紅蘭民(コランダム)奇譚抄
今からおよそ、六百五十年前のこと。
前王朝《黒武》の腐敗に苦しめられた民衆を救うため、一人の道士が立ち上がった。
名は羅漢。
のちの初代皇帝、駈那之院・愛染皇壽・紅蘭民である。
羅漢は強い異能の持ち主で、神から民を救えという啓示を受けた。
病人を癒やす、水を美酒に変える、湖の上を歩くなど、さまざまな奇跡を起こして、またたく間に民衆の支持を集める。
やがて《紅蘭民》という自警団を組織し、あちこちで反乱を起こした。その戦いでも奇跡を起こしたことで戦況を有利に導き、北の地を平定したのち《紅蘭民》を建国する。
そのあとも勢いは衰えず、《黒武》最後の幼帝から禅譲される形で皇帝の座へとのぼりつめた。
羅漢は多くの妃とのあいだに子を生したが、すぐれた異能の持ち主はついぞ現れず、彼をひどく失望させたという。
寵愛していた宦官の富護に不老不死への願望を語り、国内外へ魔道士を派遣して秘術を探させた。
なお、この宦官は北方の遊牧民族の出自で、美しい金色の髪に青い瞳、一見少女と見まがうほどの可憐な美しさ。
まさに羞花閉月、後宮の並み居る美女たちを激しく嫉妬させたほどであった。
駈那之院の死後、新帝の妃が青い眼をした赤子を産んだ。この赤子の周囲でたびたび奇怪な出来事が起こり、宮中の者たちを混乱と恐怖におとしいれる。
屋根がある部屋に石が降り、虫や動物がどこからともなく大量に現れ、唐突に消える。
さらに人々を恐れさせたのは、赤子の周りにたびたび現れる謎の集団だった。
黒いフードにマントという修道僧のような出で立ちで、十人ほどがかたまって姿を見せる。
若皇子が眠る居室のそばで目撃するものが後を絶たず、やがてあれは死神ではないかと言い出すものが現れた矢先、事件は起きた。
例の黒装束のものたちが列をなし、若皇子と母妃のいる部屋の壁を通り抜けていく――その異様な光景を他の妃に使える侍女が目撃し、慌てて人を呼んだ。
衛士たちが部屋へと突入すると、そこにいたのはゆりかごで眠る若皇子一人。一緒にいたはずの母妃、乳母、侍女たちの姿は消えており、宮中のどこを探しても見つからなかった。
――あの皇子は死神の化身か。
口さがない宦官や女たちは噂し合い、誰も皇子の世話をしたがらなかった。
それ以降も原因不明の火事が二度、大量のカラスの死骸が庭でみつかり、誰もいないはずの皇子の部屋から女の笑い声が聞こえ、人びとを震え上がらせた。
また皇宮の外では悪天候が続き、長雨による洪水、地震、蝗害が各地で発生、これもあの皇子のせいかと人びとは声をひそめあう。
とうとう帝の耳へと届き、事態を重く見た帝は若皇子を遠き地の摩尼寺院へと移すことを決めた。
皇太子ならともかく、五十人はいる妃の一人が生んだ三十二番目の皇子である。妃の顔も覚えていなかった。帝にとっては《居ても居なくても同じ》だったのだ。
かくして摩尼寺院の方丈へと移された皇子は、何も分からぬまま結界のなかに幽閉され、十五という若さで世を去る。
だがそれでは終わらなかった。
以降もたびたび青い眼の皇子が生まれ、同じような凶事を引き起こして、摩尼寺院に幽閉された。
いつしか宮中では青い眼の若皇子のことを《蒼眼の忌皇子》と恐れるようになり、若皇子は当然のことながら、母妃も追放の憂き目に遭い、尼寺へ送られたという。
さて、それから五百年。
遠く離れた大陸の西方・ウェスタリアの大国カルタリアの王都南地区。賭博場や酒場、娼館がひしめく界隈の一劃に、《翠玉楼》という異国趣味の娼館があった。
ここは東方人の娘を集めた高級娼館であるが、男娼も数人ほど揃えている。
女主人は老いた元娼婦であったが、血も涙もない因業ババアで、使えなくなった娼婦は容赦なく外へ売り飛ばした。
裏街道には、病気になった娼婦でも買ってくれる人買いがいる。どこへ連れて行かれるのかは誰も知らない。
だから、働く娼婦と男娼たちは、売られぬよう健気に務めを果たした。体調が悪いのを悟られぬよう、化粧でごまかし、無理にでも笑みを浮かべる。
しかしそんな誤魔化しがきかないほど弱り切ってしまったものが一人、狭苦しい物置部屋に押し込められていた。
まだ十六七くらいの、細身の少年である。
ゆるくウェーブがかかった黒髪と、明らかに陽に当たっていない青白い肌。目鼻立ちの整った顔立ちで、東方人には珍しく目が青かった。
カルタリアでは目の青い東方人が人気である。この彼も、どこか愁いを帯びた美貌と珍しい目の色が人気を呼び、男ばかりでなく、女性客からも指名が入った。まだ十四という幼さにも関わらずだ。
それから三年。
彼は絶望していた。
もともと弱かった身体が酷使されたせいか、客を取らされた翌日は必ず熱を出す。それでも女主人は休ませてくれないから、無理を押して務めにはげむ。
そんなことを繰り返していたせいか、この半年は起き上がるのがやっとで、常に熱でもうろうとしていた。
――こいつもそろそろ限界だね。
老婆は冷たく言い放ち、使っていた部屋から彼を追い出して物置部屋へと押し込んだ。
――明日には人買いに引き取ってもらうからね、それまではくたばるんじゃないよ、金にならないから。
何故だろう。
少年は後悔の涙を流す。
あの摩尼寺院で何も知らぬまま暮らしていれば、こんなことにはならなかった。それなのに。
ここに連れてこられたのは騙されたからだ。特に懐いていた出入りの商人にこう言われた。
――皇子の目が青いのは、母君がカルタリアの生まれだったからです。母君はいまはカルタリアの王都で、ある方と暮らしていらっしゃいます。私は母君から言われて、あなたをここから連れ出しに来ました。どうぞ、私を信じて……。
信じた結果がこれだった。
動かない身体に鞭を打つことも出来ず、どうしようもない我が身を呪うしかない。
少年はここでは黒猫と呼ばれていた。
もちろん本当の名ではない。
名を蔵人之院・愛染皇律・紅蘭民といった。