立ち上がるとすぐ、卓子に置かれた二つ折りの紙が目に入る。
献慈はその紙を手に取って広げ見る。
またね。
ミオ姉とお幸せに。
カミーユ・シャルパンティエ
(何だよ……最後までこんなイタズラ…………)
何か、かすかな違和感を覚えつつも、献慈は部屋の外から聞こえてきた小さな足音に意識を持っていかれる。
半開きの引き戸の陰から、ちんまりとした鬼娘が顔を覗かせていた。
「料理長……?」
「献慈ちゃん、ここにおったんかいな」
若蘭は喜色を浮かべ、小走りに駆け寄って来る。
「祝勝会、そろそろ始まんで」
「えっ? 時間……」
「何や。ここのもズレとんかいな」
若蘭は懐中時計を手に、柱時計のぜんまいと針とを巻き直した。
「すいません。すぐ行きます」
手紙を仕舞い部屋を出ようとした献慈の前に、若蘭はくるりと回り込む。
「ええけどや……一旦そこ座り」
「はい?」
言われるがまま椅子に腰を下ろすと、若蘭はハンケチで献慈の顔を拭った。
「よっしゃ。男前や」
「ど、どうも……(顔に何か付いてたかな?)」
「ほな行こか。澪ちゃん待ちくたびれとんで」
廊下へ出て、会場まで向かう道すがら、おしゃべりに花が咲く。
「それは急がないと。ご馳走前にしておあずけなんてかわいそうだ」
「今日はワシも本領発揮や。ちょうど食材もぎょうさんあるよってな」
「両児さん、いっぱい届けてくれましたもんね」
会場となる食堂には――その両児をはじめ、柏木やシグヴァルド、ジオゴや絵馬も――献慈たちが今まで世話になった人々が集まってくれているはずだ。
「ほんまアイツは知らせも寄越さんと……けど、おかげで新しい料理挑戦できるんは感謝やな。そや、献慈ちゃん言うてた〝たらこすぱげっち〟作ってみてんで」
「へぇ、さっそく頂いてみます」
「献慈ちゃんのおかげでレパートリー増えて助かるわ」
「こちらこそ料理のご指導、感謝してます」
「ええてええて。こないだ教えたったアレ、今度澪ちゃんに食べさしたり」
やって来たのは母屋へ続く渡り廊下の手前。
「……あっ」
朱鷺色の袷を着た澪がこちらを見ていた。
「私に食べさせてくれるって? 何の話?」
「内緒や。ほな、ワシは先行って準備しとるさかい」
若蘭は澪とすれ違いざま、互いの手を打ち合わせて去って行った。
自然、会場へはふたりで向かう流れとなる。
申し合わせたわけでもなく、まるで初めからそう決められていたかのように、献慈の横には澪が寄り添い歩く。
「カミーユたち、もう帰っちゃったね」
「うん。最後だと思って部屋まで行ったんだけど、入れ違いになったみたいだ」
「そっか、残念。でも……また会えるよね」
庭先にふと目を向ける。澄み渡る青空とのコントラストを描く紅葉の葉が、湖岸から吹く秋風にそよめいていた。
「俺たちが烈士を続けていれば……そうだね、いつかは」
「西の大陸、央土のずっと向こうかぁ。遠いんだろうなぁ」
「いっそのこと、こっちから押しかけてみる?」
「うーん……」澪は少し考え込んで、「まだそういう時機じゃないと思う」
いつもそうするように、斜め上から献慈に微笑みかける。
「なんてね。私らしくないって思った?」
「いや、そんなことは……」
「私ね、今回の戦いでわかったんだ。剣の腕も、心構えも、そのほかにもまだまだ足りてないことが自分にはいっぱいあるんだって」
大人びた横顔にどきりとする。どうしてか照れくさくなって、つい子どもっぽい言い草が口をつく。
「未熟さに気づけるぐらい進歩した……なんて、俺が言うのは偉そうかな」
「ううん、そのとおりだと思う。そう気づかせてくれたのは――」
澪が手をつないでくる。
握り返す手のひらは温かく、柔らかく。
「献慈、ありがとう。私をここまで連れて来てくれて」
「これからもよろしく、澪姉」
絡めた指から伝わる小さな脈動は、ふたりで歩む未来への時を刻み出していた。




