第107話 もう何も怖くない
「料理長から聞いたよ。最近ご飯食べる量、少ないんじゃない? って」
「…………」
「もしかして澪姉、あんまり寝てない……?」
「……あいつとの決戦が近づくほど、怖くてどうしようもない」
「そっか。でも仕方ないよ。それだけ恐ろしい相手――」
「違う! 怖いのは……また献慈のこと失ったら、どうしようって……」
*
いつか澪がそうしてくれたように、献慈は彼女の手を握ったまま、添い寝をした。
そして今。
見違えるように血色の良くなった澪が、隣から献慈の顔を覗き込んでいる。
「何考えてるの?」
「ん……三日前のこと」
気恥ずかしそうに澪は顔を背けたが、すぐに笑顔で向き直る。
「私はもう大丈夫。献慈のことも、自分のことも信じてるから」
「それはよかった」
「献慈が一緒にいてくれるから、もう何も怖くないんだ」
旧都グ・フォザラの北方、旧都末古墳群。
「決戦の場にこんな辛気臭いとこ選びやがって。趣味の悪い野郎だなー」
現在、墳墓の大半は消失している。中世以降移り住んで来た人々の手で墳丘が切り崩され、湿地を埋め立てるのに使われたためだ。
その住民たちも今は去り、往時を偲ばせる名残りは崩壊した民家や古井戸の跡だけだ。
「身を隠すのに都合が良かっただけでしょう」
「わかってるってば、ライナー。灯台もと暗しってやつでしょ」
残された数少ない墳墓も盗掘し尽くされ、学術的な価値も薄れて久しい。訪れる者のいない土地には公の目も行き届かなくなるものだ。
「ええ。〝邪教〟の妨害工作がなければもっと早く目星がついたはず……おや、どうしました? カミーユ」
「いや、あの屋根ん所に一匹――うあっ! 来たぁ!」
身構える間もなく、魔物の影が飛来する。
「二人とも、伏せたまえ!」
後方から男性の声が飛んだ。ライナーが素早くカミーユに覆い被さる。
「……余計なおせっかいでしたか?」
「一応礼は言っとく」
地面に転がるオンモラキの骸から、矢を引き抜く射手。
「うむ。どうやら腕は落ちていないようだ」
大曽根臣幸であった。片肌を脱いだ屈強な上半身に和弓を携えた雄々しい姿に、カミーユが勢いづく。
「おー。オジサン結構いいカラダしてんじゃ~ん」
「そうかい? 神事やらで弓を引く機会が多いからかなぁ。ハッハッハ……」
普段より半音高めの誘い笑いが誇らしげに聞こえる。
「お父さぁん、そんな格好してると風邪引くよ~? もう歳なんだからぁ」
秋風よりも冷たい声音が父親に苦言を呈した。
澪は袴姿にショールを羽織ったいでたち、腰の業物は澪標天玲だ。
「まだまだ娘に心配される歳ではないよ。それより澪こそ、すっかり元気が戻ったようだね」
「うん……全部献慈のおかげ」
澪はそう言って、献慈のトンビコートに指先を這わせた。
後ろで舌打ちが聞こえる。
「チッ……所構わずノロケやがって」
抜け目なくオンモラキの体素材を回収するカミーユに、ライナーが茶々を入れる。
「おやおや。嫉妬は見苦しいですよ」
「嫉妬なわけあるかぁ! ……さぁて、小遣い稼ぎも終わったところで――出発しようぜ、皆の衆!」
素材袋を掲げ、カミーユは足取りも軽やかに先陣を切ろうとする。
「ちょっとぉ! りーだーは私なんだからね!」
負けじと駆け出した澪がカミーユとわちゃわちゃじゃれ合う。献慈たちには最早おなじみの光景だが、大曽根にとってはそうではない。
「あの子たちは普段からあんな調子なのかね?」
「はい……何かすいません」
「いや結構結構。できれば戦いの後もこうあってほしいものだよ」
「ええ、本当に」
ライナーもまた言葉少なに微笑みを浮かべていた。




