もう一振りの剣
「かんしょう?」
「妾はもともと干将と一対の雌雄剣なのだ。妾が雌剣で、干将が雄剣。
いつもは一緒に眠りについて目覚めるはずなのじゃが、どういうわけか、どこにも見当たらぬ。こんなことは普通ならあり得ぬことじゃ。つまり……」
莫耶はトーマを真っ直ぐに見つめた。答えなければならないような気がして、
「えーっと、つまり、干将は莫耶の旦那さんって事になるのかな」
そう言うと、莫耶は呆れた顔になる。
「バカも休み休み言え。たしかに伝承では夫婦剣などと言われることもあるが、全くの誤解じゃ。
奴と妾は、いわば双子の姉弟のようなもの。だいいち妾はあやつが苦手じゃ。いちいち細かすぎて、一緒にいると疲れる」
ははあ。姉弟とはいえ、仲はあまり良くないらしい。
「しかし、腐っても片割れ。大事な半身じゃ。奴と妾は、そろってこそ本来の力を発揮する。
だが、奴の姿がどこにも見えん。おそらく、妾が眠っている間に、なにかが奴に起こったと考えて間違いない」
グラスに残っていたワインを飲み干し、手元のボトルから注ごうとする。
しかし空だと分かると渋い顔になってそれを放り投げ、身体を起こしてすっくと立ち上がった。
懐から扇子を出すと軽快な仕草で開き、口元に当てて蠱惑的な笑みを浮かべる。
「ちょうど酒も切れた。さ、行くぞ。妾をここに眠らせていた屋敷の主人にあって、いろいろ聞かねばならぬな」
軽いめまいを覚え、気がつくとあの地下聖堂に戻っていた。
公爵は莫耶を一目見て膝を折り、深く頭を垂れる。
「わが先祖が大賢者ベドガーより預かりし名剣、莫耶さまとお見受けいたしました。伝承の通り、まことにお美しい」
「ふふん、美酒の次は甘き賛辞か。悪くないの。しかしギュンターよ、妾はこの通り一人。本来なら剣がもう一振り、傍らになければならぬはず。そなたはその行方を知っておるのか」
「恐れながら、わが先祖がベドガーさまからお預かりしたのは、莫耶さまのみでございました。
わが先祖もそれを不思議に思い、お尋ねしたところ、『故あって失われてしまった』とのお答えが」
莫耶は扇を口元に当てたまま、しばし瞑目していた。何かを思い出すかのようにそのままじっとしていたが、やがて目を開くと天井を仰ぎ、深いため息をつく。
「だめじゃ、何も思い出せん。前の主人のことも、そのベドガーとやらのことも。そやつは妾たちの主人について、なにか申しておらなかったか」
「いいえ、それについては何も。ベドガーさまは、しかるべき時までこの剣を預かって欲しいと仰ったそうです。
この剣の《継承者》が姿を現せば、彼女もまた目覚める。とても美しい東方の貴婦人として、皆の前に姿を現すだろう――と」
「ふん、それがこやつという訳か。しかし妾の記憶がこれほど曖昧なのは、干将がいないせいなのか、それとも……」
ぱたん。
扇を閉じる小気味の良い音が響く。
「あるいはそのベドガーとやらに記憶を消されたか。ギュンター、そのベドガーは今どこにいる」
「あいにく、八十年ほどまえに亡くなっております」
「なんと、それほど長く眠っておったのか。たしかに《蒼眼の忌皇子》など、そうそう現れぬゆえ……」
蒼眼の忌み子?
トーマと公爵の表情を一瞥して、莫耶は扇を一振りした。軽い目眩を覚えたかと思うと、瞬時に周囲の景色が書斎へと変化する。
唖然とする公爵とトーマに、莫耶は得意げな表情を見せた。
「ふふん、妾にかかれば、このような芸当など朝飯前じゃ。さて、ギュンターよ」
書斎の長椅子に腰を下ろし、優雅に扇を開いて首をかしげた。
「これ以上の説明をするには、酒が少々足りぬな。とっておきの美酒をもってまいれ。あとはつまみじゃ。あの干し肉と白い酥は実に美味じゃった。
他にはそうじゃな、甘い菓子が欲しい。果物もあればもっと良いぞ。妾はこの屋敷の客人なのじゃ、手厚くもてなせよ、ご当主」
なんとも図々しい客人もあったものだ。トーマは公爵に申し訳なくなり、首をすくめて小さく縮こまった。
「分かりました。では私は執事に話をしなくてはいけないので、少し席を外します」
口元に笑みを浮かべ、公爵は部屋から出ていった。
「あの当主はなかなかの人物じゃ。妾がお主と二人きりになりたいと思っていたのを察したらしい。
さてと、さっきの話の続きじゃが、妾とそっくりな女を見たとのこと。それはいつの事じゃ」
「そのことなんだけど、実はもっと込み入った話があるんだ。もしかしたら、信じてもらえないかもしれないけど」
「たわけ。話さなければ何も分からん。いいからその込み入った話とやらを申してみよ」
トーマは莫耶に洗いざらい打ち明けた。
自分が異世界から来た高校生で、気がついたらこの身体に入っていたこと。
奴隷商人に売られそうになって逃げだし、逃げ出した先でエルフリーデが誘拐されそうになっていたこと。
助けようとして拳銃で撃たれ、危うく死にかけたとき、目の前に現れたのが莫耶にうり二つの女だった。そして、女から奇妙な取引を持ちかけられたこと。
さらに、もう一つ気になることは。
「この世界に来てから、前の世界のことがよく思い出せなくなっているんだ。去年の担任のことが思い出せないって、さすがにおかしいだろ。これって、莫耶が目覚めたこととなにか関係あるのかな」
「ふうむ。なんとも面妖な話じゃのお」
莫耶は首をかしげ、閉じた扇で結い上げた髷をちょんとつついた。
「異世界からきた……か。確かににわかには信じがたい話じゃが、あらゆることが起こりうるのがこの宇宙じゃ。一見、突拍子もないことにも必ず意味がある。
つまり、お主がこの世界に来たことにも必ず理由があるはずじゃ。しかし……昔のことを思い出せない件に関しては、妾にもさっぱり分からん」
「そうか……」
トーマはがっくりと両肩を落とした。今はまだ思い出せることの方が多いから安心できる。
でもそのうち、両親や姉、クラスの友人たち、彼らのことを忘れてしまったら……。
「いまは気に病んでも仕方ない。それからその女のことだが、おそらく順序が逆じゃ」
「逆って」
「その女が妾にそっくりなのではない。妾の姿がその女を模しているということよ。いいか、妾たちは人工的に作られた霊的存在じゃ。
肉体を持たず、当然ながら決まった容姿も持たない。妾たちに形を与えるのは遣い手、つまり《継承者》なのじゃ」
「えーと、つまり……遣い手が変れば、見た目も変るってこと?」
「さよう。人間誰しも、心の奥に理想的な男女像をかかえておる。それは己自身の陽の部分と陰の部分を担っておるのじゃが、それが具現化したのが妾たちなのじゃ。
だが例外的に、思い入れの深い人物の容姿が与えられることがある。幼い頃に別れた肉親や恋人が多いが、お主に心当たりはないのだな」
「全く。さっぱり」
「ふむ、だが、その女がお主に深い関わりがあることは間違いない。あるいは……」
長椅子から立ち上がってトーマの前に立つ。扇を懐にしまい、両手でそっと頬を包み込んだ。見つめる眼差しは優しく、どこか慰撫するようでもある。
「お主が彼女を思い出せないことも、干将の行方が知れぬことと関係があるのかもしれぬ。いずれにせよ、早急に彼を探さなければなるまい」
「分かった」
長身の莫耶を見上げる格好で頷いた。
そのとき、おもむろに書斎の扉が開く。見れば制服姿のエルフリーデで、身体を触れあわんばかりに接近している二人を見るなり、彫像のように動かなくなった。
その様子を見た莫耶が、なんとも邪悪な笑みを浮かべてトーマの身体を思いきり抱き寄せる。
「おやおや、これはわが主人の……なんとも無粋なことじゃ、妾と主人さまの秘め事を邪魔するとはの」
「ちょ、ちょっと、なに言ってんだよ莫耶。違うんだ、これは……」
続けて現れたクラリスが、凶悪な表情でトーマをにらみつける。
「貴様、お嬢さまの不在をいいことに、別の女に手を出すとは。お嬢さま言ったでしょう、こんな男など信用なりません。唾棄すべき色魔など、わたくしの手で成敗してやりましょう」
そう言ってスカートの下から出したのは一対の短剣だ。
「ほほう、そなたも双剣使いとは。これは実に楽しいの。そうじゃトーマ、いい機会じゃ、この剣の使い方を教えてやる」
莫耶の姿がかき消えた――かと思うと、トーマの足がクラリスに向かって床を蹴り、瞬時に距離を詰めた。
「なっ?」
一瞬の驚愕ののち、即座に反応できたのはさすがと言うべきか。がら空きになったトーマの脇腹に向けて膝蹴りを繰り出す。
肋骨を砕いてやる――そう思った矢先だった。
旋転したトーマの背がクラリスをはじき飛ばし、勢いよく床へと転がす。
しまったと思ったときは既に遅く、書斎の床に仰向けに倒れ、鞘に収めた見知らぬ剣を突きつけられていた。
トーマの青い眼がじっと自分を見下ろしている。しかし、その目は自分が知っている彼のものではない。初めてクラリスは未知のものへの恐怖を感じ、全身が冷たくなった。
お前はトーマじゃない。いったい誰なんだ。
「きさま、いったい何者だ……」
恐怖を抑えたいのに、声が震えてしまう。
「まあ、今日はここまでにしておこうか。そろそろ酒も届く頃じゃ」
とたんにトーマの表情が一変した。
「こ、こ、これって……うわ……身体が……」
がっくりと膝を折り、あろうことかクラリスに重なるように倒れ込む。
「き、貴様、なにを……!これ以上の屈辱を」
「ち、違う……身体が重くて……動かせない……」
「バカなことを言うな、気持ち悪いからすぐに離れろ!」
「だ、誰か、助けて……」
一方。
エルフリーデは床でもつれ合うクラリスとトーマを黙って見つめていた。
いったい、これはどういうことなのか。なにが起こっているのか。
しかしもっと彼女を戸惑わせたのは、あの東方人の貴婦人だ。
初めて会うはずなのに、なぜ既視感を覚えるのか。かすかな疑問が頭の片隅で、彼女にこう呼びかける。
――自分はあの女に、どこかで会っているのではないか。