深まる謎
食糧保管庫は台所の奥にあった。扉が大きく開かれて、なかの様子がうかがえたが、その光景にトーマとメイソンは絶句してしまった。
奥には大きな金属製の箱(おそらくこれが保冷庫だろう)が据えられているのだが、観音開きの扉が全開になり、白い冷気があたりに漂っている。
床は惨憺たるありさまで、卵が何個もぶちまけられ、蓋を開けられたジャムやマヨネーズの瓶が転がっている。
散乱したベリージャムの赤や紫、マヨネーズの白、卵の黄色。床はさながら現代アートのキャンバスだった。
「こ、こ、これは! なんということだ、いったい誰が」
「今朝、ヴァテルさんが朝食をつくったときは、なんともなかったのよ。あなたも知っているとおり、朝食の準備の後は、いったんここの扉は鍵をかける。鍵を持っているのは私とヴァテルさんだけ」
「なにか、なくなっているものはないのか」
「ヴァテルさんが調べたところ、生ハムとチーズ、ソーセージ、燻製肉がごっそりなくなっているの。酒盛りでもするつもりかしら」
執事は困惑した表情でフラウ・マイヤーと床を交互に眺めていたが、
「と、とにかく保冷庫の扉を閉めなさい。ところでヴァテルはどうしたのだ」
懐からハンカチを取り出し、額に浮いた汗を拭った。
「ヴァテルさんなら、ショックのあまり気を失いかけましたよ。今は向こうで休ませてます。彼が人一倍繊細だってこと、あなたも知っているでしょう?」
フラウ・マイヤーは腕を組み、憤然とした表情になる。
「絶対に幽霊なんかじゃないわ。幽霊が保冷庫をあさって食糧を持ち去るなんて、聞いたことない」
「たしかにそうだが……」
トーマは執事がなにを考えているのか分かった。
たしかに幽霊ではないのかもしれない、だとしても――。
「問題は鍵のかかった扉をどうやって開けたのか、ですよね」
トーマが言うと、メイソンは渋い顔をする。
「そのとおりだ。誰でも分かることだが」
「例えば……魔法で鍵を開けるって事は出来るんですか?」
「不可能ではないわ。でもこのお屋敷に限って言えば、不可能と言えるわね」
「この屋敷の扉には、全てそのような魔法を跳ね返す術が施してある。いつなんどき、そのような危険があるか分からないからな。
術は毎年、《王立神秘協会》から派遣された魔導士が完璧に仕上げてくれる。よほどのことがない限り、解除することはできないはずだ」
「そうですか……それは……」
フラウ・マイヤーは腰に下げた鍵束をトーマに見せた。
「だからこそ、私とメイソンさんも、分からなくて困っているのよ。鍵はいつもこうして、肌身離さず持ち歩いているのに」
「でも、熟練した泥棒はどんな鍵も開けられるって聞いたことがあります。そういった――」
「君は何も知らないのだ、トーマくん。この屋敷の鍵は、そんなことがないよう特別に作られている。そこらへんの代物とは出来が違うのだ。
ワインセラーも私の執務室も、この鍵でしか開かない。他に手段はないのだよ。だいたい君は、昨日ここに来たばかりだというのに、なにを探偵気分で」
「メイソンさん、彼を責めても仕方ないでしょう。お嬢さまから命じられたのよ」
「しかしだ、フラウ・マイヤー。冷静に考えれば、一番疑われるべきはこの男ではないのかね。
昨日まで何事も無かった屋敷に、彼が来たとたんおかしなことが起こる。彼が元凶だと考えるのは、ごく自然のことだとは思わんかね」
「もちろん、その可能性もあるでしょう。でも単なる偶然の一致かもしれない。それをはっきりさせるためにも、犯人を捕まえなくてはね。それでいいでしょう、トーマ」
「はい、この状況なら俺が疑われるのは、まあ、仕方ないですし……」
身をすくめたトーマに、メイソンは疑念の視線をそそぐ。
「まずは屋敷の探索だ。それから書斎へ行って、旦那さまにご報告しなければな。もしろくでもない事を企んでいるのなら、今のうちに白状した方が身のためだぞ」
* * *
アッシェンバッハ公爵家当主、ギュンターは常日頃公正であることを心がけていた。
偏見をなるべく廃し、ありのままを認めること。
相手が王侯貴族であろうが使用人であろうがそれは変らず、等しく言い分に耳を傾け、時には優しく、時には厳しく接する。
彼のこうした態度は多くの者たちから信頼と敬意を寄せられ、特に皇太子フェリックスの覚えはめでたかった。
書斎でメイソン、フラウ・マイヤー、そして最後にトーマからの話を聞く。
話を聞きながら、公爵は記憶をなくしたという東方人の少年を眺めた。
たしかに彼がこの屋敷に来たとたん、おかしな出来事が起こった。しかし、フラウ・マイヤーの言うとおり、単なる偶然の可能性がある限り、彼を犯人扱いすることは出来ない。
「怪しい人物はいなかったと。それで、外から誰かが入り込んだ形跡はないのかね」
公爵の質問にメイソンはうなずいた。
「手の空いている者を総動員して、屋敷じゅうの窓を調べました。なかからきちんと鍵がかかっておりましたし、こじ開けた形跡もありません」
「では、彼が誰かを手引きして屋敷に引き入れたという可能性は消えたわけだ」
彼――というのはトーマのことだ。
「たしかに、それは……」
「その……お尋ねしてもよろしいですか?」
おそるおそる手を挙げたトーマに、公爵は笑顔を見せた。
「なんでも聞きたまえ、私の知る限りのことを答えよう」
「メイソンさんに、このお屋敷の扉には術がほどこしてあると聞きました。鍵を開ける魔法がきかないと」
「そうだよ、万が一のことを考えてね。このとおり大きな屋敷で、盗まれるようなものだらけだ。
ところで、君は知っているのかな。この国で魔法が使えるのは、《王立神秘協会》が認定した魔導士だけということを」
「ええと、少しだけ。カートさんに聞きました」
「この国で魔法は厳しく使用が制限されているんだ。魔法が使えるのは魔導回路を人体に埋め込んだ魔導士と、上級秘儀解読者と呼ばれる、協会の上級幹部だけになっている」
「あ、アデプタス……?」
初めて聞く言葉に、トーマは目をしばたたいた。
「上級秘儀解読者。生まれつき高い魔力を持った人間で、小さい頃に協会に見いだされ、長い時間を掛けて知識と秘儀を伝えられる。
いわゆる昔ながらの魔術師で、魔導回路なしで魔法を使える者たちだ。
しかし、彼らが表立って姿を現すことはほとんどない。彼らの行動はきびしく制限されて、主に、研究所とよばれる場所でシジルの研究と製作を担っている。この国の魔導を支える存在と言っていい」
公爵はそこで暗い表情になった。
「ところが、最近、このシジルが闇市場に流れて、高額で取引されている。もちろん作られたのは研究所ではない、質の悪い偽物だ。
だが、やっかいなことに、手のひらへの簡単な埋め込み手術でお手軽に魔法が使えてしまう。
効果はたいてい一度だけ。だが腐っても魔法だ。この偽シジルを使った犯罪が、さいきん王都で増えていて、私も頭を悩ませているんだよ」
トーマの脳裏にある光景がひらめいた。
あのとき、奴隷商人から逃げ出して、馬車にひかれそうになった。飛び出したエルフリーデ、銃弾に倒れる老女。そして。
老人だった御者がそばかすだらけの若者に変化した。やけに目つきが悪くて、あのとき、たしかこう言っていた。
――ちっ、効力がきれたか。
「も、もしかして! お嬢さまの誘拐は」
「そのとおり、おそらく偽シジルを使ったのだろう。やはり効果が長持ちしなかったようだが。そのあと、まんまと別の隠れ身の魔法で逃げおおせてしまった。今も探しているが、見つけるのは至難の業だろうね」
「でも、その偽物は……いったい誰が作っているんですか?」
とたんに公爵の表情が固くなった。手のひらを額にあて、悲しげな口調で告げる。
「申し訳ない、トーマ。私が知りうることは答えると言ったが、これだけは除外させてくれないか。あまりおおっぴらに出来ないことでね。もっとも、もし必要だと判断するときが来たら、その時には君に打ち明けよう」
「わかりました。それで、俺が聞きたかったのは」
トーマは話を元に戻した。
「窓からではなく、正面玄関から入った可能性はないですか。たとえば、姿を隠す魔法で、誰かと一緒に入ってきたってことは」
「なるほど、そういう手もあるか」
「旦那さま、こんな愚問に付き合う必要はありません」
執事のメイソンが、我慢がならないという口調で言った。
「いいかトーマくん、この屋敷の入り口、使用人口、ならびに人の出入りする扉には、鍵開けの魔法と同様に、姿隠しの魔法を無効化する術が仕込んであるのだ。
もし不遜な輩が姿を隠してこの屋敷に侵入しようとしても、たちまち魔法が無力化され、無様な姿を現すことになる。
君はこの屋敷のセキュリティを舐めているのかね、全てこの私が、責任を持って管理していることだ」
「す、すみません、そういうつもりじゃ……」
「メイソンさん、落ち着いて。でもそれなら、ますます謎が深まるばかりね。だれもこの屋敷に侵入していないとしたら、あの女の笑い声はいったい……。
少なくとも、メイドたちを驚かせたのはトーマでないことは確かですもの」
フラウ・マイヤーがため息をつく。同時にメイソンも自分の抱えた問題に気がついた。
つまり、執事である自分の仕事に穴がないと考えれば考えるほど、トーマが元凶である可能性も低くなってしまうのである。
「フラウ・マイヤーの言うことはもっともだ。この件は、常識的に考えれば不可解なことが多すぎる。とにかく、悪い噂がたつことは避けたい。
それと怯えてしまったメイドたちは、今日はゆっくり休ませてあげなさい。それから」
公爵が言いかけたところで、書斎の扉が開く。入ってきたのは夫人だったが、
「あなた……メイソン……」
怯えきった表情が全てを物語っていた。顔色は青ざめ、おぼつかない足取りは今にも倒れそうだ。
「エリー、いったいどうした」
慌てて駆け寄った夫に、エリザベスはすがりついた。
「音楽室に……いたのよ……知らない女の人が……」