リーゼロッテ
口調がぞくりとするほど冷淡だった。
可愛い巨乳女子に馬乗りされるなんて、普段ならラッキーなのだろう。しかし今、そんな不埒なことを考える余裕などない。
「お嬢さまの信頼を得て、まんまと屋敷に潜り込んだな。言え、協会の連中か、それとも紅蘭民のスパイか」
「し……しらな……」
「しらを切るなら、こっちにも考えがある」
喉に食い込んだ指がはずれ、かわりに剣先があてられる。冗談だと思いたいが、冗談ではない。
クラリスの目を見れば分かる。こいつは間違いなくヤバイ。
(何とか、しないと)
彼女を押しのけようにも、腹と両腕をがっしりと押さえ込まれている。こんなにきゃしゃに見えるのに、動ける隙がまるでない。明らかに体術に精通した者の技であった。
「正直に言わなければ、貴様の皮をはいでやる。さっさと白状した方が身のためだ」
喉元の切っ先が、徐々に食い込んでいく。いつ薄い皮膚が破れてもおかしくない。トーマはなんと答えていいのか分からなくなった。
いや、本当は正直に言うべきなのだ。
自分は別の世界からきた、ごくごく普通の高校生で、協会の手先でも、コランダムとやらのスパイでもないのだ――と。
しかしそんなことを言ったら、ふざけるなと一喝され、相手をますます怒らせるのは明白だった。
だけど嘘を言うことも出来ない。必然的に黙るよりほかなく、クラリスを見返すことしか出来なかった。
「意外と強情だな。だがそれなら、こっちも容赦しな――」
「そこまでよ、クラリス」
どこかから声がした――と同時に、トーマを押さえていた力が緩む。頭を起こすと、クラリスと同じメイド姿の女性が、腕を組んで立っていた。
「リーゼ」
「もしトーマ君がスパイでも手先でもなかったらどうするの? お嬢さまの持ち物に、無断で傷をつけるつもり?」
「この男を信用するの」
「トーマ君を買ったのはお嬢さまよ。彼を信じたお嬢さまの判断を、今は信じるだけ」
「何かあってからでは遅い。こないだのような」
「だからこそ、私怨で物事を歪めてはならないわ。特に今は。クラリス、私の言いたいこと、分かるわね」
クラリスは無言でナイフを引っ込め、ため息をついて立ち上がる。続けてトーマも起き上がろうとしたが上手くいかず、リーゼと呼ばれた女性に助け起こされた。
「いつか化けの皮をひん剥いてやる」
吐き捨てるように告げて、クラリスは扉から出ていった。どうやら間一髪で助かったらしい。
「災難だったわね」
「ありがとう……ございます」
並んでみるとトーマより背が高い。金色の髪が印象的な、なかなかの美人である。
「いてて……」
みぞおちの当たりがじくじくと痛んで腹を押えた。
「あら、手を怪我してるじゃない」
確かに、手の甲に深い裂傷があり、そこから血がにじんでいる。
「たぶん、釘に引っ掛けたのだと思うわ。痛かったでしょ」
言われて始めて痛みを感じた。腹のことで頭がいっぱいになり、そこまで気が回らなかったらしい。
「待って、いまハンカチを当てるから」
「汚れますよ」
「そんなの気にしなくていいから。ここ押さえていて」
取り出したハンカチは可愛らしい花の刺繍が飾られていて、申し訳なさでいっぱいになる。
しかし、次の瞬間にはそんな気分も吹き飛んでしまった。
ハンカチにかざしたリーゼの手から、温かな光が発せられる。光はほんのり熱を持ち、布地を通してトーマの傷へと届いた。
痛みが急速に和らぎ、消える。ハンカチを退けてみると、あれほど深かった傷はすっかり癒えていた。
「こ、こ、これって……」
あまりの衝撃にうまく言葉が出てこない。ゲームや漫画でおなじみの回復魔法が、まさか現実のものとして目の前にある。
「す、す、すごいっ! 本当に魔法なんだ……」
手の甲を穴が空くほど眺め、続いてリーゼを見た。今のトーマにとって、彼女はまさに癒しの聖女である。
しかしそのリーゼといえば、顔を真っ赤にし、必死で笑いをこらえていた。
「ああ、ごめんなさい。今のあなたの反応、クラリスに見せたかったなって。今のは《サルバス》。基本的な治癒魔法のひとつね」
「その……ここのお屋敷の人は、みんなこういう魔法が使えるんですか?」
「そうだったら良かったのだけど、残念ながら違うわ」
リーゼは片方の手袋を外し、手のひらをトーマの方へ向けた。
そこにはあの、病院で出会った検査技師と同じ透明の球が、皮膚に埋め込まれている。球が金属の枠にはめられているのも同じで、一見、手のひらに大きめのブローチを載せているみたいだ。
病院では分からなかったが、金属の縁には、文字らしきものがびっしりと隙間なく刻まれている。
「これが治癒魔法の《魔導回路》。これを筋肉に埋めて神経と繋げるの。魔法の修行をしなくてもこうすれば誰でも魔法が使えるようになる。とても画期的な発明ね」
少しうつむき、ホワイトブリムをずらしてみせる。陰になって見えにくいが、そこにもひとつ《魔導回路》が。
「これも、治癒魔法のためのシジルなんですか?」
「ううん、これはね」
言いかけて思い出した表情になる。
「いっけない、あなたをフラウ・マイヤーのところに連れていかなくちゃ。続きはこんど話してあげる。
フラウ・マイヤーはこのお屋敷の家政婦長で、とても優しい人よ。仕事で分からないことがあれば、私かフラウ・マイヤーに訊けばいいわ」
ホワイトブリムを戻しながらリーゼは言い、右手を差し出した。
「自己紹介がまだだったわね。私はリーゼロッテ・ハイス、みんなはリーゼって呼んでるわ」
「トーマです」
差し出された手を握る。触れた魔導回路がひんやりと冷たく、トーマを落ち着かない気持ちにさせた。
「よろしくね、トーマくん」
リーゼは屈託なく笑うと、手袋をはめ直した。
「そうだ。さっきの質問だけど。このお屋敷で魔法が使えるのは私と運転手のカートライトの二人だけ。
私も彼も、元々軍にいたの。いろいろあって今はここのお世話になっているんだけど。いつかカートに話を聞くといいわ」
* * *
連れて行かれたのは、使用人たちの作業部屋だった。暇な使用人はたいていここに来て、繕い物をしたり、靴を磨いたりする。
フラウ・マイヤーは六十代くらいの、とても上品で穏やかな感じのする女性だった。
トーマのことを頭からつま先まで眺めたが、値踏みするようないやなものではない。初めて学校に行く息子の服装を、仔細に検める母のそれである。
「とても良く着こなせているわね。もしかして何処かでお屋敷勤めをしたことがあったのかしら」
そう言って
「でも、あなたは覚えていないのよね。まあいいわ。慣れないうちはいろいろ雑用をこなしながら、仕事を覚えてもらいます。
あなたはお嬢さまの下僕だから、本当はクラリスに教えてもらえれば一番いいのでしょうけど」
軽くため息をつく。
「初めに言っておくけど、このお屋敷には東方人に良い感情を持たない使用人が多いの。クラリスもそうだし、執事のメイソンさんも。そのことは覚悟しておいた方がいいわね」
隣で聞いていたリーゼもうなずく。
「東方人が必ずしも蘭堕とは限らないけど、見た目で区別がつかないから」
よく分からなかったが、どうやら自分は歓迎されざる存在らしい。表情を曇らせたトーマに、フラウ・マイヤーが諭す口調になった。
「だからこそ、あなたの働きぶりにかかっているわ。真面目に働けば、みんなの信頼を得ることが出来る。ここでは勤勉がなにより尊ばれるの」
「大丈夫よ、トーマくん。なにかあれば私がフォローするから」
リーゼがそう胸を張ると
「お前だって忙しいんだ。あんまり無理するなよ、こういうときは男同士の方が、なにかと便利だからな」
部屋に入ってきた運転手のカートライトが、親指で自分を指差し言った。
「そうね、あなたとは同じ部屋なのだし、いろいろ面倒を見てやってちょうだい」
フラウ・マイヤーがトーマのほうへ向き直る。
「カートはあなたと同室なの。これから部屋に案内してもらうから」
「そーいうこと。じゃあ行こうかトーマ」
さっさと部屋を出たカートの後を追いかけた。身長がかなり高く(一九〇センチはありそうだ)歩幅が広い上に歩くのが速い。うっかりすると見失ってしまいそうだ。
「いろいろ聞いたぜ、すげえ活躍だったそうじゃないか」
「は、はい。でも成り行きっていうか、偶然というか」
「偶然でもお嬢さまが助かったんだ、俺からも礼を言わせてもらうよ。ここの屋敷の連中はけっこう保守的だからな、東方人に対してはいい感情がない。
それでもお前には、たぶん感謝していると思うぜ。とくに執事のメイソンさんなんかは」
「そうなんですか」
「女性陣はクラリスをのぞけば歓迎ムードだな。お前が来たとき、メイドの娘たちに見られただろ? 顔がいいと、こういうところで得だよな」
からかわれて思わず赤くなった。たしかにそれは大いにうなずける。褒められているのが顔で中身じゃないことが、どうも面白くないが。
裏階段をあがって廊下をすすむと、日当たりの悪い北側に部屋が並んでいる。そこが使用人たちの寝起きする部屋らしい。
「奥が風呂とシャワー、その隣がトイレで、男女わかれて二つある。で、俺たちの部屋はここ」
扉の横には木札が下げられていて、そこに文字が書かれてある。
「俺とお前の名前、これで他と間違わないだろ」
「いえ、俺、文字が読めなくて」
「形でなんとか覚えろよ。どうしても分からなかったら、あとで目印をつけてやるから」
「そうしてもらえると助かります」
なかは想像していたよりずっときれいだった。サイドテーブルを挟んでベッドが二つ。
その他にクローゼットが一つだけ。床にもゴミ一つ落ちていない。トーマが通う高校の寮に比べたら雲泥の差だ。
「手前のベッドが俺、奥がお前。下着やら着がえ、寝間着はフラウ・マイヤーが用意してくれたから、あとでお礼言っとけよ。
脱いだ服はきちんとホコリをはらって、クローゼットに掛けるんだ。着替えや私物はクローゼットに引出しがあるだろ。上がお前の場所だから、そこを使えよ」
少しガタつく引出しをあけると、なかは空っぽだった。
「ここって、誰か使ってたんですか」
「んー、奥のベッドとそこはヘルマンって親父さんが使ってたんだよ」
ヘルマン?
その名前に覚えがあったが、どこで聞いたのだったか。
「親父さんはあの日、お嬢さまがお忍びで出かけた馬車をひいていたんだ。ところが、どこかで誘拐犯と入れ替わった。誘拐は失敗に終わったが、親父さんの方はまだ行方不明だ」
カートはため息をついた。
「普通に考えればおそらく殺されているんだろうが。でも俺はまだ諦めちゃいないぜ」
「でもそれなら、いいんですか。ベッドを勝手に使ったりして」
「いつ帰ってくるか分からないからな。それまでスペースを遊ばせておくわけにもいかないし。それに、俺はちょっとありがたいんだ。
部屋に一人だと、どうしても親父さんのことを考えちまう。それも悪い方にな。お前がいてくれた方が気が紛れる」
「そういえば……」
トーマはリーゼから聞いたことを思いだした。
「カートさん、魔法が使えるんですよね」
「リーゼから聞いたのか」
驚いた表情のあと、苦笑する。
「まったく、あのおしゃべりめ」
「す、すみません。訊いちゃダメでしたか」
「まあ、屋敷の連中はみんな知ってるから、べつに隠すことでもないんだがな」
右手にはめていた手袋を外し、手のひらをトーマへ向けた。
リーゼと同じ、中央に水晶球をはめた金属盤が鈍い光を放っている。
「出せる魔法なんて火のしょぼい魔法くらいなもんだ、ほれ」
水晶球が突如光を放つ。光りが消えると同時に、カートの手のひらの上、ロウソクほどの小さな火球がフワフワと浮かび上がっていた。