幽霊騒動
「やっぱり、はじめからお前と二人きりにするべきじゃなかった。これは私の判断ミスよ。申し訳なく思ってるわ……ってなによ、そんな呆けた顔して」
ふくれっ面のフリーデに、トーマは顔の前で手を振ってみせる。
「いや、絶対謝らないタイプだなって、思ってたから」
「自分が間違ったと思ったら、いくら私でも謝るわよ。特にクラリスのことはね」
フリーデは小さなため息をつく。
「クラリスはシルヴァ族の出身なの。彼らはずっと紅蘭民に虐げられていた。
三年前の国境戦で、自治区が解放されるまではね。だから東方人への遺恨は深い。この屋敷に勤める他の誰よりも」
あの憎しみに満ちた視線はそういう訳だったのか。トーマはようやく腑に落ちた。
「お前を下僕に迎えるとき、彼女にも猛反対されたわ。でも私は言ったの。
たとえお前が紅蘭民の人間だったとしても、奴隷として売られかけて、私のことを見て見ぬふりをして、そのまま逃げることも出来た。
でもお前はそうしなかったし、撃たれて死にかけた。そんなお前をだまって奴隷商人たちに引き渡すような、恩知らずなマネをさせるのかって」
東の空からゆっくりと宵闇が迫ってきていた。
「それでクラリスも、一度は納得してくれていたはずなのだけど。でも私が甘かったのね。こればかりは時間を掛けるしかなさそう。
だけど、お前に危害を加えることは二度と許さないと、それだけははっきり言ったから。安心していいわ」
「そうか……ありがとう」
「礼にはおよばないわ。それからもう一つ、私の両親をどう思った?」
「どうって……」
なんと言っていいのか答えに窮した。しばらく考え、
「思ったよりすごい親切で、ええと、あとは……美男美女だなって」
「たしかにそうね、でも私と母、似てないと思わなかった?」
そう言われてトーマは公爵夫人の顔を思い浮かべた。
髪は濃い栗色、顔は……美術の画集で見た聖母に似ていた。優しさと慈しみが溢れた美貌で、たしかにエルフリーデには似ていない。
「この屋敷で働いていれば、いつかは耳に届くと思うから、先に言っておくわね。
私は母とは血が繋がっていないの。噂では父が舞台女優に産ませた子って言われているけど、それもどうかしら」
まるで他人のことのように、エルフリーデはあっさり言ってのける。
絶句したのはトーマの方だ。
それってつまり公爵が他の女性と不倫して、子どもを産ませて、それがエルフリーデってことで……。
「もちろん、あくまでも噂。父と母には長いこと子が出来なかった。でもある日、赤ん坊の私が現れた。親類縁者も、使用人たちも、私が誰の子なのか全く知らないの」
フリーデは首をすくめてみせた。
「でも見ず知らずの子どもを引き取るわけがない。だから噂がひとり歩きよ。舞台女優、どこかの貴族の娘、昔やめた使用人……。母にとっては大層な屈辱だったでしょうね」
うーむ、何一つ傷のない夫婦にみえて、そんなドロドロがあったとは。
しかし、夫人のフリーデへの態度は愛情深い母親のそれで、そこには一点の曇りもないように思えたのだが。
「お前には分からないかもしれないけど、貴族の男たちは愛人を作る自由があるの。それが高貴に生まれた者の特権だから。
それは母も理解しているし、私も父を非難する気はないの。でも、子が出来なかった母は複雑だったと思う」
たしかにそうだろう。もしトーマの父がそんなことになったら、母に殺されかねない。
「でも母は私を本当の娘として育ててくれた。愛情を惜しみなく注いでくれたわ。私はとても感謝してるし、母を尊敬している。
だから父は当然のこと、母には私のように心を尽くしてほしい」
「うん、分かった……じゃなくて、はい」
「そろそろ寒くなってきたわね。戻るわよ。着替えをしなくちゃ」
* * *
トーマは晩餐の準備を手伝わされ、主人一家が書斎に引き上げてから、ようやく遅い夕食を取った。
自室に引き上げ、ベッドに横たわったときはくたくたで、夢も見ずに眠りこける。
翌朝、起きたときは妙に気分がすっきりしていた。
昨日の疲れも残らず、身体がやけに軽い。窓の外はまだ暗かったが、うるさく鳴らされる起床のベルが、爽やかにすら聞こえるほどだ。
一方カートはむっつりした表情で
「お前、朝得意なんだな。俺は昔っから寝起きが悪くて」
「そうでもないんですけどね。でも、不思議なくらい、今朝は目覚めがいいんです。今日はなんだかいいことがありそうな気がします」
呑気に笑うトーマだったが、彼はまだ知らなかった。この屋敷で起こっていたある騒動に。
同時刻。
まだ暗いなか、メイドならびに下働きの娘たち数名が、寝間着のまま家政婦長のフラウ・マイヤーに泣きながら訴えていたのだった。
彼女たちの証言はこうだ。
一人のメイドがふと目を覚ますと、廊下から女がぶつぶつとなにごとか呟くのが聞こえた。
誰だと思って燭台の火をともし、扉を開けてのぞき込んでみたが、廊下は無人である。
扉を閉め、燭台の灯を消してベッドに戻ると、またつぶやき声が聞こえた。そればかりでなく、ときおりクスクスと笑い声まであげている。すっかり怯えたメイドは同室の娘たちを起こした。
寝ているところを起こされた三人は、最初その話を信じなかった。そのメイドが、普段からちょっとした嘘をつく常習犯だったからだ。
本当なんだって、間違いなく廊下にいる。
つまらないことに付き合わせないでくれる? 明日も早いんだから。
そんなやりとりは、突如ノックの音によってさえぎられた。
コンコンコン。
息をのみ、身体をすくませる娘たち。沈黙のあと、ふたたび扉が叩かれ、娘たちはパニックに陥った。再びの沈黙、一番年かさの娘が意を決して勇気を振り絞り、扉を開ける。
誰もいない。そして――。
困惑する娘の目前で扉が勢いよく閉まり、風もないのに燭台の蝋燭が消えた。
あはは。
あざけるような女の笑い声が闇に響く。
一斉に悲鳴を上げた娘たちが、裸足のままフラウ・マイヤーの元へ駆け込んだのはそういう訳だった。
* * *
「ばかばかしい、幽霊なんて」
話をクラリスから聞いたエルフリーデは、開口一番に言った。
「そりゃあ、古い屋敷だし、死んだ人間も少なくないわ。でも昨日までなんともなかったのに、いきなり出るなんておかしな話ね。集団幻覚とやらじゃないの」
「そうであればいいのですが。話を聞いた他のメイドたちが怯えています。それに私も彼女たちから話を聞きましたが、嘘を言っているように見えませんし。幻覚ならなにか原因があるはずです」
屋敷の朝食は毎朝七時。
これはダイニングルームではなく、庭が見えるサンルームに席が設けられ、家族全員がそろう。
しかしフリーデは食後の紅茶は自室でとるのが習慣で、その朝もお気に入りの長椅子に座り、クラリスが入れた茶をすすりながら話を聞いていた。
トーマと言えば銀盆を手に、彼女の傍に立っているだけだ。
「ふうん。メイソンはなんて言っているのかしら」
「それが……たしかにおかしな事はあったそうです」
口調にクラリスの困惑がにじんでいた。
「メイソンさんによれば、たしかにしっかりと締めたはずのメイソンさんの執務室が、朝になって開いていたそうです。ご存知の通り……」
「鍵はメイソンが持っていて、開くはずがない」
「さようです。その他にも……」
「まだ何かあるの?」
「地下のワインセラーの扉も開いていて、瓶が数本、なくなっているのだそうです。扉の鍵は……」
「メイソンが持っている」
「はい。メイソンさんが、うっかり鍵をかけ忘れていたのなら別ですが」
「メイソンに限って言えば、それはあり得ないわね」
エルフリーデは真面目な表情になり、考え込む。
メイドの訴えだけならまだ半信半疑だが、メイソンまでが奇妙な証言をしている。ただの集団幻覚で片づけられる話ではなさそうだ。
「お父さまもお母さまも、朝食のお席ではなにも仰ってなかったわ」
「おそらく、まだご存知ではなかったかと」
「どうされるおつもりかしら。この件」
「わかりません。それよりお嬢さま、そろそろお出かけになりませんと」
「そうね、遅刻する訳にはいかないわ。昨日おとといと休んじゃったし」
誘拐されそうになったというのに、今日からいつも通り登校するらしい。
大丈夫なのかと訊ねたトーマに、クラリスがいるから平気だと涼しい顔で答えた。
「それからトーマ、この幽霊騒ぎの件だけどお前に任せたいの。メイソンには私から言っておくから、屋敷のあちこちを探索して、怪しい人間がいないか確かめて欲しい。
お前にはこの屋敷を自由に出入りする許可を与えるから、しらみつぶしに調べなさい」
飲み終わったカップと受け皿をトーマの差し出した銀盆に置き、立ち上がる。
「お嬢さま、それには旦那さまの許可をいただきませんと。いくらなんでも新参者に、そこまで……」
「入られて困る部屋には、お父さまが厳重に鍵を掛けている。もっとも幽霊には関係ないかもしれないけど」
クラリスから鞄を受け取り、なかば挑戦的な視線をトーマに投げかける。
「お前は幽霊を信じる?」
「いえ、そういうのは、あんまり……」
「いいわね、私もそうよ。必ずなにかトリックがあると思っているわ」
玄関先でフリーデがクラリスと一緒に《V300型》へと乗り込み、去って行くのを見送った。
「それで、君はどうこの騒動を調べるつもりだね」
背後からメイソンに声を掛けられる。内心、お嬢さまの気まぐれにも困ったものだ――そう考えているのは明らかだ。
トーマは振り向き、
「とりあえず、旦那さまにいろいろ伺いたいです。お部屋を探索する許可も、もらわないと」
「ふん、礼儀知らずではないようだ。言っておくが、君が屋敷をうろつくときは私も同行する。一人にはさせんからな」
屋敷へ戻ると、フラウ・マイヤーが珍しく厳しい顔になり、中央ホールで二人を待っていた。
「ちょっと、食糧保管庫に来て欲しいの。自分の目が、とても信じられないわ」
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