手合わせ
「ふざけんなよ、俺を誰だか知らねーみたいだな」
顔を歪めたパシャがまたたく間に距離を詰め、目にもとまらぬ速さでパンチをトーマの顔面左へめり込ませる。
「ぐふっ!」
今度はトーマが飛ばされる番だった。じゅうたん敷きの床に派手に転がると、うつぶせの格好で動かなくなる。
「やっだー、やっぱよわよわじゃん。ダッサいの」
「パシャ、そのままやっちゃいなよ、東方人ひとり殺しちゃったって、どうってことないんだから」
「見ろよ、気絶しちまったみたいだぜ」
「トーマ!」
クラリスが駆け寄り、慌ててトーマを助け起こした。
「だから言ったのだ、このバ……」
こちらを見上げるトーマと視線があい、クラリスは息をのんだ。
あれほど強く殴られたなら、頬骨が折れてもおかしくない。しかしトーマの頬に殴られた痕跡は見られず、骨にも異常はないようだった。
(これは……いったいどういうこと?)
かすかな赤みがさしているのは取り巻きに殴られたからで、パシャの殴打のせいではない。困惑するクラリスを押しのけ、トーマは上体をゆっくりと起こす。
「大丈夫、ちょっと、頭がぼーっとするだけ」
口調がいつものトーマに戻っていた。それを見ていたパシャが首を大きく回し、にやりと目を細める。
「どけよ、シルヴァ族。そいつを始末したら、お前をたっぷり可愛がってやる」
「お戯れを……」
嫌悪を露わにしたクラリスを、パシャは鼻でせせら笑った。
「控えよ下郎、俺を誰だと思っている? アヌラダプラ王国の正統な王位継承者、お前など虫けらに等しい。今は伯父によって不当に奪われているが、必ずいつか王位を」
「そこまでだ、シギリヤ・パシャ・アヌラダプラ」
凛とした声が談話室に響いた。一同が声のした方へ視線をやると、皇太子フェリックスである。
「悪いがそこまでにしてくれないかな。僕は静けさを求めてここに来たのでね。騒がしくされては困るんだ。
そういえば外にいる君の見張り番は、リチャードが相手をしてくれてね。おかげで快く僕をなかに入れてくれた」
「それはよかったなフェリックス、だが、俺は誰の指図も受けない。口を出すな」
「君はお父上と一緒に、わが皇国に亡命中の身だ。僕はともかく、あの宰相の耳に、君の紳士らしからぬ振る舞いが聞こえないとも限らない。
彼が君たち親子を厚遇しているのは、もちろん利点があってのことだ。元王子が礼儀を知らない、役にも立たない暗愚と分かれば、彼は君たちを即行で切り捨てるだろうね」
「……ちっ、命拾いしたな」
舌打ちを一つして、パシャはきびすを返した。
「面白くねえ、おい、お前ら行くぞ」
両手をポケットに突っ込み、肩をそびやかしながら談話室を出て行った。
「立てるかい?」
「は、はい……」
クラリスの手を借りながら、ふらつく身体を支えた。不思議なことに頬に痛みは全く感じない。たしかに殴られた感触はあったのに。
「間に合って良かったよ。彼は格闘技の達人でね。キムサンという伝統的な拳闘術を使う。しかし驚いたな、彼のパンチをまともに受けて、そんな顔で立ち上がれるなんてね」
フェリックスはトーマの頬を見つめ、目をすがめた。あれだけ殴られて目立った痕跡がないのを、彼もいぶかしんでいるようだ。
「ありがとうございます。俺なんかのために」
「いや、単なる偶然……ということにしておいてくれないかな。クラリス、君も災難だった」
「勿体ないお言葉です」
片膝を突いた格好で、クラリスはうやうやしく頭を垂れる。フェリックスは視線をトーマへ戻した。そしてまるで友人のような気さくな態度で、親しげに肩を叩く。
「君は不思議な人だね、トーマ。とにかく、僕は君にいろいろ期待している。だからこそ言うのだけど、どうやら、今の君ではエルフリーデを守るのは難しいみたいだ」
単刀直入に言われてしまった。実に全くその通りで、ぐうの音も出ないトーマは、無言でうなだれ、こぶしを握りしめる。
「君にはその剣を手にする資格があるのだろう。それは間違いない。だからこそ君には他人にはない責務がある。力を持つものが負うべき責務だ。それを忘れないで欲しい。君を信じている彼女のためにも」
「そんなこと、言われなくても分かっているわよ」
慌てて顔を上げる。不機嫌そうな紫色の瞳と視線があい、トーマはいたたまれない気持ちになった。
フェリックスの背後に、両腕をくんだエルフリーデが、仁王立ちでこちらをにらみつけている。
「おや、耳が早いね。てっきり、優雅にランチを楽しんでいるのかと思ったんだが」
「使用人がトラブルに巻き込まれてるのに、のんびり食事を楽しめるほど鈍感じゃないわ」
「お嬢さま……」
クラリスがうなだれ、振り絞るような声を出した。
「申し訳、ありません……このような……」
「謝ることじゃないのよ、クラリス。トーマも。この件に関してはあなたたちに非はないのだから、謝罪は不要」
「ですが、パシャさまが」
「彼にどうこう言われる筋合いなどない。皇国のお情けで名誉貴族にすがっているだけの男よ。自分の立場が悪くなることは絶対にしない小物だもの。
そんな小物を《親王さま》などと奉って、お為ごかしの称号を与えている連中もひどいものだけど」
「これは厳しいね。耳が痛いよ」
「とりあえず、助けてくれたことには礼を言うわ。クラリス、トーマ、帰りましょ」
「ちょ、ちょっと待てよ……じゃなくて、待ってください」
トーマは握っていた拳をようやく開いた。
「午後もたしか授業があるんじゃ」
「そんなもの、どうでもいいわ。お前は破れた下着のまま、学校を歩き回れるの?」
「あ……」
そうだった。クラリスは下着をパシャに切り裂かれているのだ。たしかにその状態のままでいるのはさぞ嫌だろう。
「お嬢さま、お気遣いは無用です。これくらいは、なんともありません」
「お前がよくても、私が気にするのよ。使用人に破れた下着を着せているなんて、公爵家の名折れだわ。ほら、立ちなさい」
「そうですか……」
ようやくクラリスが立ち上がり、ほんの一瞬、逡巡する表情を見せたあとフリーデを見つめた。
「お嬢さま、この場で私が発言することをお許し願えませんでしょうか」
「構わないわ、許可します」
「ありがとうございます。トーマ」
クラリスがトーマに向き直り、何事かを決意した表情になる。
「トーマ、私と手合わせをしてほしい」
* * *
「手、手合わせ……って。どうして」
「今すぐというわけじゃない。お前にも準備というものがあるだろう」
「い、いや、べつに……今すぐでも、俺は構わないけど……」
両手のひらをパンツで拭い、
「はい」
クラリスの方へと向けて、ぎこちなく笑顔をつくってみせた。
「これでいいかな?」
ぷっ……フェリックスが吹き出し、エルフリーデがしかめ面で横を向く。
肝心のクラリスは何か間違ったものを口に入れたような表情で、トーマの顔を数秒凝視していた。
気まずい沈黙のあと、
「あれ、俺……なんか……」
トーマが口を開く。
「バカ! そういう意味じゃないっ!」
珍しく、顔を真っ赤にしたクラリスに怒鳴られた。
「手合わせというのは、剣術の勝負をすることだ」
「ああ、そっちの……」
「トーマ、私はいまだにお前を認められない。認めたくもない。お前がお嬢さまに雇われたことも、その剣を継承していることも、こうして護衛として私と一緒にいることも、なにもかもだ」
「う、うん」
「うん、じゃない。お前のへなちょこぶりにはうんざりだ。皇太子さまの仰るとおり、お前なんかにお嬢さまが守れるはずがない。
いや、その剣を手にする資格すら、私はないと思っている。こうまで言われて悔しくないか」
「悔しいっていうか……たしかにそうだなって」
「ふざけるな、だったらその剣を旦那さまにさっさとお返しして、屋敷からも出て行けばいい。それがいやなら、私と勝負して、私を負かせてみろ。
それならお前を認めてやる。その剣を手にするなら、命のやりとりをする覚悟くらいは決めておけ」
「クラリス……」
クラリスはそこまで吐き出してしまうと、皇太子にむかって膝を折った。
「僭越な願いをお聞き届けねがえますでしょうか」
「聞くよ、なんだい」
「この男との手合わせの立会人をお願いしたいのです」
「それは構わない。でもいまの君の話だと、彼を殺すことも辞さないようだね。僕はともかく、フリーデはそれでいいのかい」
「べつにいいわ。勝負をするなら、それくらいじゃないと」
おいマジかよ。トーマは唖然としてエルフリーデを見つめた。
「あなたが立ち会ってくれるなら申し分ないわ。いいわね、トーマ」
「えーと、それってつまり、俺、もしかして死んじゃうってことですか」
「死にたくなかったら、腕を上げることね。そこは莫耶にお願いするより他ないけど」
ごくり……トーマは喉を鳴らし、理解した。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすという。要するに自分は今、エルフリーデから這い上がってこいと谷底に突き落とされたのだ。
いいさ、やってやる。ここで逃げたら男のプライドがすたるってものだ。
「分かりました。でも時間が欲しい。俺は今のところ剣術の素人です。莫耶になんとかしてもらうけど、せめて死なないくらいまでには腕を上げたいし」
「了解した。日取りについては後で莫耶に相談して決める。それでいいな」
念を押したクラリスにトーマは頷いた。
「じゃあ、話が決まったところで帰るわよ。お腹がぺこぺこだもの。それとフェリックス、チャールズにお礼を言ってちょうだい」
エルフリーデが銀色の髪をひるがえし、歩き始める。
その背中を追いかけるトーマに、フェリックスが言葉をかけた。
「期待しているよトーマ。手合わせを楽しみにしている」