アッシェンバッハ公爵邸
彼らは禁術を使ったのではないか――。
そんな憶測も流れたが、誰一人彼らを非難するものはいなかった。
彼らがあの厄災を取り払ってくれたのは確かなのだから。手段がどうであれ、生き残ったものたちにとっては、もはやどうでも良いことだった。
「それだけ魔術師たちの犠牲が大きすぎたの。彼らは命を賭けて世界を救った英雄で、尊敬と賞賛の的になった。
生き残った彼らは、ウェスティアの繁栄を取り戻すため、《王立神秘協会》を設立して魔術の再興を誓ったわ。その中心人物になったのが賢者ベドガーと弟子のヴォルフガング・フォン・ケンペレン」
魔術の再興を望むには、魔法使いの数はあまりにも減りすぎていた。
そして賢者ベドガーは考えた。それまで膨大な知識と訓練の末に仕えるようになった魔法を、誰もが簡単に仕えるようにならないかと。
考察の末、たどり着いたのは中断していた《魔導》の研究だ。
魔力を直接機械の動力源にすることで、だれもが魔法の恩恵に与れるようにする。
馬の要らない自動で走る馬車。
溶けない氷の氷室。
遠い場所にいる二人が話せる通信機。
身体の中を見通して病を見つける箱。
このような夢の道具が厄災で傷ついた人々を癒やし、幸福にすれば、カルタリアはまた大いに繁栄するのだ――と。
弟子のケンペレンは機械工学の天才と呼ばれた男で、ベドガーは彼と共に研究に没頭した。
「《大厄災》のあと十年は、とても大変な時代だった。人口が減りすぎて、なにもかもがストップして。
残された人々は生きるために放置された畑を耕し、牛を飼ったわ。生まれてから土を触ったことのない貴族までね」
「で、結局、《魔導》の研究は成功したんですね」
「ええ、そうよ。この車がそう。エンジンに最新式の《魔導回路》を使っている。なかで火、風、雷の魔法を発生させ、動力源にしているの。
お前が会った検査技師もそう。両目と両手に透視の魔術を埋め込んで、身体の隅々を調べることができる。他にも伝話や冷蔵庫、さまざまな技術が生まれて……でも……」
フリーデはそこで、小さなため息をつく。
「それで終わっていたら、この話はめでたしめでたしで終わったのだけど。どうやら屋敷に着くみたいだから、この話はあとにしましょ」
車がスピードをゆるめ完全に停まった。やがてギイイイイイイという大きな扉が開く音がして、車は再び走り始める。
通り抜ける際にちらりとみたが、門が大理石、黒い扉にはすかしと金色の飾りが施されていた。
「いまのが正門。ここからがお庭。見て」
フリーデの視線につられ、窓の外を見てトーマは息をのんだ。
広大な庭園には右にも左にも大きな噴水が見える。整然と植えられた庭木と、年季の入った彫像たちがトーマに影を投げかけた。
庭では庭師たちが忙しく働き、犬たちが自由に走り回っている。
この庭だけでも、トーマが通っていた高校の敷地より数倍はありそうだ。
フランク医師がこの国でもっとも格式の高い家柄だと言っていたが、この庭園を見るだけで充分すぎるほど分かる。
「驚いた?」
「はい」
「今日からここがお前の住む場所で、働くところ。こんな大きなお屋敷で働けるなんて、お前はなんて運がいいのかしら。この私に感謝することね」
傲慢な口調がもどり、フリーデは口角を引き上げる。
「着いたらお父さまとお母さまにも引き合わせるわ。二人ともお前に会いたがっているの」
車がスピードを落とし始める。急に心臓が暴れはじめ、緊張で汗がでてきた。
いったい、どんな人々が自分を待ち受けているのか。
トーマは膝の上でこぶしをきつく握りしめ、それでもなんとか平静を装った。
「べつにかたくなることないのよ。一応、お前は私の命の恩人ということになっているのだから。堂々としていなさい」
そう言うフリーデに無言でうなずく。
「そうだわ、カート、窓を開けて」
すかさず後部座席、フリーデとトーマに近い窓が音もなく下がる。
「ここから顔を出してお屋敷を見てご覧なさいな。びっくりするから」
「え、で、でも……」
「これ以上近寄るとお屋敷の全体が見えないの。早く、ほら」
おっかなびっくり窓から頭を出し、前方を見て思わず声が出た。
「うわ、すげー、マジかよ」
正面に鎮座する巨大な白亜の宮殿。
左右対称となった構造の両翼とその端にそびえる二つの時計塔。それは途方もなく大きな白鳥が羽を広げた姿に似て、トーマはただただ圧倒されてしまった。
「《エーディン》、これが宮殿の名前。《エーディン》は古い神話に出てくる太陽の女神よ。彼女はたびたび白鳥に姿を変えたと言われているの」
「へ、部屋の数って、どれくらい……」
「そうね」
エルフリーデは少し考えてから、涼しい顔で答える。
「だいたい二百くらい……かしら」
* * *
車が停車し、降りた運転手が扉を開けた。クラリスに睨まれ、慌ててトーマも外へ出る。クラリスがそれに続くと、フリーデがトーマへと手を差し出した。
ぽかんとするトーマに、フリーデが顔をしかめる。
「何をバカにみたいに突っ立っているのよ。エスコートするのがお前の仕事なのよ」
「は、はい」
フリーデの手を取ると、軽やかな動作で大理石の床を踏む。階段を上がり重厚な玄関扉の前に立つと、ゆっくりと内側へと開いた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
執事らしき初老の男がトーマを一瞥する。あまり友好的ではない視線に、トーマは思わず身を固くした。
「ただいまメイソン。お父さまとお母さまは?」
「お二人とも書斎でお待ちです」
「分かった。すぐ行くからお茶をお願い」
「かしこまりました」
「トーマ、いらっしゃい」
歩き出すフリーデのあとに続いた。ふと視線を感じ、思わず顔を上げる。
階段の踊り場に若いメイドが二人、好奇心いっぱいの表情でこちらを見下ろしていた。
「お前たち、さっさと仕事に戻れ」
メイソンに一括されると首をすくめて退散する。
「この屋敷に東方人が来るのは初めてなの。みんな物珍しさで見るから、いちいち気にしていたらきりがないわ」
ふたたびフリーデと長い廊下を歩きはじめる。
それにしても、だ。
あまりにも全てが絢爛豪華で、場違いなところに来てしまったという感覚だけが募っていく。
廊下にしかれた深紅のじゅうたんはふかふかで、廊下に掛けられた数々の肖像画が無表情でトーマと見つめている。
大きな花瓶には溢れんばかりの花が生けられ、高い天井から下がるのはクリスタルのシャンデリア。
間違いなく現実のはずなのに、リアルな夢のなかにいるみたいだ。フリーデの足が、精緻な彫刻が施された扉の前で止まる。
「ここが仕事場兼書斎。お父さまはたいていこちらにいらっしゃるわ」
内側から扉がひらくと、中年の下僕がフリーデを頭を下げた。
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
「ありがとうスミス、大切な話があるから下がってくれる?」
「かしこまりました」
退出間際、彼の視線がつかのま、フリーデの背後にいる新参者へと据えられた。さっきの執事と同様、どうやらあまり歓迎されていないらしい。そして小さなテーブルを囲んでいるのが――。
「おかえり、フリーデ」
「おかえりなさい」
「お父さま、お母さま、ただいま戻りました」
アッシェンバッハ公爵と夫人、二人が立ち上がって娘を迎えた。顔がいいのは予想していたが、まさに美男美女のカップルとはこのことか。フリーデは振り返り
「トーマ、こちらがお父さまとお母さま。お前は今日から私に仕えるのだから、お二人にも心から忠誠を尽くしなさい」
と告げる。
「はい」
おそるおそる頭を下げた。
「トーマだったね。君のことはフリーデから聞いたよ。顔を上げてくれたまえ」
アッシェンバッハ公爵がトーマの両肩に優しく触れ、視線を合わせる。
「なんてお礼を言ったらいいのか分からない。君の勇気のおかげで、娘は難を逃れた。いくら感謝しても足りないくらいだ」
「本当に……。さっきも夫と話していたの。あなたが飛び出してくれなかったら、今ごろどうなっていたか……」
夫人もそう言って声を震わせる。
「あなたにはもっと別の形で恩返しをしたかったのだけど……フリーデがどうしても、あなたを下僕にするときかなくて」
「お母さま、よけいなことは言わなくていいわ。トーマは私の下僕なのだから、甘やかさないで」
「フリーデったら……彼はあなたの恩人なのよ」
「君は記憶をほとんどなくしているそうだね。屋敷務めはいろいろ大変だと思う。なにか困ったことがあれば、遠慮なく言って欲しい」
二人ともトーマの親たちと同じくらいの年齢に違いない。
しかし生活臭というものがないだけで、人はこれほど若く見えるのだろうか。
特に夫人の方は、ともすれば姉と間違えそうなくらい若々しく、娘に見せる笑顔にはシワ一つなかった。
公爵も同様で、年齢相応の渋みは感じさせながら、それが老けとは感じさせない。おっさんという言葉が、これほど似つかわしくない人もいないだろう。
眉目秀麗なうえ、着ているものからまとった雰囲気にまで、気品が漂っている。
この一家を前にしてなんだか自分が恥ずかしくなり、出来れば今すぐにでも回れ右をして、入った扉から出て行きたい気分になった。
「お嬢さま、お茶をお持ちいたしました」
さっき出ていった下僕がクラリスと共に現れた。
クラリスがひいたワゴンには湯気を立てる茶道具と、焼き菓子が並んでいる。
「クラリス、トーマに屋敷を案内してちょうだい。あとでフラウ・マイヤーからいろいろ教えてもらうことになっているの」
「かしこまりました」
クラリスが神妙な顔でうなずいた。
「お前にとっては面白くないでしょうけど、仲良くしてちょうだいね」
「当然です、お嬢さま。ではトーマ、行きましょう」
口元に笑みを浮かべ、さっきまでの仏頂面が嘘のような愛想の良さでトーマを促した。
「失礼いたします」
一礼して退室するクラリスのあとに続いて、廊下へと出た。
「じゃあ、まずはお嬢さまのお部屋へと案内するわね」
「ああ、ありがとう」
「お屋敷勤めが初めてなら知らないと思うけど、使用人は専用の廊下を使うの。こっち」
案内されたのは小ぶりの扉で、開くと長い廊下が見えた。廊下の突き当たりはらせん階段があり、上へと続いている。
「私たちのように制服を着たメイドや下僕はそうでもないけど、掃除担当の下働きとか調理人、あとは外で働いている庭師なんかは、この廊下をよく使うわ」
「そうなのか」
「付いてきて。階段で三階まで上がったら、お嬢さまの部屋がすぐだから」
二人は無言でらせん階段を上がる。最上階にたどり着くと、クラリスが簡素な木の扉を開けた。
かすかにカビの匂いがする廊下に出てから、近くの扉をくぐる。
まぶしさにめをすがめた。
窓から差し込む光に溢れた室内。椅子やテーブル、子どものオモチャ、その他使わない調度品などが溢れ、それぞれに白い布がかけられている。どこをどう見ても、物置部屋だ。
「あのさ、ここって……」
言い終わらぬうちに視界がまわり、腹に鈍い痛みを覚えた。
気がつけば床に仰向けに倒れていて、馬乗りになったクラリスに喉を絞められている。
「ク、クラリ……」
「貴様、いったい何者だ」