いきなり死にかける
どうやら衝撃で鎖が切れたらしい。周囲では
「おい、生きてるぞ」
「動けないのよ、助けなきゃ」
「やめろ、東方人の奴隷なんて関わるとろくな事にならん」
「そのうち商人が来る。生きてても死んでても奴らが処理するさ」
ずいぶんと好き勝手なことを言っている。
ふざけるな、ここで逃げないでいつ逃げるんだよ。
腹が立つと活力が湧いて、動かなかった指先が動き、なんとか上体を起こすことが出来た。
「おい、起きたぞ、信じられん」
「頭から血を流しているわ、可哀想に」
「ほら、君、捕まりなさい」
差し出してくれた手にすがりつくと、ぐいと引き寄せられた。
助けてくれたのは父親くらいの年齢の紳士で、仕立ての良いスーツを着ている。
「あ、ありがとう……ございます……」
ふらつきながらかろうじて礼を言った。顔を上げると、野次馬たちが好奇心と同情が混ざった顔で冬磨を見ている。
彼らが作る壁の向こうから、例の二人組が張り上げる声が聞こえた。
「兄貴、あの辺りだ! たぶん死んでる」
「いいからさっさと行け! 生きていたら無傷で捕まえろ!」
とっさに周囲の人々を突き飛ばし、全速力で駆け出した。
どこでもいい、あいつらから逃げ出さなければ。
その後のことは分からないがとにかく逃げて逃げて逃げて逃げて――。
細い横道へと入りひたすら走ると、並木通りが見えた。
かなり広い通りで、緑がつくる濃い影の下を馬車や荷車が行き交っている。一気に横切り向こう側へ行けば、なんとか追っ手をまけるかもしれない。
正直なところ、もうふらふらで走るどころか歩くことすらきつかった。捕まったときの恐怖感で、ひたすら足を動かしている。サバンナで追いかけられる草食動物の気分だ。
(いそがないと)
いぶかしむ通行人を尻目に、荷車が通り過ぎたタイミングで向こう側へと小走りに駆け出した。
しかしなんということだろう。道の真ん中へ差し掛かったとき、急に足から力が抜け、前のめりに倒れ込んでしまった。
「危ない!」
誰かが叫ぶのと、馬のいななきが聞こえたのが同時だった。
「くそったれっ!」
罵声を浴びせたのは御者だ。宙を蹴った馬の蹄が冬磨のすぐそばへと着地する。もう少しずれていたら、確実に踏み殺されていた。
「あああ、なんてこった」
年配の御者は冬磨を見下ろし、白髪頭を振り乱して天を仰ぐ。どう見ても事故を回避して安心した感じじゃない。
「こんちきちょう、こんな邪魔が入りやがって!」
馬車の扉が勢いよく開き、そこから飛び出してきたのは。
あろうことか、先刻の美少女ではないか。
少女は御者をにらみつけ、
「ヘルマン、いったいどういうこと? なぜお屋敷とは反対方向の道を?」
と言った。御者は肩をすくめ、
「いいからお嬢さま、馬車に戻って下さい。勝手に降りられては困ります」
「正気なの? お前がしようとしたのは誘拐だわ」
「お嬢さま、警察を呼びましょう!」
そう叫びながら駆け寄ったのはさっきの老女だ。
「ヘルマン、お嬢さまを誘拐とはどういうつもりですか。あなたはこれまでよく仕え、旦那さまの信頼も篤かったではないですか、訳があるな――」
何かが大きく破裂した音がすぐそばで聞こえた。火薬の匂いがあたりに充満し、老女が鈍い音を立てて地面に崩れ落ちる。
「エレナ! なんてことを」
「ほら、さっさと馬車に乗るんだ。言うことを聞かなければ、命の保証はねえぞ」
「ヘルマン?」
少女が呆然としたのも無理はない。さっきまで白髪の老人だった御者が、いまは別人の若い男へと変貌していた。
顔がそばかすだらけで、目付きがひどく悪い。
「ちっ、効力がきれたか。まあいい、ほらさっさと乗れ!」
そのとき。
少女がちらりと冬磨を一瞥した。
道路の真ん中でへたり込み、馬車をとめたのがさっきの奴隷だと分かって、驚いた表情になる。
それからすっと目を細め、どこかすがるような視線を送った。
助けて。
無言でそう訴えている。
無理だ、もう立てる気力がない。
それに俺があの子を助けなきゃいけない義理はないし、いまは自分のことで精一杯で、誰かを助ける余裕なんて、とてもじゃないけど――。
そんな理屈を並べながら、突如、腹の底から煮えたぎるような怒りが湧いてきた。
この理不尽で理解不能な状況。
自分を檻に閉じ込めた奴隷商人たち、それを見て見ぬふりをする奴ら。
そして目の前で老女を殺し、少女に拳銃をチラつかせる男。
それら全てへの激情がマグマのように溢れ出す。
(ふざけるな……よ……)
気がつけば立ち上がり地面を蹴りつけ、高く跳躍していた。
宙に身を躍らせ、一気に御者席の男へと距離を詰める。組み付いて拳銃を握った手首を両手でつかみ、狙いを少女から逸らした。
「こいつ!?」
想定外の乱入者に、男はあきらかに動揺している。とっさに冬磨を振り払おうとするが、見かけによらない力強さで抵抗され、焦りをにじませた。
冬磨の方も必死だ。
拳銃を奪えないまでも、せめて時間稼ぎくらいはできるはずだ――。
両手でつかんだ手首をはなすまいとの一心で
「おい! そこのあんた、今のうちに逃げろ!」
背後にいる少女に叫んだ。
べつに助ける義理はない。でもめっちゃきれいな女の子だった、理由なんてそれで充分だ。
「くそっ! いい加減に……しろ!」
男の左手が冬磨の腹を思いきり打った。
みぞおちへの衝撃に抗えず、両手の力がゆるんだ隙を突いて、男が必死で手首を引き抜こうとする。冬磨も負けじと男にすがりつき、力の限り抵抗した。
もみ合いのなか、引き金が引かれたのは不可抗力で、それが冬磨の心臓を貫いたのは、実に不幸な出来事だった。
耳をつんざく破裂音と、身体の中心を抉った衝撃。
急に全身の力が抜けて、両手がだらりと垂れ下がる。充満する火薬の匂い、それから……これは……。
(血?)
震えながら胸元をさぐった手のひらが、赤く染まっている。ケチャップや絵の具じゃない、本物の血だ。
遠くから女性の悲鳴が聞こえた。
はやく、警察を! いったい、何をしているの? 小さな子どもを連れている女性はここから出ろ!
そんな声があちこちから上がっていたが、それを見ることは叶わなかった。
視界が急に狭まり、正面にいる男だけがかろうじて認識できる。
「なんだよ、これ。つまんねえの……」
男はぼそりとつぶやき、冬磨の襟元をつかんだ。
「余計マネしやがって、東方人ごときが邪魔すんじゃねーよ」
冬磨の身体が御者席から放り出され、石畳へと転がった。不思議に痛みは感じず、ただ寒くてたまらない。身体はいうことをきかず、周囲の喧噪ももはや聞こえなかった。
恐ろしいほどの静寂があたりを包み込んでいる。まるで冷たく暗いプールに一人で浮かんでいるような気分だ。
(俺、死ぬのかな……)
かっこつけて死ぬなんてバカだ、俺。
こんなことなら、彼女の一人くらい作っておくんだった。
近所の中学校に進学して、受験は面倒だけど共学の公立高校に行っていれば。
いや、それだけじゃない。
まだ読みたい漫画や、やりたいゲームだっていっぱいあるのに。そういえば田中に借りた漫画、まだ返していなかった。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
誰か、神さま、お願いです。助けて下さい。
助けてくれたらなんでもします。
だから――。
「本当になんでもしてくれる?」
いきなり声が降ってきて、視界がひらける。
眼前にすぐ女の顔があった。仰向けに倒れた冬磨に覆い被さる格好で、じっと目をのぞき込んでいる。
信じられないくらいきれいな女だった。
長い黒髪と抜けるような白い肌。切れ長の瞳は明るい琥珀色で、光りの加減で金色にも見える。長いまつげも鼻筋も唇も、作り物みたいに整っており、どこか非現実な空気をまとっていた。
冷たい手のひらが冬磨の額に触れた。手首まである黒いレースの袖が柔らかく頬を撫でる。
「まだ死にたくないのよね」
女の表情は至って真面目で、からかう様子は微塵もない。なにか信頼できる感じがして、冬磨は無言で頷いた。
相手が何者かは知らないが、このような状況で現れるのだ。人智を越えた存在であるのは間違いない。
「じゃあ、私と取引をしましょう」
取引?
「あなたはいま死んだ。でも、私の願いを叶えてくれたら、生き返らせてあげる」
私の願い――。
いったいなにを、そう訊ねたかったが、言葉が出てこない。
女は口元を冬磨の耳に寄せ、ひと言ひと言、噛みしめるようにささやいた。
「わたしを、殺して、欲しいの」