第114話 娥影に捧ぐる挽歌
その声色は、ヨハネスであってヨハネスのものではなく。
「残念だったな。二度もしくじるとは」
斬り裂かれたヨハネスの上体が、瞬く間に癒合していく。
死に物狂いで掴んだ優位を覆す、強大な何かが出現しようとしていた。
「……いや、三度目か。勇者ヨハネス・ローゼンバッハ」
「な…………ん、で……」
澪の背中を突き破り、霊剣の切っ先が顔を出す。
「…………澪姉!!」
駆け出そうとした足がすくむのを、献慈はどうすることもできなかった。
ゆっくりと剣を引き抜く、ヨハネスの容貌が一変していた。
「挨拶代わりだ。〝まだ〟殺しはせぬ」
くすんだ白髪はおぼろげな光を発し銀色に、赤く淀んだ瞳は黄金色に爛々と輝いている。
襤褸切れ同然となった上衣を、煩わしげにかなぐり捨てる。妖しく艶めいた肌は蜃気楼のように揺蕩い、この世ならざる力の出処を暗示していた。
「呪楽が……効かなくなった……?」
後ずさるライナーを、カミーユが問い詰める。
「しっかりしろォ! それよりアイツ、髪の色とか変わってんだけど!? それとカンケーあんだろ!? 多分!」
「あれは……励起状態……」
「レイキ? 何だそれは!?」
「純種のみが取りうる一種の暴走形態です。核を持たない『眷属』、ましてや『なりそこない』であるヨハネスに使えるはずがない……!」
「使えてんじゃねーかよおおォ!」
動揺を隠せぬライナーたちを無視して事は進んでゆく。
「久しいな、娘よ」
「……ぅぐっ……何を、言っ……て……」
澪は即座に間合いを取る。早くも傷は塞がりかけていた。護法陣の効果は消えていない。にもかかわらず、敵は平然としている。
「憶えておらぬのも無理はない。うぬは早々に気を失ってしまったからな。あの日ローゼンバッハが女に討たれ、我輩がこの身体を我がものとした直後に」
「お母……さんが…………?」
「思えば悪手であった。我輩が女を手に掛けるや、あやつはすぐに己を取り戻してしまいおった。感情の力とはそれほどまでに強きもの――今この時まで、我輩の支配を抑え込み続けるほどに」
――お母さんがやられる間際、ヨハンだかヨハネだか、そんな名前を口にしてたのを憶えてて……。
(ひょっとして、美法さんが言おうとしたのは……)
――ヨハネス……「じゃない」――
疑念は確信へと変わる。
ライナーの推察もそれを裏づけていた。
「可能性があるとすればただ一つ――ヨハネスは単なる『眷属』ではなく、ヴェルーリの次なる器として選ばれたのだとしか考えられません」
「魔王の……器……!?」
カミーユたちの視線がおずおずとヨハネス――の身体を繰る者、ヴェルーリへと向けられる。
「いやいや、そんなの聞いてねーし!」
「僕だって認めたくはありません。完全に……想定外です」
ヴェルーリはライナーたちを一瞥し、鼻を鳴らす。
「そう嘆くことはない。我輩とて此度の事態は案の外。ローゼンバッハめ、遠くへ逃れれば我が支配から抜け出せると踏んだのであろうが……浅はかな男よ」
(遠くへ……本当にそれだけが理由か……?)
回らぬ頭で献慈は思いを巡らせる。少し前――ちょうど澪が刺された直後からだ。心身が思うように働かない。
不意に、視界の隅を光が走り抜けた。大曽根が射かけた霊気の矢が、ヴェルーリの掌に弾かれ消失する。
「貴様こそが……美法の仇か……!」
「『貴様』だと……?」
ヴェルーリが目を見開くや否や、大曽根の肩が抉れ、血が噴き出す。
「ぐぉあ……っ!?」
「下郎が。分をわきまえよ」
剣を持つ角度が変わっている。恐るべき迅さをもって斬撃を飛ばしたのだ。
「お父さん!!」
「よそ見をっ……するな! 自分たちの身を守れ!」
大曽根は娘たちに忠告するも、猶予は残されてはいない。
ドナーシュタールが再び唸りを上げようとしていた。
「ローゼンバッハは甘すぎる」
迫り来る剣尖を、澪が迎え撃とうとしたその時。
「〈颱翻〉――」
「〈娥影に捧ぐる挽歌〉」
薄闇の中に紫電の円弧が閃く。新月流の太刀筋を先回りし、裏返しになぞる、まさしく新月封じとでもいうべき剣技であった。
「……ぁ……っ……!?」
「斯様な秘剣技を出し惜しむとは」
返り血を浴びながらヴェルーリは、崩れ落ちる澪を冷たく見下ろした。
「ぬ……ぅおおおぉお――――っ!!」
喉も裂けんばかりに、献慈は号叫する。血溜まりに沈みゆく最愛の人へ、あらん限り手を伸ばす。
「(早く……早く治療を……!)ペインキ……る――ぅグッ!?」
体内を駆け巡る熱い脈動に、献慈は耐えきれず膝をついた。
そして思い至る。無意識に押さえた胸の傷痕こそ、この苦しみの根源であったのだと。
(こんな……ときに…………)
焦燥にあえぐ献慈を取り残し、周囲のあらゆる事象が冷酷に通り過ぎようとしていた。
「フハハ……吸い尽くしてくれよう、死の恐怖もろともな!」
冷笑するヴェルーリの声が、姿が、さざ波のように献慈の意識をかき消していった。




