白昼夢
音楽室は西棟の一階、南向きにあった。
音楽室という言葉から想像したより部屋はずっと狭く、中央に大きなピアノが一台据えてある。他には小椅子と背の高いテーブルが一つのみ。
「このピアノの前に立っていたの。私に背中を向けていたわ」
夫人に続いて、トーマとメイソン、フラウ・マイヤーと公爵が扉をくぐり、仔細に室内を検めた。
とはいっても、侵入者が隠れられそうな場所はない。公爵は庭に続く窓に顔を寄せ、鍵がかかっていることを確かめた。
置き時計が飾られた暖炉の上に、金枠の鏡が掛けられている。その鏡を見つめ、夫人は首を横に振った。
「まだ自分の目が信じられないわ。この部屋から出られるわけはないのに」
夫人が異変に気がついたのは《朝の間》でのことだった。
朝食のあとはいつもそこに居て、手紙を書き、昼食と晩餐のメニューを決め、必要な帳簿をつける。
あとはパーティーと催し物の招待状に目を通し、参加不参加を決め、礼状を書いた。
本来なら今日は、某伯爵夫妻を招いた昼食会を催す予定だったのだが、エルフリーデの誘拐騒動でキャンセルさせてもらった。
これが終わったら、久しぶりにピアノでも弾こうかしら――夫人が手紙を書く手を止め、そんなことを考えていたときだ。
扉が開き、掃除道具を抱えた下働きの女たちと、メイドのリーゼロッテが入ってきた。
「あら、奥さま、こちらのお部屋にいらしたのですか?」
机に向かっている夫人に気がつき、リーゼが驚いた表情になる。
「てっきり、音楽室にいらっしゃるのかと思って、今お部屋の片付けをしようかと」
音楽室?
一瞬、なにを言われたのか分からなかった。自分は朝食の後から、ずっとこの部屋にいた。
「その……」
掃除婦たちを下がらせたリーゼが、言いにくそうに言葉を継ぐ。
「さきほど西棟を通りかかったら、音楽室からピアノの音が聞こえたので、奥さまかと……」
「私ではないわ。ギュンターは……」
「ずっと書斎にいらっしゃいます」
「じゃあ、誰が……」
ちなみにこのとき、夫人は屋敷で起こっていた幽霊騒動のことはまだ知らなかった。
一方、リーゼは当の本人たちから話を聞いた立場である。まっさきに不吉な予想をしたのは当然のことだった。
「気になるわ。もし誰かがピアノを弾いているのだとしたら、確かめておかないと」
当然ながら、主人一家以外はピアノに触れることは厳しく禁じられている。
もし使用人の誰かが禁を犯してしまったのだとしたら、他の使用人たちの手前、それなりの処分をしなくてはならなくなる。
「奥さま、わたくしが確かめてまいります。もしかして物盗りかもしれません。危ないので奥さまは書斎に」
「物盗りがわざわざピアノを弾いて知らせるかしら。ギュンターは忙しい時間だし、わたしが確かめましょう。
そういえば、メイソンとフラウ・マイヤーがさっきから部屋をあちこち見ているようだけど、なにかあったの?」
リーゼは躊躇した。ここで昨夜の騒動を話すべきなのか。しかしさすがに幽霊という非現実的なことを話すのはためらわれるし、下手に話せばあとでメイソンに
――奥さまに余計なことを言って怖がらせるんじゃない。
と叱咤される恐れもあった。
「あのようなことが起こったあとですし、セキュリティを見直しているのです。お嬢さまも今日から学校に行かれましたし、よけいにお屋敷の防犯を考えなくてはと、メイソンさんが」
「そう、じゃああなたも一緒に来てくれる? 物盗りではないかもしれないけど、なるべく用心したいわ」
音楽室は西棟一階の端側にある。書斎からも離れているので、心置きなく奏でることが出来た。
行き方は二つあり、書斎の前を通るルートと、裏庭沿いの廊下を歩くルート。中央ホールからは裏庭沿いを歩く方が近く、窓からの眺めも良かった。
右に折れ、しばらく歩くと、たしかにピアノの音が聞こえてくる。夫人とリーゼはどちらからともなく立ち止まり、顔を見合わせた。
「奥さま、誰か手の空いた下僕を呼びましょう。もし……」
「いいのよリーゼ。これも女主人の仕事だもの。それにもし、使用人の出来心だとしたら、あまり事を大きくしたくないの」
二人は扉の前に立った。相変わらずピアノは鳴り続けていたが、構わずに夫人は把手に手を掛ける。
扉を押し開けると同時に音が止み、静寂があたりを支配した。
ピアノの傍に女が立っている。
こちらに背を向けているので顔は分からない。着ているドレスは黒くて丈が長く、垂れた袖の特徴的なシルエットから、東方の貴婦人が着るものによく似ていた。髪はつややかな黒で、腰に届くほど長い。
背後にいたリーゼロッテが息をのんだ。
いるべきではないものが、間違いなくここに居る。
それを理解したとき、夫人はゆっくりと後ずさりし、開けた扉を閉め直した。
把手に掛けたままの手が震えている。
「奥さま……」
「リーゼ、あなたはフラウ・マイヤーにこのことを報告して。くれぐれも他の人を怯えさせないように。私は書斎にいる夫に話します」
「は、はい……」
リーゼが去ってから、夫人は思い切って扉に耳を当ててみた。扉の向こうは無音で、己の鼓動だけが響いている。
確かめなければ――。
大きく息を吸い、把手を握っていた手に力を込めた。ゆっくりと扉を押し開き、隙間からなかをのぞき込む。
予想したとおり、女の姿は消えていた。
夫人は大きく息を吐き、部屋を見渡す。全てがいつも通りだった。柔らかく差し込む午前の日射しと、風に揺れる木々がつくる淡い影。
初めから何もかもが幻覚だったように。
* * *
「間違いなく、東方人の貴婦人に似ていた、のだね?」
「むかし、絵で見たことがあるけど、よく似ていたわ。袖が長く垂れていたから間違いないと思う」
「ふーむ」
公爵は額に手を当て、鏡を見つめたまま動かなくなった。まるで鏡のなかになにかを探しているようにも見える。
「旦那さま、どうかなさいましたか」
メイソンが訊ねると無言で首を振った。
トーマもその様子になにか違和感を覚える。そもそも、書斎で夫人の話を聞いたときから、心ここにあらずといった感じだった。きっかけは
女は東方風のドレスを着ていた――。
という夫人の証言だ。公爵は表情を一変させ、ひどく難しい顔で話の続きを聞いていた。
(あなた、なにか思い当たることがあるの)
夫人が訊ねても言葉を濁すだけ。当然ながら、その場にいた誰もがこう考えた。
――もしかして公爵は、その《幽霊》に心当たりがあるのではないか、と。
「メイソン、フラウ・マイヤーご苦労だった。この件についてだが、これまでのことは君たちの胸にしまっておいて欲しい。必要なときが来れば、私からいずれ話すことがあるだろう」
もの柔らかだが毅然とした口調で、公爵は二人に告げた。
「仕事に戻ってくれ、それからエリー」
妻の肩に優しく手を掛ける。
「一人で怖かったら、しばらくはリーゼと一緒にいなさい。私はこれからトーマと大切な話がある」
「私にも話してくれないの?」
「今はまだ……。だがすぐに話さなければならない時が来る」
「分かったわ。あなたを信じる」
夫の手を取り、甲に口づける。そして執事と家政婦長をともない部屋から出ていった。残ったのはトーマ一人だけ。
公爵と二人きりになり、ひどく落ち着かない気分になった。今年の二月に担任から進路指導室に呼び出された事を思い出す。
担任の名前は原田……いや、篠宮だっけ?
え……あれ……?
「さて、トーマ。君に話したいことがある」
トーマに向き直り、公爵が口を開いた。
「正直、君をこの屋敷に受け入れるのは迷いもあったよ。だが、エルフリーデが望んだことだったからね。
実は彼女には幼い頃から不思議なところがあるんだ。ときおり、突拍子もないことをしたり望んだりする。本人ですら《どうしてかは分からないけれど、それが必要だから》としか言えない」
公爵は天井を仰ぎ、言葉を継いだ。
「だが後から彼女の言うことは本当になった。それで実際に救われたこともある。だから君を下僕に迎えたいと言われたときも、迷いはしたがフリーデの言葉に従ったよ。それはどうやら、間違いではなかったらしい。ところで……」
公爵は人差し指を伸ばし、鏡を指さした。
「トーマ、鏡を見て欲しい。変ったものは映ってないかな」
言われるがまま、伯爵の指先の向こうへ視線を転じる。
鏡に映ったのはピアノと小椅子、廊下へ続く扉と人差し指を突き出す格好の公爵。
そして……。
トーマは呆然と鏡に映るそれを眺めた。
結い上げたつややかな黒髪、抜けるような白い肌。明るい琥珀色の瞳は、光りの加減で金色に輝いた。作り物みたいに整った長いまつげと鼻筋、赤い花びらみたいな唇。
あの女だった。
私を殺して欲しいの――。
望みを叶える約束と引き替えに、トーマは死の淵からよみがえった。
その彼女が。
赤い刺繍も鮮やかな黒い漢服に身を包み、鏡の向こうから悠然と、トーマを見つめていた。