莫耶(ばくや)
いったいこれはどういうことなのか。
鏡のなか、女はトーマの方へ顔を向けていたが、それでいて彼を見てはおらず、その先になる何かを見つめていた。
トーマは眼前の現実が飲み込めず、呆けたように立ち尽くす。
初めて彼女を見たときは、黒いレースがたっぷりついたドレスを着ていた。二度目のときは声だけだったので分からない。
そして今。着ているのは漢服とよばれる、着物に似た東洋の伝統着だ。光沢のある絹地に、ところどころ赤い花が刺繍されている。
結い上げた髪にかんざしを挿していたが、そこにも宝石で作られた赤い花が飾られていた。
「君には見えるんだね、彼女が……」
背後で公爵が声をかけた。
「でも残念ながら、私には彼女が見えない。でも君には見えている。それこそが《継承者》である証だ」
「フォルガー……?」
「私の先祖が、ある方からお預かりしたものがある。それを君に渡すことが私の義務だ。どんな説明をするより見たほうが早いだろう。来たまえ」
そう言って大股で歩き、公爵が音楽室の扉を開いた。
「まずは私の書斎へ行こう」
いちど外した視線を再び鏡へと戻したが、女の姿は消えていた。
軽い目眩を覚えながら、トーマは音楽室を後にする。自分の運命が、思いもよらぬ方向へと進んでいくのを感じながら。
* * *
書斎に戻ると、公爵はまず屋敷の内線で執事に連絡を取った。しばらく誰も書斎にはいれるな、電話もつながないようにと命じ、他に細かな執務に関しての指示を出す。
電話を切ると
「さて、あらかじめ言っておくが、おそらく君を驚かせることになるだろう。でも決して叫んだりしないで欲しい」
トーマに念を押した。トーマがうなずくと、公爵が懐から小さな鍵を取り出す。
「さて、まずはこの鍵を使う」
そうして公爵が足を止めたのは、部屋の奥にある本棚だった。
書斎というだけあって、室内の壁は数え切れないほどの本が埋め尽くしている。天井近くの本などはどうやって取るのか予想がつかないほどだ。
本を日光に晒さないよう、書斎の窓は北に向けて開いているのだが、そのせいで奥は昼でも薄暗く、本のタイトルがひどく読みにくい。
公爵がそのなかから、一冊の本を手に取った。見事な装丁の本だったが、開けないよう金属製の鍵穴がついている。しかも持ち出しが出来ないよう、本自身にも頑丈な鎖が付いていた。
鍵穴に鍵を差し込み、まわす。
分厚い本だったが、真ん中から開いたページをトーマに見せた。
「あ……」
なかは全てが白紙、何も書かれていなかったが、中央がくりぬかれ、そこに《魔導回路》がはめ込まれていた。
《シジル》に公爵が手をかざすと、水晶が柔らかな光を放つ。
もしかして本棚が扉に変わり、開く仕掛けなのか。
トーマは耳をすませたが、なにごとも起こらなかった。
「では行こうか、こっちだ」
公爵が廊下へ続くはずの扉に手を掛け、開く。
トーマは息をのんだ。
むこうにあったのは屋敷の廊下ではない。石造りの聖堂は見るからに古く、石の床にも並んだ木の長椅子にも、歴史が刻みこまれていた。
天井が高いせいで空間は広かったが、窓がひとつもないのは地下にあるせいか。左右の壁に均等に配された灯火のおかげで、明るさは充分だった。
突き当たりには小さな祭壇が設けられ、火の付いていない燭台が左右に二つずつ。
「ここは秘密の地下聖堂だ。この屋敷で最初に作られた場所と言われている。あの扉も」
公爵は二人が出てきた扉を指さした。
「昔は書斎からの隠し通路があった。今はその隠し通路はつぶして、こうして魔導の力で直接来ることが出来るわけだ」
祭壇へと進み、祭壇の裏側にまわる。公爵が示した先の床に、黒曜石のプレートが埋め込まれてある。何かの文字が刻まれているのだが、あいにくトーマには読めなかった。
「これ、なんて書いてあるんですか」
「《偉大なる大賢者にして、世界の救済者ヨハン・フリードリヒ・ベトガー、ここに眠る》」
「ベドガーって、魔導工学を確立した……その人のお墓がここに?」
「そうだと言いたいが、残念ながら違うんだよ。この墓は遺体のない空墓だ。
あれほどの功績を残したにもかかわらず、ベドガーには墓がない。それどころか亡骸の行方すら分からないんだ」
ポケットからマッチを出して、燭台のろうそくに火をつけはじめた。
一つの燭台にろうそくが三本。左右合わせて四つの燭台に全てつけると十二本。まばゆい炎が黒曜石を煌々と照らす。と同時に、刻まれた墓碑銘が金色に輝き始めた。
「だがこの墓すらカモフラージュにすぎない。本当に価値のあるものは、この下に眠っているんだ。トーマ、この墓碑銘に手をかざしてくれないか」
「こう……ですか?」
言われたまま、金色の光りに手をかざす。その瞬間、ぞくりと身体の中をなにかが走り抜けるのが分かった。
身震いするトーマの目前で墓碑銘の光が消える――刹那、黒曜石の墓石が跡形もなく消え去り、床下に階段が姿を現した。
「マジかよ……」
唖然とするトーマの横で、公爵も息をのんでいる。どうやら彼も初めて見る光景らしい。
「これから先は、私も初めてだよ。行こう」
祭壇の燭台を手に、公爵が先に階段を降りはじめた。正直なところ狭くて暗い場所は苦手だ。それでも彼のあとに続き、地下へと足を踏み出す。
階段は思ったより長く続いていた。そろそろ不安になり始めた頃、公爵が
「どうやらこの扉の先らしい」
燭台を前方に突き出す。
照らされたのは頑丈な金属製の扉だ。中央にはめ込まれているのは特大サイズの《魔導回路》で、まんなかの水晶球がトーマの顔ほどもあった。
燭台の灯りに照らされた水晶が、鏡のようにトーマの顔を映している。
なぜだろう――。
困惑しながらトーマは考えた。
自分はこの扉を、どこかで見たことがあるような気がする。
そんなはずがない、自分はこの世界に来たのは初めてのはずだ。
もしかしたら夢のなかで――。
トーマは水晶球に両手を伸ばした。そっと包み込むように手のひらを押し当て、目を閉じる。まぶたの奥に幾筋もの光が走り、やがて全身が温かな空気に包まれた。
妙に懐かしい感じのする温もりだった。何故かは分からない。
周囲の空気が変ったのを感じて、ゆっくり目を開く。
* * *
焚いた香の匂いが鼻をついた。
暗闇のなかに下がったいくつもの飾り提灯が、淡い光りで室内を照らしている。
花鳥の描かれた屏風と、茶器の並んだ飾り棚、透かしの入った飾り戸。東洋風に飾られた豪奢な室内の奥、長椅子に寝転んでグラスを傾けているのが、件の女だった。
足元にいくつもの酒瓶が転がっていたが、すべてワインセラーから消えた年代物である。メイソンが見たなら顔色を変えたに違いない。
女と目が合い、緊張で汗が噴き出してきた。なんと声を掛けていいものか。迷っていると女の方が先に口を開いた。
「ようやく来たのか、待ちくたびれたわ。まあよい」
身体を起こし、足元の酒瓶をとってグラスに注いだ。彼女が頭を動かすたび、かんざしの飾りがさらさらと音を立てる。
「ここの酒は実に美味じゃ。つまみもなかなか良いものを揃えておる。おかげで良い暇つぶしができたわ。
舌の肥えた妾を満足させるとは、ここの屋敷の主人はたいしたものじゃの。ん……なんじゃ、おぬし、呆けた顔をしおって」
「いやその……そんなしゃべり方だったっけ?」
「なにがじゃ」
「いや、まえに会ったときは普通に話してたって思って」
トーマの言葉に、女は柳眉を寄せた。
「あほを言うでない。妾とお主は今が初対面、残念ながら人違いじゃ」
「は、はあ……」
そんなことがあるのだろうか。うり二つと言ってもいいのに。それともこっちの世界ではこんなすごい美人があちこちに生息しているのか。
「まあ、いい。その話はあとじゃ。ところでお主がこの時代の《継承者》のようじゃが、どうやらその顔を見ると、妾についてよく知らぬままここに来たようだの」
「その……旦那さまが、大切なものを誰かから預かったって聞いたんだけど」
「ほう、なら話は早い、さっそく受け取るが良い」
女の指先が己のみぞおちを探る。上体を反らし、己の身体から引き抜いたのは一振りの剣。
ぞんざいに投げて寄越されたものを慌てて受け取ると、トーマはそれを眺めた。
「妖剣・莫耶、かつて東の帝が血眼になって探し求めたという希代の名剣よ。しかしそれはただの剣ではない。蒼眼の持ち主、《継承者》にしか扱えないクセモノじゃ」
トーマは手の中にあるそれを仔細に観察する。
剣にしてはとても華やかな造りだった。
鞘と柄は木で出来ていたが、銀の細かな装飾が施されていた。
剣格(日本刀でいえばつばに当たる部分)も銀で、そこには花綱の模様が刻まれており、全体的に軽やかで女性的な印象を受ける。もしかして元々女性向けに作られたのかもしれない。
柄をひき、鞘から抜いた。剣身は青みがかった銀色で、浮き上がった波状の模様が、冷たく淡い輝きを放っている。
真冬の空にかかる月を思わせる美しさに、トーマはため息をついた。
「なんて奇麗なんだ」
「そうじゃろう、何しろ妾の依り代じゃからな」
「よりしろ?」
「さよう、莫耶というのは妾の名前でもある。妾はこの剣を正しく使うために作られた人工精霊、こっちの言葉で言えば使い魔のようなものじゃな。
さらに簡単に言えば、剣の素人であるお主の指南役であり、お守り役じゃ。分かったか」
「う、うん……」
「それとじゃな。継承にあたって、お主に良くない報せを言わなくてはならぬ」
莫耶と名乗った人工精霊は、そこで長い髪を払い、初めて暗い表情になった。
「行方知れずのわが半身、もう一振りの妖剣・干将のことじゃ」