第117話 私の太刀筋(みち)
灯滅せんとして光を増す。
床板を踏み割る震脚とともに、全身全霊を込めて打ち下ろした献慈最後の一撃は、ヴェルーリの反撃ごとその身を呑み込んだ。
間違いなく、届いてはいた。
「グ、フッ……ァハ、ハ…………どうやら……時間切れのようだな」
重々しく身を起こすヴェルーリの言葉にすべてを悟る。攻撃が当たったまさにその瞬間、献慈は力を使い果たしていたのだ。
一方で、ヴェルーリの励起状態にも衰えの気配が窺えた。
「さて……残るは死にぞこないの虫ケラが五匹か。余力だけで事足りるわ」
さりとて、敵は仮にも魔王を名乗る者。その言葉が虚勢であるはずがない。
だが――。
「足りないな」
「ほざけ。充分だと――」
「一人足りないと言っている」
床のひび割れから噴き出す緑風が献慈の身に絡みついた。六人目の仲間――シルフィードが敵の間合いから速やかに退避させる。
「……しぶとい奴め。小僧といい――うぬといい」
ヴェルーリは己に向けられた霊刀の切っ先を、心底忌々しげに見やった。
立ちはだかるは、平正眼に置かれた澪標天玲の主。
「安心なさい。時間は取らせないから」
力強く、落ち着き払った声音は、彼女がつい今し方まで死に瀕していた事実を忘れさせる。
「目覚めて早々、死ぬ覚悟を固めたか。殊勝なことよ」
皮肉で返されようとも、澪の自信に満ちた面差しは揺るがない。
勇猛果敢な兵は去り、代わりに泰然自若たる将の姿がそこにはあった。
「あいにく誰も死なせるつもりはないから――ライナー! あなたの残りの力、全部私に頂戴!」
「心得ました。ミオさん、貴方に……託します!」
常に戦局を見張っていた男の判断に、異論を挟む者はいない。呪楽による全能力の強化が澪一人に集中した。
「フン……今さら下駄を履かせたところで何になる? うぬが刀法はこの身体が見極めておるのだぞ?」
ヴェルーリはおもむろに秘剣の構えへと入る。
「あなたは勘違いしてる」
先制を仕掛けたのは澪だった。予備動作無しの突き技、〈貫刺〉。
「愚かな。娥影――……っ!?」
後の先で迎え撃つヴェルーリの手前で、澪の太刀筋は横薙ぎの〈一風〉へと変化する。
小手先のフェイントではない。体捌きの中に潜ませていた内勁が、刀を持った体ごと、二つの技をつなぎ合わせていた。
太刀先が剣筋をすり抜ける――その予兆を読み取ったであろうヴェルーリは、慌てて剣を引き後退する。
はたして直撃は免れていた。胸の表面を真一文字に走る傷と引き換えに。
「裏をかかれたぞ。まさかの力業とは」
この最終局面を、献慈も離れた場所から見守っていた。
消耗しきって動かぬ体をシルフィードに支えられながら。
「あれは澪様の新たな剣技なのでしょうか?」
「いや、技そのものに違いはないはずだ。変わったとすれば……手の内」
着目したのは、澪の手元であった。常であれば柄頭に置かれているはずの左手が、鍔元を持つ右手側へ寄せて握られている。
「わたくしは剣術には明るくございませんゆえ、ただただ澪様を信じお任せ申し上げるばかりでございます」
「ああ、俺も信じてる。ただ……」
「いかがされました?」
「シルフィード、一つ頼みがあるんだ」
澪は刀を八相に付け、敵を鋭く睨み据えた。
「私は今まで刀に振り回されてた。でも本来、刀って振り回すものでしょう?」
「戯れ言を……〈娥影に捧ぐる挽歌〉!!」
今度はヴェルーリが先手を打つ。
「ヨハネスが知るのは――」
踊るような足運びから閃かす〈颱翻〉は、対の先でヴェルーリの肩を削ぎ落とす。
「ぐぬぅ……っ!?」
「あくまで勘解由小路美法の太刀筋。私には――」
「……〈葬送華環〉!!」
立ち上がりざま、ヴェルーリの反撃。
「私の太刀筋がある!」
澪は真上からの〈兜会〉で対抗する。
上下からの鍔迫り合い――互いの位置関係は言うに及ばず、満ち満ちてゆく闘志と衰えゆく暴威とのぶつかり合いでもあった。
「ぬおおぉァ……っ!! 所詮は『なりそこない』の器かァ……ッ!!」
「観念……しなさい……!!」
押さえつけた刃が、ジリジリと降下してゆく。
澪の執念が押し勝ったかに思えた、その時。
「――っ!」
底なしの悪意が、文字どおり牙を剥いて待ち構えていた。澪はヴェルーリに噛みつかれる寸前をもって跳びすさる。
「逃さぬ……!」
追いすがろうとする吸精の魔手が、澪の首元へ触れようとする。
俄然、玄室に響き渡る乾いた音。
ヴェルーリが動きを止めた。
「な……に、が……」くすんだ金色の瞳がゆっくりと、音の鳴る方を向く。「き、さ……ま……かァッ!!」
大曽根臣幸。
「七星護法陣――収束!」
柏手を打つに従い、展開された護法陣が標的を中心に範囲を狭めてゆく。急激に密度を増した霊力がヴェルーリを抑圧、束縛するに至っていた。
とどめは娘へと託される。
「あなたが奪った二人の〝死〟――返してもらう」
上段から脳天をめがけ、一刀両断。
「ヌグゥオオォォ……ッ!!」
最後の悪あがきだった。澪標の刃は、力ずくに躱そうとしたヴェルーリの肩口から入り、胴を縦に斬り裂いて――止まった。
否。左右から盛り上がる肉質に挟み込まれ〝止められた〟。
「フッ、ハハッ……道連れ、に……してくれるッ!!」
止む無く刀を手放した澪の顔に、ドナーシュタールの剣身が影を落とす。
――シルフィード、一つ頼みがあるんだ。
「俺が祭印を見せたら、奴の頭上に俺を飛ばしてくれ」
「承知いたしました」
「澪姉――!!」
献慈の投げ落とした杖が、澪の手の中へ狂いなく収まった。
そんな棒切れで防げるものか――ほくそ笑むヴェルーリの上半身が、胴体を斜めに滑り落ちていく。
「奥義――〈新月〉」
音もなく、澪は仕込み刀を杖の中へ納める。
「……うぬらの顔……憶えて、おくぞ……」
恨み言とともに、ヴェルーリの身を覆っていた陽炎も虚空へと散っていった。
*
くすんだ髪色。光が失われ、濁った瞳。
横たわる胸像は、かつて勇者と呼ばれた男の成れの果てであった。
「そこに…………いるのか……? ミノリ……」
呼びかける声に皆、歩み寄る足を止めた。
女は黙って男を見下ろしていた。
「悪い夢、を……見ていた…………ようだ」
剣士として尊厳ある死を、
「……憧れていた……お前、の……ようには、なれなかった」
あるいは内に眠る怪物を我が身もろとも滅してくれることを、
「自由とは……程遠い、責任…………勇者、の……」
願う権利がその男にあったとして、
「俺、は……ただ、お前を……愛する、一人の男……と、して」
それでもなお身勝手が過ぎると、恨む気持ちもありはしたが、
「いられれば……それで、よかっ――」
「女々しいぞ、ヨハネス」
すでに勝負はついている。
「私はとうに先へ進んでいる。お前はまだそんな場所で足踏みか?」
「…………道理で……敵わない、はずだ……」
「ああ。お前の負けだ。今日はもう…………休め」
「……そうさせて……もらう…………――――」
敗者には安らぎを。
それが武に生きる者の作法だ。




